火葬を終えると、母さんはとても小さくなって数年ぶりに自宅に帰ってきた。業者と話合いをした際、「家にあっても仕方がない。散骨でいい」と父が言い出したため、私たちは慌てて、自宅に引き取りたい旨を業者に伝えた。父が好きにしろと言ったので、遺骨は弟と二人で分けることにした。
私は、母さんを自室の鏡台に飾った。母さんは水色が好きで、よく空を見上げている人だった。だから、母さんを包む風呂敷は淡い水色を選んだ。
「おかえり」
当然、何の返事も返ってこない。
通夜、告別式、火葬と段階を経たのに、母さんが亡くなった事が未だに現実として受け入れられない。目の前の、この小さな箱が母さんだなんて、悪い冗談みたいだ。きっと本当は、空の水色に溶けたのだ。
母さんは、私を産んだ事を後悔していたのだろうか。
怖くて一度も尋ねないまま、逝ってしまった。
せめて最期くらいは幸せな夢を見せる事ができたことを祈る。
辛くなった私が、冷たい飲み物でもと一階に降りると、ソファで父が寛いでいた。母さんが亡くなったというのに、パソコンでチャートを開きつつスマホをイジっている。
瞬間的に、怒りが沸点に到達した。
「……何をされているのですか」
父はこちらを向くと、「見て分からないのか」と不思議そうな顔を浮かべた。
「この間暇つぶしに買った銘柄が突然上がってな。それで今、売り時を見ている所だ」
珍しく機嫌が良さそうな父の態度に、私は拳を強く握り締める。
「……そういう事を聞いたのではありません」
「では何だ」
「母さんが亡くなったんですよ。貴方の妻ですよ。何も思わないんですか」
冷静に尋ねようと思っていたが、口にするうちに怒りが抑えきれなくなり、早口になっていった。そんな私を、父は珍しいものでも見るかのような目で見つめてくる。
そして、口を開いた。
「それは、思わないだろ」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
この男の言っている意味が理解できなかった。
「妻といっても戸籍上の話だ。俺にとっては赤の他人みたいなものだな」
男は、当然のように続ける。
「お前だって、知らない人間が死んだ所で何も思わんだろ」
思わず息を呑んだ。
こいつの世界に、母さんはずっといなかったんだ。
母さんは、ずっとお前を待っていたんだぞ。
『嬉しい』
幸せそうな顔が浮かんだ。
「……母さんは、お前の所為で死んだんだ。お前が殺した」
「薬のせいだろ。あれが死んだのは」
全く意に介さない顔で男は言い放った。
どうして話が通じないのだろう。
どうして母さんは、こんな奴を愛していたのだろう。
どうして母さんが……。
「お前が……」
自分の声が震える。
「……お前が死ねばよかったんだ」
とうとう言ってしまった。
けれども、これが私の本心だった。
世の中が不公平だと分かっているが、いつもどこかで、こんなのはおかしいと思っていた。
私は不公平の象徴のような男を睨みつける。
男が一つまばたきをすると、その瞳に光が宿った気がした。
「京本が生きているからな」
そう言って、笑みを返した。
この男の笑みを真正面から見たのは何時以来だろうか。
背筋を冷たいものが駆け抜ける、酷く気味の悪い笑顔。
「あいつが死にたくなったら、そのときは当然、俺も死ぬさ」
自分の目が見開く。
こいつは、何を言っているんだ?
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。昔、京本と二人で何度も試した」
男は、私の全身をゆっくりと見る。何かと照合しているかのような視線に肌が粟立ち、私は男から目を逸らした。
「丁度、今のお前くらいの頃だ」
全身が凍りついた。
今の私。
自分が投影に使われている事が不快で堪らなく、この場から逃げ出したくなる。
恐る恐る視線を戻すと、「懐かしいな、もう二十年程も前なのか」と、男はしみじみと頷いた。
「どうして……」
異常な告白を聞き、思わずそう聞き返していた。
私の問いを耳にすると、よくぞ聞いてくれたとばかりに男は目を細める。
「京本の奴がな、毎回泣くんだよ。怖い怖いって」
男は、少し眉を下げて、困ったように声を上げて笑った。
「そう言われたら、仕方ないだろ」
怒りや気持ち悪さを通り越して、もはや恐怖を覚えた。
先生しか、この男の心を動かす事ができないのだ。
心中を図った理由やそれぞれが家庭を持った理由、先生への異常な執着、尋ねたい事は山程ある。けれども、これ以上立ち入ることが、この上なく怖い。
黙ってしまった私を男はじっと見つめていたが、ふと何かを思い出したのか、私に問いかけてきた。
「お前、京本の息子に手を出しているだろ」
自分の肩が大きく跳ねる。
「いや、お前たちか? まあ、いい」
「……嫌な言い方はやめろ」
私が反抗すると、「まだなのか」と男が小さく呟くのが聞こえた。
「どういう意味だ」
男は何故か哀れむような目を向けてきた。この男から初めて向けられる種類の表情に動揺すると、世話が焼けるとでも言うように溜息をつく。
「京本が最近ボヤいているんだ。優希くんがお前たちと仲良しで怖いって」
助手席に座っていた先生を思い出した。
「どうにかしてくれと頼まれたが……こういうものは、本人たちの意思が第一だろう?」
言葉に悪意を感じる。
何が本人たちの意思だ。面白がっているだけだろ。
私たちは普通の友人同士。
お前たちみたいな色狂いと同じにするな。
怒りが沸いてくるが、それよりも、先生が私とユウを引き離そうとした事がショックだった。
先生、どうしてですか。
不倫がバレてしまう事を恐れたのですか。
「羨ましかったのか?」
何を言われたのか、分からなかった。
私がまばたきを繰り返すと、男は同じ台詞をもう一度口にした。
羨ましかったのか。
何が。
誰を。
誰が。
「お前なんかを羨む訳ないだろっっ」
気がつくと、私は大声で怒鳴っていた。
その音に、窓ガラスが怯えるように震える。けれども、真正面からそれを浴びた男は、何食わぬ顔をしていた。
「知っているぞ」
ギクリと身体が強張る。
男は階段の方角にちらりと目をやると、挑むように私を見た。
何処か嗜虐的なその表情に、心臓が早鐘のように鳴り始める。
嫌な予感がする。
「俺たちの事、見ていたんじゃないか」
当たった。
私は男から視線を逸らした。
嫌な予感が的中した筈だというのに、何故だろうか、私は少し安心もした。
「何のこと」
「俺はお前たちよりも前から、この家に住んでいるんだぞ? どんな構造をしているかなんて、お前たちより詳しいに決まっているだろ」
「あっ……」
指摘されて、自分の愚かさに気がついた。
この男の言う通りだった。
「でっ……でもっ、そっちの部屋からは見えないはず」
「ああ。確かに見えない。でも、お前たちがあの部屋に頻繁に出入りしているのは知っている。あのスクリーンも度々上がったままだった」
「鍵は」
「ここは俺の家だ」
生唾を飲み込んだ。
私たちは、一方的に見ていたのではない。
私たちが見ていたのと同時に、この男は私たちに見せていたのだ。
だって、私たちが見ていると知ったなら、普通は会う部屋を変えるはず。
そうとも知らずに私は。
「京本は知らないがな。きっと知ったら泡吹いて倒れるぞ」
クスクスと悪戯っぽく笑う姿は、何処かで見たことのあるものだった。
先生は知らない。という事は、この男の単独犯。
でも、どうして。
どうして、私たちに見せた。
ニヤけた顔をしたまま、男は私に問いかける。
「どうして見ていた」
「……お前たちが如何に醜悪か確認するため」
「どうだか」
男は鼻で笑うと、ソファから立ち上がり、私に近づいてきた。反射的に後退りそうになるも、拳を握り締め、人差し指に親指の爪を強く食い込ませて耐えた。
「そのうち、分かる」
私にそう告げると男はダイニングへ向かい、ワインセラーから一本のボトルを手にした。慣れた手つきでグラスに注ぐと、美味しそうに喉を上下させる。
キザったらしい仕草が似合う男だ。
私は冷ややかな目で眺める。
母さんは、これに騙されてしまったのだろうか。
「一度味わってしまうとな、後戻りできないんだ」
「死ね」
私はそう言い残し、立ち去ろうと階段へ足を運ぶと、背後から男の笑い声が聞こえてきた。振り返らずに階段を上り、自室へ向かう。
悔しくて堪らない。
言われた言葉の全てを、忘れ去ってしまいたかった。
そんな言いようのない不快感の中、どうして父さんは私に興味を持ったのだろう、そういう疑問が頭を掠めた。
自室に戻ると、ベッドに寝転がりスマホでトークアプリを開いた。特に彼からの連絡はない。スクロールして、会話履歴をぼんやり眺める。
何も考えたくない。
ただ、この言いようのない虚無感を埋めたかった。
私は、母さんを自室の鏡台に飾った。母さんは水色が好きで、よく空を見上げている人だった。だから、母さんを包む風呂敷は淡い水色を選んだ。
「おかえり」
当然、何の返事も返ってこない。
通夜、告別式、火葬と段階を経たのに、母さんが亡くなった事が未だに現実として受け入れられない。目の前の、この小さな箱が母さんだなんて、悪い冗談みたいだ。きっと本当は、空の水色に溶けたのだ。
母さんは、私を産んだ事を後悔していたのだろうか。
怖くて一度も尋ねないまま、逝ってしまった。
せめて最期くらいは幸せな夢を見せる事ができたことを祈る。
辛くなった私が、冷たい飲み物でもと一階に降りると、ソファで父が寛いでいた。母さんが亡くなったというのに、パソコンでチャートを開きつつスマホをイジっている。
瞬間的に、怒りが沸点に到達した。
「……何をされているのですか」
父はこちらを向くと、「見て分からないのか」と不思議そうな顔を浮かべた。
「この間暇つぶしに買った銘柄が突然上がってな。それで今、売り時を見ている所だ」
珍しく機嫌が良さそうな父の態度に、私は拳を強く握り締める。
「……そういう事を聞いたのではありません」
「では何だ」
「母さんが亡くなったんですよ。貴方の妻ですよ。何も思わないんですか」
冷静に尋ねようと思っていたが、口にするうちに怒りが抑えきれなくなり、早口になっていった。そんな私を、父は珍しいものでも見るかのような目で見つめてくる。
そして、口を開いた。
「それは、思わないだろ」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
この男の言っている意味が理解できなかった。
「妻といっても戸籍上の話だ。俺にとっては赤の他人みたいなものだな」
男は、当然のように続ける。
「お前だって、知らない人間が死んだ所で何も思わんだろ」
思わず息を呑んだ。
こいつの世界に、母さんはずっといなかったんだ。
母さんは、ずっとお前を待っていたんだぞ。
『嬉しい』
幸せそうな顔が浮かんだ。
「……母さんは、お前の所為で死んだんだ。お前が殺した」
「薬のせいだろ。あれが死んだのは」
全く意に介さない顔で男は言い放った。
どうして話が通じないのだろう。
どうして母さんは、こんな奴を愛していたのだろう。
どうして母さんが……。
「お前が……」
自分の声が震える。
「……お前が死ねばよかったんだ」
とうとう言ってしまった。
けれども、これが私の本心だった。
世の中が不公平だと分かっているが、いつもどこかで、こんなのはおかしいと思っていた。
私は不公平の象徴のような男を睨みつける。
男が一つまばたきをすると、その瞳に光が宿った気がした。
「京本が生きているからな」
そう言って、笑みを返した。
この男の笑みを真正面から見たのは何時以来だろうか。
背筋を冷たいものが駆け抜ける、酷く気味の悪い笑顔。
「あいつが死にたくなったら、そのときは当然、俺も死ぬさ」
自分の目が見開く。
こいつは、何を言っているんだ?
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ。昔、京本と二人で何度も試した」
男は、私の全身をゆっくりと見る。何かと照合しているかのような視線に肌が粟立ち、私は男から目を逸らした。
「丁度、今のお前くらいの頃だ」
全身が凍りついた。
今の私。
自分が投影に使われている事が不快で堪らなく、この場から逃げ出したくなる。
恐る恐る視線を戻すと、「懐かしいな、もう二十年程も前なのか」と、男はしみじみと頷いた。
「どうして……」
異常な告白を聞き、思わずそう聞き返していた。
私の問いを耳にすると、よくぞ聞いてくれたとばかりに男は目を細める。
「京本の奴がな、毎回泣くんだよ。怖い怖いって」
男は、少し眉を下げて、困ったように声を上げて笑った。
「そう言われたら、仕方ないだろ」
怒りや気持ち悪さを通り越して、もはや恐怖を覚えた。
先生しか、この男の心を動かす事ができないのだ。
心中を図った理由やそれぞれが家庭を持った理由、先生への異常な執着、尋ねたい事は山程ある。けれども、これ以上立ち入ることが、この上なく怖い。
黙ってしまった私を男はじっと見つめていたが、ふと何かを思い出したのか、私に問いかけてきた。
「お前、京本の息子に手を出しているだろ」
自分の肩が大きく跳ねる。
「いや、お前たちか? まあ、いい」
「……嫌な言い方はやめろ」
私が反抗すると、「まだなのか」と男が小さく呟くのが聞こえた。
「どういう意味だ」
男は何故か哀れむような目を向けてきた。この男から初めて向けられる種類の表情に動揺すると、世話が焼けるとでも言うように溜息をつく。
「京本が最近ボヤいているんだ。優希くんがお前たちと仲良しで怖いって」
助手席に座っていた先生を思い出した。
「どうにかしてくれと頼まれたが……こういうものは、本人たちの意思が第一だろう?」
言葉に悪意を感じる。
何が本人たちの意思だ。面白がっているだけだろ。
私たちは普通の友人同士。
お前たちみたいな色狂いと同じにするな。
怒りが沸いてくるが、それよりも、先生が私とユウを引き離そうとした事がショックだった。
先生、どうしてですか。
不倫がバレてしまう事を恐れたのですか。
「羨ましかったのか?」
何を言われたのか、分からなかった。
私がまばたきを繰り返すと、男は同じ台詞をもう一度口にした。
羨ましかったのか。
何が。
誰を。
誰が。
「お前なんかを羨む訳ないだろっっ」
気がつくと、私は大声で怒鳴っていた。
その音に、窓ガラスが怯えるように震える。けれども、真正面からそれを浴びた男は、何食わぬ顔をしていた。
「知っているぞ」
ギクリと身体が強張る。
男は階段の方角にちらりと目をやると、挑むように私を見た。
何処か嗜虐的なその表情に、心臓が早鐘のように鳴り始める。
嫌な予感がする。
「俺たちの事、見ていたんじゃないか」
当たった。
私は男から視線を逸らした。
嫌な予感が的中した筈だというのに、何故だろうか、私は少し安心もした。
「何のこと」
「俺はお前たちよりも前から、この家に住んでいるんだぞ? どんな構造をしているかなんて、お前たちより詳しいに決まっているだろ」
「あっ……」
指摘されて、自分の愚かさに気がついた。
この男の言う通りだった。
「でっ……でもっ、そっちの部屋からは見えないはず」
「ああ。確かに見えない。でも、お前たちがあの部屋に頻繁に出入りしているのは知っている。あのスクリーンも度々上がったままだった」
「鍵は」
「ここは俺の家だ」
生唾を飲み込んだ。
私たちは、一方的に見ていたのではない。
私たちが見ていたのと同時に、この男は私たちに見せていたのだ。
だって、私たちが見ていると知ったなら、普通は会う部屋を変えるはず。
そうとも知らずに私は。
「京本は知らないがな。きっと知ったら泡吹いて倒れるぞ」
クスクスと悪戯っぽく笑う姿は、何処かで見たことのあるものだった。
先生は知らない。という事は、この男の単独犯。
でも、どうして。
どうして、私たちに見せた。
ニヤけた顔をしたまま、男は私に問いかける。
「どうして見ていた」
「……お前たちが如何に醜悪か確認するため」
「どうだか」
男は鼻で笑うと、ソファから立ち上がり、私に近づいてきた。反射的に後退りそうになるも、拳を握り締め、人差し指に親指の爪を強く食い込ませて耐えた。
「そのうち、分かる」
私にそう告げると男はダイニングへ向かい、ワインセラーから一本のボトルを手にした。慣れた手つきでグラスに注ぐと、美味しそうに喉を上下させる。
キザったらしい仕草が似合う男だ。
私は冷ややかな目で眺める。
母さんは、これに騙されてしまったのだろうか。
「一度味わってしまうとな、後戻りできないんだ」
「死ね」
私はそう言い残し、立ち去ろうと階段へ足を運ぶと、背後から男の笑い声が聞こえてきた。振り返らずに階段を上り、自室へ向かう。
悔しくて堪らない。
言われた言葉の全てを、忘れ去ってしまいたかった。
そんな言いようのない不快感の中、どうして父さんは私に興味を持ったのだろう、そういう疑問が頭を掠めた。
自室に戻ると、ベッドに寝転がりスマホでトークアプリを開いた。特に彼からの連絡はない。スクロールして、会話履歴をぼんやり眺める。
何も考えたくない。
ただ、この言いようのない虚無感を埋めたかった。
