日曜日、用事を終えた彼から電話が入り合流すると、そのまま映画館へと歩き、映画を二本観た。スポーツ青春ものと恋愛ものという、どちらがどちらを選んだか明らかなラインナップだった。
「微妙な時間だけど、どうする? もう一本観る時間はないし」
二本目が上映されたシアターから出ると、大きく伸びをしながら彼が尋ねてきた。
「適当にコンビニで飲み物でも買って、私の部屋で暇を潰せばいいんじゃないか」
特に何も考えないで発言すると、彼の纏う空気が少し変わった。場にそぐわない事でも口にしただろうかと焦ったが、私の部屋、すなわち「秘密基地」を警戒したのだと思い至った。
「スクリーンは降ろしているよ。とはいえ、良い思い出はないだろうからね、少し歩くが、カフェにでも行こうか」
「いいよ。お前の部屋で」
あの部屋で発作でも起こされたら困る。そういう考えが脳裏を掠めたが、彼の決意は固かった。
裏門から自宅に入り秘密基地の扉を前にすると、彼は明らかに緊張し始めた。
「別に無理をする必要はないよ」
「いや、何ていうか……ケリつけたいっていうか……」
私にとっては唯の自室だが、彼にとってはある種の通過儀礼らしい。 私は部屋に入ると、扉を開けたまま中から彼を見つめた。この部屋を自室とするようになってからレイアウトを少々私好みに変更したものの、壁紙や大まかな家具、スクリーンにホームシアターはあの日のままで、内装を見た途端彼の顔行きが曇った。
やはり帰ってしまうか。
そう思った途端、すっと彼は中に入ってきた。
「……ようこそ」
存外あっさりした入場に私が面食らうと、一体何が可笑しかったのか彼は噴き出した。
「何だそれ」
楽しそうに笑う。
この部屋で彼の笑顔を見たのは久しぶりだな。
とりあえずソファに座るように促す。
「うわ……」
嫌な記憶が蘇ったのか彼は顔を顰めた。しかし、一度決めると早いのか、ソファに身を沈めくつろぎ始める。
「この部屋に立ち入るだけで躊躇うなんて、一体ご自宅ではどのようにお過ごしになられているのかな」
素直に喜べばいいのに。
「父さん母さんとは普通に話してるよ」
悪意をふんだんに込めた言葉は軽く飲み干されてしまった。
「しばらくはどっちの顔もまともに見られなかったけどさ、ある日気づいたんだよ」
「……何に?」
「やっぱり父さんは父さんで、母さんは母さんってことに」
私が解せないという表情をしながら隣に腰掛けると、彼はソファの肘置きを撫でた。
「父さんが不倫しているって知っても、俺は切れなかった。だって、父さんが俺を大切に思っているのは事実だし」
「それは強がっているだけじゃあないかな」
「そうかも」
彼は照れくさそうにはにかむ。
「でも、父さんは俺と同じ唯の人で、聖人君子様じゃないし、あんま求めすぎてもなって感じ」
「もう、神聖視しないと?」
「言い方が悪いな。戦略的撤退と言え」
「自己啓発本でも読んだか」
「……お前、ほんと性格悪い。言い方どころじゃなく」
「悲しいかな。これ、遺伝なんだ」
彼は小声で「かわいそ」と呟いた。
「遺伝って、あのイカれた父親の方だろ」
「まあね。生き写しと言われるくらいあの男の血が濃いだなんて、虫酸が走る」
私が苦々しげに舌打ちすると、彼は困ったような顔をした。
「うーん……。お前の父さんにも、少しくらいは良い所あるんじゃないか?」
「ない」
「おお……。ほら、見た目いいじゃん?」
「色狂いなだけだ」
「……頭良くて、金持ち」
「あいつは外面が良いんだ。綺麗な言葉で自分に都合良く操って、用済みになったら捨てる。相手は捨てられた事すら気づかない」
刃物で断ち切るように言葉を捌くと、もうこれ以上思いつかなくなったのか、彼は頭を抱えた。他人の親の長所なんて挙げようとするからだ。少しは反省すればいい。
すると突然、「あっ」と声を上げた。
「そうだっ。特定の一人に、自分の人生全部突っ込んでいるとこっ」
「……正気か?」
正解を当てたように得意げな彼に、訝しげな視線を送る。
その「特定の一人」ってお前の父親だろ。一体どういう神経をしている。
「そりゃあ、不倫は最低だ。周りの人たち傷つけて、責任も取らない。ぶん殴りてぇよ。でも、数十年間同じ奴しか見てないって結構ムズいと思う」
「悪質な切り取りだね」
「カビたパンの……カビが生えてないとこなら食える、みたいな?」
「目に見えなくても、菌糸は伸びているよ」
彼は目を逸らすと、「あれ〜?」と頭を掻いた。
下手くそ。慣れない真似をするからだ。
「だって、さっきのお前が選んだ映画の主人公、ずっとウジウジしていて、観ていて腹立ったんだよ。とっとと告白しろよとか、目移りしてるんじゃねぇよとかずっと思ってた」
「また、その話か」
二本目の上映が終了し、開口一番に彼が言ったのは、「あいつ何なん⁉」だった。恋愛ものではこの手の主人公は珍しくないので特に憤りを覚えなかった私と違い、どうも彼の癪に触ったようで、移動中文句ばかり口にしていたのだった。
「あいつへの苛立ちが収まらないんだよ。あんな奴でも彼女できるって可怪しいと思わん?」
「他人の恋愛って所詮そんなものだよ。それにしても、君にそういう願望があるなんて意外だね」
「あるよ。こちとら、男子高校生だぞ」
「私も男子高校生だが、特にそういった願望はない」
「お高く留まっちゃって」
鼻で笑われ、瞬間的に怒りがピークに達するも、平静を装う。
「どうして彼女が欲しいんだ」
「そりゃあ……可愛いから? 癒し?」
「ならば、ペットを飼えばいい」
「部門が違うだろ。えーと、大事にされたい」
「ご両親からの愛情だけでは不満というのか。卑しいな」
「……卑しいなんて、俺生まれて初めて言われたわ」
彼が不機嫌そうに返した。
両親については割り切ったような口を利いていたが、地雷ではあるのだろう。わかっていたのに、踏み込みすぎた。
「他……他……あっ、ドキドキしたい」
一転して明るい声色を彼が出したので安堵する。
今度は私が鼻で笑う番だった。
「いいだろ、別にっ」
「ふふっ。いや、ごめんね。想像以上に可愛い理由なことで」
彼は恨めしげに私を睨みつけている。
父親同士の泥沼不倫現場を見せられたというのに、清純な男女交際をまだ夢見ているなんて、彼は繊細なのか図太いのかわからない。
「恋愛もの読み漁っている奴に言われる筋合いないね」
「まぁ、憧れがないと言ったら嘘になる。ドキドキしたいんだろう? 恋愛小説でも貸してあげようか」
「おー、じゃあ借りるわ」
「えっ?」
「えっ?」
聞き間違いだろうか。
「君、本読むような人だっけ」
「読まないけど」
「だよね」
やはり聞き間違いだったようだ。
私の煽りをきっと適当に流しただけだろう。
「お前が勧めてくれた奴なら読むよ。どれ?」
彼はケロッとした顔でそう言うと、ソファから立ち上がり本棚へと移動し始めた。数秒の間私は唖然としていたが、「勝手に触るな」と慌てて立ち上がり、近くに寄った。
「本棚周辺だけ、ジメッとしてない? パッと見、暗そうなタイトルばっかなんだけど」
「文句を言うな」
「ちょっと読んでみてもいい?」
「……汚すなよ」
口ではそう言ったものの、予想だにしなかった展開に心は何処か上の空だった。
本……。
私が彼に勧める本……。
読み慣れていないとなると、まず文量が少ないものか短編集が良い。
海外ものも時代小説もダメだ。文体に慣れがいる。
やはりここは、国内現代小説。
そして、彼が感情移入しやすい、男子高校生が主役の男女もの。
方針を決め見繕い始めた私の隣で、一冊の本を手に取った彼は、「六百五十二頁? ヤバっ。鈍器じゃん」と呑気に笑っている。彼にはその三分の一以下のものを貸そう。
はたと気付く。
そもそも、彼は読むのか?
話の流れで適当に言っただけではないのか?
真剣に選んでいる自分が急激に恥ずかしくなった。
……まあ、いい。貸すだけ貸そう。どうせ三、四頁読んで飽きるに決まっている。
私は愛蔵書の中から、条件に合うもののうち一番薄い文庫本を手に取り、「これなら君でも読めるだろう」と何気ない素振りで渡した。彼は礼を述べると、読み終わったら返すと言い鞄にしまった。その後もくだらない会話を暫くした後、夕飯が俺を待ってると裏道を通って彼は帰宅した。
本を他人に貸したのは、初めてだった。
「微妙な時間だけど、どうする? もう一本観る時間はないし」
二本目が上映されたシアターから出ると、大きく伸びをしながら彼が尋ねてきた。
「適当にコンビニで飲み物でも買って、私の部屋で暇を潰せばいいんじゃないか」
特に何も考えないで発言すると、彼の纏う空気が少し変わった。場にそぐわない事でも口にしただろうかと焦ったが、私の部屋、すなわち「秘密基地」を警戒したのだと思い至った。
「スクリーンは降ろしているよ。とはいえ、良い思い出はないだろうからね、少し歩くが、カフェにでも行こうか」
「いいよ。お前の部屋で」
あの部屋で発作でも起こされたら困る。そういう考えが脳裏を掠めたが、彼の決意は固かった。
裏門から自宅に入り秘密基地の扉を前にすると、彼は明らかに緊張し始めた。
「別に無理をする必要はないよ」
「いや、何ていうか……ケリつけたいっていうか……」
私にとっては唯の自室だが、彼にとってはある種の通過儀礼らしい。 私は部屋に入ると、扉を開けたまま中から彼を見つめた。この部屋を自室とするようになってからレイアウトを少々私好みに変更したものの、壁紙や大まかな家具、スクリーンにホームシアターはあの日のままで、内装を見た途端彼の顔行きが曇った。
やはり帰ってしまうか。
そう思った途端、すっと彼は中に入ってきた。
「……ようこそ」
存外あっさりした入場に私が面食らうと、一体何が可笑しかったのか彼は噴き出した。
「何だそれ」
楽しそうに笑う。
この部屋で彼の笑顔を見たのは久しぶりだな。
とりあえずソファに座るように促す。
「うわ……」
嫌な記憶が蘇ったのか彼は顔を顰めた。しかし、一度決めると早いのか、ソファに身を沈めくつろぎ始める。
「この部屋に立ち入るだけで躊躇うなんて、一体ご自宅ではどのようにお過ごしになられているのかな」
素直に喜べばいいのに。
「父さん母さんとは普通に話してるよ」
悪意をふんだんに込めた言葉は軽く飲み干されてしまった。
「しばらくはどっちの顔もまともに見られなかったけどさ、ある日気づいたんだよ」
「……何に?」
「やっぱり父さんは父さんで、母さんは母さんってことに」
私が解せないという表情をしながら隣に腰掛けると、彼はソファの肘置きを撫でた。
「父さんが不倫しているって知っても、俺は切れなかった。だって、父さんが俺を大切に思っているのは事実だし」
「それは強がっているだけじゃあないかな」
「そうかも」
彼は照れくさそうにはにかむ。
「でも、父さんは俺と同じ唯の人で、聖人君子様じゃないし、あんま求めすぎてもなって感じ」
「もう、神聖視しないと?」
「言い方が悪いな。戦略的撤退と言え」
「自己啓発本でも読んだか」
「……お前、ほんと性格悪い。言い方どころじゃなく」
「悲しいかな。これ、遺伝なんだ」
彼は小声で「かわいそ」と呟いた。
「遺伝って、あのイカれた父親の方だろ」
「まあね。生き写しと言われるくらいあの男の血が濃いだなんて、虫酸が走る」
私が苦々しげに舌打ちすると、彼は困ったような顔をした。
「うーん……。お前の父さんにも、少しくらいは良い所あるんじゃないか?」
「ない」
「おお……。ほら、見た目いいじゃん?」
「色狂いなだけだ」
「……頭良くて、金持ち」
「あいつは外面が良いんだ。綺麗な言葉で自分に都合良く操って、用済みになったら捨てる。相手は捨てられた事すら気づかない」
刃物で断ち切るように言葉を捌くと、もうこれ以上思いつかなくなったのか、彼は頭を抱えた。他人の親の長所なんて挙げようとするからだ。少しは反省すればいい。
すると突然、「あっ」と声を上げた。
「そうだっ。特定の一人に、自分の人生全部突っ込んでいるとこっ」
「……正気か?」
正解を当てたように得意げな彼に、訝しげな視線を送る。
その「特定の一人」ってお前の父親だろ。一体どういう神経をしている。
「そりゃあ、不倫は最低だ。周りの人たち傷つけて、責任も取らない。ぶん殴りてぇよ。でも、数十年間同じ奴しか見てないって結構ムズいと思う」
「悪質な切り取りだね」
「カビたパンの……カビが生えてないとこなら食える、みたいな?」
「目に見えなくても、菌糸は伸びているよ」
彼は目を逸らすと、「あれ〜?」と頭を掻いた。
下手くそ。慣れない真似をするからだ。
「だって、さっきのお前が選んだ映画の主人公、ずっとウジウジしていて、観ていて腹立ったんだよ。とっとと告白しろよとか、目移りしてるんじゃねぇよとかずっと思ってた」
「また、その話か」
二本目の上映が終了し、開口一番に彼が言ったのは、「あいつ何なん⁉」だった。恋愛ものではこの手の主人公は珍しくないので特に憤りを覚えなかった私と違い、どうも彼の癪に触ったようで、移動中文句ばかり口にしていたのだった。
「あいつへの苛立ちが収まらないんだよ。あんな奴でも彼女できるって可怪しいと思わん?」
「他人の恋愛って所詮そんなものだよ。それにしても、君にそういう願望があるなんて意外だね」
「あるよ。こちとら、男子高校生だぞ」
「私も男子高校生だが、特にそういった願望はない」
「お高く留まっちゃって」
鼻で笑われ、瞬間的に怒りがピークに達するも、平静を装う。
「どうして彼女が欲しいんだ」
「そりゃあ……可愛いから? 癒し?」
「ならば、ペットを飼えばいい」
「部門が違うだろ。えーと、大事にされたい」
「ご両親からの愛情だけでは不満というのか。卑しいな」
「……卑しいなんて、俺生まれて初めて言われたわ」
彼が不機嫌そうに返した。
両親については割り切ったような口を利いていたが、地雷ではあるのだろう。わかっていたのに、踏み込みすぎた。
「他……他……あっ、ドキドキしたい」
一転して明るい声色を彼が出したので安堵する。
今度は私が鼻で笑う番だった。
「いいだろ、別にっ」
「ふふっ。いや、ごめんね。想像以上に可愛い理由なことで」
彼は恨めしげに私を睨みつけている。
父親同士の泥沼不倫現場を見せられたというのに、清純な男女交際をまだ夢見ているなんて、彼は繊細なのか図太いのかわからない。
「恋愛もの読み漁っている奴に言われる筋合いないね」
「まぁ、憧れがないと言ったら嘘になる。ドキドキしたいんだろう? 恋愛小説でも貸してあげようか」
「おー、じゃあ借りるわ」
「えっ?」
「えっ?」
聞き間違いだろうか。
「君、本読むような人だっけ」
「読まないけど」
「だよね」
やはり聞き間違いだったようだ。
私の煽りをきっと適当に流しただけだろう。
「お前が勧めてくれた奴なら読むよ。どれ?」
彼はケロッとした顔でそう言うと、ソファから立ち上がり本棚へと移動し始めた。数秒の間私は唖然としていたが、「勝手に触るな」と慌てて立ち上がり、近くに寄った。
「本棚周辺だけ、ジメッとしてない? パッと見、暗そうなタイトルばっかなんだけど」
「文句を言うな」
「ちょっと読んでみてもいい?」
「……汚すなよ」
口ではそう言ったものの、予想だにしなかった展開に心は何処か上の空だった。
本……。
私が彼に勧める本……。
読み慣れていないとなると、まず文量が少ないものか短編集が良い。
海外ものも時代小説もダメだ。文体に慣れがいる。
やはりここは、国内現代小説。
そして、彼が感情移入しやすい、男子高校生が主役の男女もの。
方針を決め見繕い始めた私の隣で、一冊の本を手に取った彼は、「六百五十二頁? ヤバっ。鈍器じゃん」と呑気に笑っている。彼にはその三分の一以下のものを貸そう。
はたと気付く。
そもそも、彼は読むのか?
話の流れで適当に言っただけではないのか?
真剣に選んでいる自分が急激に恥ずかしくなった。
……まあ、いい。貸すだけ貸そう。どうせ三、四頁読んで飽きるに決まっている。
私は愛蔵書の中から、条件に合うもののうち一番薄い文庫本を手に取り、「これなら君でも読めるだろう」と何気ない素振りで渡した。彼は礼を述べると、読み終わったら返すと言い鞄にしまった。その後もくだらない会話を暫くした後、夕飯が俺を待ってると裏道を通って彼は帰宅した。
本を他人に貸したのは、初めてだった。
