閉鎖生態系ver.2.0

 六限後の休み時間、スマホを確認すると一件の着信履歴が残されているのに気づいた。母さんのいる病院からだった。その文字を見た瞬間嫌な予感がして、教室を飛び出し校舎から出ると、ひとけのない所で掛け直した。
 嫌な予感というものはよく当たるもので、母さんの容態が急変したという連絡だった。今日明日が峠かもしれないと言われた私は、アプリで弟と父に報告すると、一目散に職員室へ向かい事情を説明し、七限を受けずに早退した。
 病院に駆け込むと、息を切らせた私に、顔馴染みの看護師たちが哀れむような視線を向けてきた。
 ああ。母さんは、本当にもう。
 病室の前で動けなくなった私に、看護師が優しく声を掛ける。
「お母さん、今とても落ち着いているから」
「……はい」
 頷くと、彼女は扉を開いた。
 その光景を見た瞬間、その意味を理解した。
 夕焼けのオレンジに染まる病室の中、母さんは穏やかに微笑んでいた。髪は栄養を失い、腕の皮膚には骨が浮き出ている。一目見て死が近いと分かるのに、その横顔はどこか少女めいたものを思わせた。
「……母さん」
 話し掛けるも、こちらを見ない。私は、ゆっくりと母に近づいた。すると、やっと私に気がついたのか、母さんが頭を緩く動かした。そして私を見ると、途端に花が咲いたかのように満面の笑みを浮かべた。
 母さんだ!
 昔の母さんに戻ってくれたんだ!

「母さ」
「悠星さんっ」

 えっ?
 母さんが口にした言葉が、一瞬理解できなかった。
 悠星。
 父の名前だ。
「悠星さん、来てくれたのね。妃奈子、待ってたんだから」
 混乱する私の隣に、看護師が歩いてきた。
「ここ数日、ずっとこうなの」
「どういう……」
「旦那さんと話しているつもりらしいの」
「旦那さんって……父さんは一度も母さんの見舞いに来たことなんて……」
 そこまで言って気がついた。
 そうか。母さんは昔に戻ってしまったんだ。
 今の現実に耐えられなかったんだ。
「それじゃあ、私のことは……」
「陽輝くんは、若いときの旦那さんにそっくりだものね」
 母さんが私の手を握ってきた。皺だらけで骨と皮しかない手触りに胸が締め付けられる。
「妃奈子、悠星さんのためにケーキを焼いたの。チョコケーキ好きでしょ。だから、学校の帰りに妃奈子の家に来て」
「あっ……えっと」
「無理に話さなくても大丈夫よ」
 看護師が小声で耳打ちしてきた。
 あんな奴のフリなんてしたくない。
 けれども、母さんが期待するような目で私を見つめるものだから、応えなければと思った。
「ああ……行くよ」
 結局、私は父の真似をした。
 その声が父に似ている気がして、肌が粟立った。
 これで良かったらしく、「うふふ」と母さんは柔らかく笑う。
「約束だよ」
 恋する少女がそこにいた。
 今まで見てきた母さんの中で、一番綺麗だった。
「妃奈子、悠星さんのこと好き」
「ああ……」
「悠星さんは? 妃奈子の事どう思ってる?」
「えっ? えっと、私は……」
「私だなんて、畏まっちゃってどうしたの? いつもは俺って言うのに」
「あっ……その……俺、は……」
「妃奈子の事、どう思ってる?」
 慣れない一人称に戸惑う。
 母さんが幸せに逝くためには、ここであの男の真似をしなければならない。それが、私が母さんに渡せる、唯一の贈り物。
 ゆっくりと深呼吸をした。
 母さんが欲しかった言葉。
 父が絶対に言わない言葉。
 演るならせめて、完璧に。
 私は、自分の目にありったけの愛情を込め、微笑んだ。
「俺も、妃奈子の事、愛してるよ」
 呆然と私を見つめたかと思うと、母さんは目に涙を浮かべて「嬉しい」と何度も呟いた。
 母さんは、夢の中でしか幸せになれない。
 夢の中なら、幸せになれる。
 少しだけ、母さんを羨ましく思った。
 病室の中、椅子に座った私は父の芝居を続けた。
 こんなに楽しそうに話しているのに、今日明日の命なんて実感が湧かない。今まさに、母さんはゆっくり死んでいっているのだろう。だから、これはきっと長い走馬灯のようなもの。
 窓の外、空の色に紫が混ざり始めた頃、病室に弟が現れた。扉が開く音と共に振り向いた私は、久方ぶりに弟と対面した。自分に似たその顔を見るだけで様々な感情が湧き上がってきたが、母さんの前では言い合いをしないと決めた。
「……母さん」
「悠星さん、この方は?」
「えっ?」
 ゆっくりと母さんに近づいた弟を、母さんは認識できなかった。私の方がより父に似ているからか、それとも単に先に来たからか、「悠星さん」には私がキャスティングされたらしい。
 事態を飲み込めず、目を丸くして私を見てきた弟に、私は一つ息をついた。
「遠い親戚だ。ほら、俺によく似ているだろ」
「ほんとだ。そっくり!」
 母さんは両手を合わせ、はしゃいでいる。
「……ハル? どういうこと? それに何で父さんみたいな……」
 私は立ち上がり椅子を一脚持ってきて、自分の椅子の隣に置いた。座るように弟に促すと、躊躇いがちに腰を下ろす。そして、これまでの経緯を説明してあげた。弟は、自分の存在が母さんの中から消えてしまった事に酷くショックを受けたようで涙ぐんだ。
「どうしたの? そんな泣きそうな顔しちゃって」
「母さん……」
「何? お母さんが恋しいの?」
「うん……」
 弟はこくこくと頷く。
「男の子なのに泣き虫なのね。悠星さんに鍛えてもらったらいいんじゃない?」
「お手上げだ。どんな薬をつけようが、こいつには効かない」
 父が言いそうな台詞を口にすると、弟が睨んできた。仕方ないだろう、そういう設定なのだから。
 明らかに落ち込んでいる弟を見ていると、冷戦中といえども私まで悲しくなる。せめて母さんとの思い出の一つくらい作ってあげようと思った。
「こいつは母親がいないんだ。妃奈子、こいつの母親代わりにでもなってあげたらどうだ」
「嫌よ。だってこの人、妃奈子よりも年上みたいだもの」
「そんな事言ってやるな。頭でも撫でてあげろ」
 私がそう促すと、「えー」と嫌そうな声を母さんが上げ、弟が傷ついた顔をした。
「悠星さんの頼みなら仕方ないわね」
 母さんは、腕を伸ばして弟の頭を撫でる。その瞬間、弟はぼたぼたと泣き出し、母さんに泣きついた。
「きゃあっ。何よ、この人! 悠星さん、この変な人どうにかしてっ」
 母さんが怯えだしてしまったので、私はミツを引き剥がした。
「何やってるんだ、馬鹿」
「だって……だって……」
 弟は顔を濡らしてグズりだす。
「母さん。僕、もっと一緒にいたかったよ」
「また、妃奈子をお母さんだって勘違いしてる」
 その言葉で、弟は更に涙を流す。
 このままでは埒が明かない。
「この人は、私たちの母さんではなくて、妃奈子さんなんだよ」
 そう小さく耳打ちしても、弟は「母さん……」と泣くばかり。普段なら叱る所だが、今日は仕方ない。かく言う私も弟と同じ気持ちだった。
「今日はどうする?」
「ハルは?」
 私はちらりと母さんを見ると、「ハルって呼ぶな」と弟の耳元で再度小声で注意した。
「俺は父さんを待つ」
「じゃあ、僕も」
「好きにしろ」
 弟は何か言おうと口を開いたが、私の表情から悟ったのか何も言わなかった。そして、母さんの方を向いた。
「母さん。僕、別に……恨んだり、してないよ。そりゃあ、怖かったけど……。でも、そこそこ楽しく生きてるから。……だから……産んでくれてありがとう」
 拙い弟の言葉を、母さんは不思議そうな顔で聞いていた。
 私はその後も「加賀美悠星」として母さんと話し続け、弟は母さんに認識されなくても弟自身としてそこにいた。