閉鎖生態系ver.2.0

 二学期が始まった。
 相変わらず、私と弟は家庭内別居状態で、互いにこの夏休みをどのように過ごしたか把握していなかった。一カ月以上もまともに弟と口を利かないのは初めてで、ここからどう元の仲に持っていけば良いのかわからない。そしてそれは、弟も同じなのだろう。
 朝、教室に入ると友人らが声を掛けてきたので、いつも通りの笑顔で応対する。別に弟がいなくても学校生活に問題はない。求められるキャラクターを演じていれば足りるし、楽なものだ。むしろ、私がいなくて困るのは弟の方だろう。
 ……と、以前なら考えたはずだが、今、弟には彼がいるため、私に縋り付いて謝ってくるとは思えない。きっと教室で彼にベッタリなのだろう。想像しただけで腹が立つ。
 数学の授業中、教科書と問題集をバリケードのように立てた裏でスマホのホーム画面を開きトークアプリを開いた。すると、彼からメッセージが届いていたのでタップすると、「今日、昼メシ一緒に食わん? ミツもいるけど」と表示されたので、「ミツがいるなら行かない」と返した。
 我ながら幼稚だと分かっている。
 きっと彼は私たちの仲を案じてくれたのだろう。土産の件だって、そうだ。彼の善意を踏み躙る事に罪悪感は覚えるものの、嫌なものは嫌である。
 あの二人が楽しげに話している所なんて見たくもない。
 そこで、はたと気づいた。
 私はどうして見たくないのだろう。
 以前はむしろ喜ばしく思った。弟が彼と仲良くなる程、うちに誘き出して現場を見せる事ができる確率が上がるからだ。そして計画が終了した今、もう弟には彼と仲良くする必要はない。それなのに、関係を切るどころか私から彼に乗り換えようとしているように見える事に、苛立っているのだろうか。
 そこまで考えるも、あまりしっくりこない。合ってはいるもののそれが全てではないというか、何か非常に大事なピースが欠けているというか……。
「加賀美」
「うわっ」
 突然、バリケードが消えた。正確に言うと、数学の小林教諭が、私の教科書と問題集を取り上げたのだった。
「今私が出した問題、答えられるか?」
「はぁ……。一つも聞いていないのだから、答えられる筈がないでしょう。分かりきった事、一々聞かないでもらえますか」
「よし。スマホは没収だ」
 小林教諭は笑顔を見せると、私の手からスマホをひょいと奪い去った。
「白昼堂々窃盗とは……何て大胆な犯行なんだ……」
「放課後、職員室に取りに来い。授業再開するぞー」
 小林教諭は私を完全に無視して、教壇に戻った。周囲の生徒たちがクスクスと楽しげに私を見て笑っているので、そんな彼らに私は肩をすくめてみせる。窓から入り込む風はまだ夏の匂いがして心地良い。
 けれども、蝉の声がやたら耳に入って仕方がなかった。
 
 クラスメイトとの昼食中、手洗い場に行ってくると教室を出た私の足は、何故か一組へと向かっていた。
 昼食の誘いを断ったというのに、自分でも何がしたいのか理解できない。一組へ近づくに連れて心拍数が上がっていく。教室の入口付近へ到着すると、深呼吸をした。そして、よせばいいのに、意を決して、気づかれないよう中を覗き込んだ。
 目的の姿はすぐに見つかった。
 窓際の席で、彼と弟が楽しそうに談笑している。
 幸せそうに微笑む、私と瓜二つの男。
 彼は、その男に、いつも私に向けるような笑みを向けている。
 派手な事件なんて何一つない、穏やかな日常。
 けれど、どんな惨たらしい事件現場よりも見ていられなかった。
 耳元で鳴っているのではと思う程心臓の音が煩くなり、深い海に沈んでいくかのように息が苦しくなっていく。
 見慣れた光景の筈だ。計画の進捗確認のため、度々弟と彼の様子は窺っていた。
 それなのに、一秒一秒、削られていくように何処かが痛む。気がつくと、自分の胸を右手で強く掴んでいた。
 私に気づかない。
 そう思っていると突然、彼の目がこちらを向きそうになったので反射的に扉の後ろに引っ込むと、私は来た道を引き返した。自分の教室には戻らず階段を下り、あまり人の来ない一階の男子トイレに入る。昼休みだというのに、思った通り誰もいなかった。
 手洗い場の蛇口を捻り、頭を突っ込むと、後頭部を水で冷やす。滴る水が、目や口に入り苦しくなるが、そっちの苦しさの方がまだマシだった。
 先程の光景が、頭に焼き付いて消えない。
 あの席は、私の場所なのに。
 赦せなかった。
 軽くハンカチで水を拭ったものの、一目見て水を浴びたと分かる外見で教室に戻った私を、友人らがからかう。
「良い男ならば、水を滴らせなければと思ってね」
 いつも通り、本心を誤魔化した。

 放課後、職員室でスマホを返してもらった私は廊下に出ると、無意識にメッセージアプリを開いた。何の連絡も入っていないであろうに、そのような動きを咄嗟にした自分に対し、立派にスマホ依存症デビューを果たしたものだなと冷笑した。
 しかし、彼から一件のメッセージが届いているのを発見して、目を見開いた。一瞬躊躇ったものの、彼のトーク画面を開いてみると、「部活帰りに寄るわ」という一言が送られてきていた。たったそれだけなのに、胸がすっと軽くなって声が漏れそうになった。彼がサッカー部での練習を終えるまであと二時間程もあるというのに、真っ直ぐ自宅へと帰った。
 帰宅後は、時計の確認、読書、アプリの確認をひたすら繰り返した。トーク画面をぼんやり遡っていると、突然画面が切替わり彼から電話が掛かってきた事を告げた。切れてしまわないよう、すぐに通話ボタンを押すと耳に当てる。すると、驚いたような声が聞こえた後、彼は電話越しに笑い始めた。
「だから、出るの早いって。そろそろそっち着くから迎えに来て」
「……ああ」
「じゃあな」
 電話が切れた。表示された通話時間は一分にも満たない。それでも、二時間待ったのは無駄ではなかったと思った。
 裏口の前に凭れかかって本を読んでいると、部活帰りの彼が現れた。
「待った?」
「別に」
「そうかー。待っててくれたか」
「待ってないって」
 彼が腕を組んで満足そうに頷くのが、見透かされているようで恥ずかしくなり、ムキになって反論した。
「いいじゃん。犬みたいで」
「馬鹿にするな」
「怒るなよ。俺、好きだよ。犬」
 そう言って笑うと、彼はさっさと裏門の中へと入っていってしまった。私はその場で少し固まっていたものの、下唇を噛み、彼の後に続いた。
 部屋に入ると、既に彼はソファに座って寛いでいた。あんなに躊躇っていたというのに、彼の神経の図太さは称賛に値する。そう斜に構えて見ていたが、手にしているのが私が貸した問題の本だと気づいた瞬間、心臓が止まるかと思った。
 今日ここに来たのは、あの本を返すためだろう。
 となると、感想も伝えられる。
 緊張し始めた私を余所に、彼は呑気な声で「やっと来た」と言うと、その本を差し出してきた。
「熱海の旅館に泊まったときさ、暇だったから読み終わった。ありがと」
 私は恐る恐る受け取る。
 私の本を、旅行先にも持っていったのか……。
「家族旅行だというのに、そんな過ごし方でいいのかな。ご両親が寂しがるだろう」
 皮肉混じりの声が自分の口から聞こえた。
「だって、四泊五日だぞ? そんな毎日一緒に出歩かないって、親も体力ないしさ。旅館の中も、温泉と土産物屋と寂れたゲーセンくらいしかないし」
「へぇ」
 そういうものなのか。
「でも、その本はどうしたって父さんに聞かれて、ハルに借りたって答えたら変な空気になったな」
 助手席に座り、私の方を見ないようにしていた先生の姿を思い出した。家族の前、それも先生の前で私を愛称で呼ぶなんて気を抜きすぎだ。
「母さんはニコニコしていたけど。陽輝くんとも仲が良いのねって。知らないって幸せだよな」
「……何が言いたい」
 つい、言葉が口から漏れた。
「えっ?」
「私の所為で自分が不幸になったとでも言いたいのか。それとも、夫に愛されていないと知らない母親を、哀れんでいるのか」
 自分でもマズいと思った。
 こんなの、禁句に決まっている。
 そして案の定、彼は苦しげに床を見つめてしまった。
 まただ。
 また彼を傷つけた。
 自分で自分を殴りつけてやりたいと思っていると、彼が静かな声で話し始めた。
「……父さんは、母さんのこと大切にしてるよ。そりゃあ、お前の父親がいるけど……。でも、俺が余計な事しなければ、母さんは幸せでいられるんだ」
「別に君は何も悪く……ごめん。嫌な気分にさせたかった訳ではなくて……」
「分かってるって。俺も悪かったよ。家族の話、嫌だったよな」
「いや……」
 無理をして明るく笑っているようで、見ていて苦しくなる。私が悪いのに、彼に謝らせてしまうなんて、自分は一体何がしたいんだ。
 けれども、彼の次の言葉で、そんな陰鬱な思いは吹き飛んでしまった。
「っていうか、お前、ミツの分も饅頭食っただろ」
 ギクリと肩が跳ねる。
 バレた。
 私は彼の隣に座り脚を組むと、涼しい顔を浮かべた。
「何のことかな」
「ミツ、キレてたぞ。吐かせるとか言い出すから止めたけどさ。いい歳して何やってんだ、食いしん坊か」
 物騒な事を言うものだ。そんな乱暴な子に育てた覚えはないが、自分が反対の立場ならきっと同じ事を口走るだろう。
「この本はどうだった?」
「話の逸らし方、下手過ぎるだろ」
 彼は呆れたように溜息をつくと、「いつもはもっと上手いのに」と小さく呟いた。まったくその通りで、自分でも質の著しい低下に驚きを隠せない。
「……主人公は、同級生に人生を奪われた訳だが、どう思った?」
「まあ……気持ちは分からなくはないけどな」
「主人公のか」
「いや、両方」
 予想していなかった回答に、思わず彼の目を見た。
「俺だって、苦しいときに助けられたら……その人に縋っちゃうかも」
 彼は私の目を見返すと、苦笑いした。
「意外だね。てっきり私は」
「主人公が可哀想だって?」
 言い当てられ面食らっていると、彼は楽しそうに「そうだな」と呟く。
「人を助けた。それなのに、あんな目に遭ってしまうなんて、おかしいって。……読んでいて苦しかった」
 そして、何処か遠い目をした。
「でも、そんなものだよな」
「……随分と冷めているね」
「一人に執着して、周りに迷惑掛けて……。分かっていても止められないんだろうな。あんな事されたら、俺も許さないけど」
 その言葉に、胸がざわつく。
「あいつも、自分で分かってるんじゃないか? 嫌がられているって」
 そう言って、私が手にしている本を見た。
「でも……ダメなんだろうな」
 その本の中の人物について、彼は語っている。
 けれども、自分の事を言われているように思えて、喉が鳴った。
 あの同級生に同情するなんて危ないよ。
 優しさなんて見せるから、主人公はつけ込まれたんだ。
「……そう」
 そんな言葉を飲み込んだ。