閉鎖生態系ver.2.0

 駅前にあるバス停のベンチ。
 もうバスには用がないのに、何を待っているのか、夜が来るのを待っているのか、ぼんやりと座っていた。ただ、騒々しい蝉の声の中、夕陽が沈んでいくのを見つめていた。
 夏の夜は短い。まだ明るいとはいえ、それなりの時刻なはず。けれども、脚が動かない。
 母さんの姿が、頭から離れなかった。
 花なんて持っていったから。
 余計な世話を焼いたから。
 私が。
「お前、何してんの」
 驚き、声のする方を向くと、部活帰りだろうか、肩からスポーツバッグを下げた京本優希が立っていた。
 最悪だ。
 何故よりにもよって、今このタイミングでお前に声を掛けられなければならない。
 ただでさえ最悪の気分だったというのに、まだその上、いや下か、があったらしい。
 俯き無視すると、彼の靴が視界から消えた。諦めて帰ったらしい。私は安堵の溜息をつく。
 母さんの面会はしばらく禁止される事となった。
 反応してくれなくてもいいからと自分に言い聞かせ、微かに残る愛情の残骸を拾い集めるかのように、病室に通っていたのに。
 もう元には戻らないと知っている。
 けれども、また私を見て微笑んでくれるのではないかという、水面に浮かぶ泡よりも儚い希望を未だに捨てられなかった。
 でも、都合の良い夢でも見ていないと、到底やってなどいられない。耐えられやしない。
 ミツとも冷戦状態の中、あの家に戻りたくはなかった。
 これから先、どうしよう。手当たり次第適当に友人に声を掛け、一人の時間を全て塗りつぶすか。
 深く溜息をついた。両手で顔を覆う。
 どうしてこうなってしまったのだろう。
 そんなの決まっている。
 父さん達だ。
 あいつらの所為で、全てが坂道を転がり落ちるかのように悪くなっていくんだ。一度転がりだしたら止まらない。では、どうすれば。
「冷たっ」
 頬に突然刺激が走り、何か冷たい物が当てられているのだと理解した。反射的に距離をとると、ペットボトルを手にした京本優希が立っていた。
「キンキンに冷えたスポドリだからな」
 ぶっきらぼうに言い、隣に座った。
「私の席だ。座るな」
「これは公共のもんだろ」
 そして、ペットボトルを私の手にグイグイと押し付けてくる。
「やめろ」
「飲め」
「飲まない」
「ガキか。熱中症なんだろ? いいから、早く飲め」
「はあ?」
 こいつは何を言っているんだ。
 すると、彼はきょとんとした顔を浮かべた。
「あれ? 違った?」
「違う」
 私が即答すると、「俺の早とちりか」と恥ずかしそうに笑う。
「じゃあ、ここで何してんの」
「座ってる」
「いや、そうじゃなくてさ」
 こちらが明らかに会話を切ろうとしているのに気づかないのか、一向に立ち去る気配がない。
「ずっと、ここいるじゃん。バス来ても全スルーだし」
 ずっと、という言葉が引っかかり、その意味を問うように訝しげな視線を送ると、これは察したのか「ああ」と間の抜けた声を上げた。
「部活帰りにたまたま見かけたから気になって、遠くからちょっと様子伺ってた。駅中の店うろついて、たまに見てって感じ」
「まさか、ストーカーか?」
「違ぇよ」
 彼はムキになって反論すると、気不味そうに頭をかいた。
「あー、その。何か落ち込んでそうだったから……。でも、お前が落ち込むってあんまなさそうだから、熱中症かもなーって。それで、コンビニでスポドリ買ってきたってわけ」
 私は視線を彼から外すと、自分の靴に向けた。
「何で」
 その三文字には様々な意味が含まれていたが、自分でもどう分解すればいいか分からなかった。
「そうだな……」
 沈黙が訪れ、蝉がその間を埋めるように鳴く。
 こいつに聞いたところで何になるのだろう。とっとと追い返せばいいのに会話を繋げるなんて、人は弱っているときに碌なことをしない。
 何か思いついたのか、隣に座る彼が息を吸う微かな音が聞こえて、身構えた。
「特にないかな」
「はあ?」
 あまりにも中身のない回答に驚き、大声が出てしまった。彼はそれに面食らったようにビクッと肩を震えさせる。
「そんな訳あるか」
「それがあるんだよ。マジで何も思いつかん」
「だってっ」
 そこから先の言葉が出なかった。
 お前の幸福を壊しただろとか、ずっと騙していただろとか、そもそも私たちは別に親しくないだとか、言いたい事が多過ぎて、喉の奥でつっかえていた。
「私のこと、嫌いだろ」
「そうだな」
 即答されて、ペースが崩される。
 しかし、負けじと言葉を紡いだ。
「普通、嫌いな相手に声なんて掛けないだろう。私がお前に何をしたか覚えていないのか? 怒るか怯えるかぐらいしろ」
「えー……めんどっ」
 私が真剣に尋ねているというのに、何だその態度は。
「少しは考えて動け」
「俺、何で説教されてんの? 考えたよ、多少は」
「言ってみろ」
「お前怒りそうだから、言いたくない」
「言え」
 圧を掛けると、彼は大きな体躯を小さくさせた。
「その……お前のこと、今も怖いし、許せないし、嫌いだけど……」
 叱られている子供のように首を竦め、彼はちらりと私を見た。
「さっきのお前……何か、消えちゃいそうっていうか……」
 そう言って、視線を私から逸らした。
 こんな鈍い奴から見ても先程の私は様子が可怪しかったのだと知り、愕然とする。
 改めて、彼は本当に何も考えずに私に声を掛けたのだと知るも、その感覚を理解することはできなかった。憎んでいる相手の心身を心配するなんて、お人好しにも程がある。親子そっくりだなと思った。 
「……ミツから、何か聞いていないのか」
「ミツ?」
 全く想像していなかったようで、呆けた声を上げた。
「そういえば、危ないからお前に近づくなって言われてたっけ」
「だったら、何で」
「忘れてた」
 快活に「ハハッ」と笑うものだから、私は呆れて何も言い返すことができない。
「何? お前ら喧嘩したん? 珍しっ」
「……まあ」
「何で?」
 原因はお前に対する方向性の違いだ、なんて言える訳がない。私が黙ると、彼は焦り始めた。
「言いづらかったら、いいよ。俺、兄弟いないから、そーゆーのあんま分からんし」 
 これに対しても黙っていると、何を考えているのか読めない表情でこちらを見つめてくる。
 その視線から逃れるように、私は彼と反対方向へと顔を背けた。
「落ち込んでるのって、ミツと喧嘩したからか? これも答えにくかったら別に」
「違う」
「え?」
「いや、一概に違うとは言えないが……メインではない」
 何か言い返してくるかと思い、またしばらく黙ってみたが、意外にも彼は一切口を挟まず、静かに私の次の言葉を待っている。
「……さっき、母さんの見舞いに行った。何となく、花を持っていったんだ。自分でも分からないが」
 自分の口から言葉を引っ張り出されたような気がした。体内に巣食っていた寄生虫がズルズルと出ていくような、気持ち良いのか悪いのか、もはや判別できない生まれて初めての感覚に襲われる。
 どうしてこいつに。
「少しでも、心が動いてくれたらいいって……思った。それで実際に動いたんだよっ。久しぶりにねっ。あははっ」
 笑ってみれども、彼はつられて笑う事もなく、真剣な目で私を見つめている。
 私の笑い声はどんどん小さくなっていき、やがて消えた。
「動いたけど……花は……嫌いだって。……投げつけられたよ。死んでしまえだって」
 下唇を強く噛んだ。
 膝の上で握り締めていた両手に、更に力が加わる。
 呼吸が乱れていくのを全身で感じた。
「それはそうさ。だって、花は自分の夫の不倫相手の象徴みたいなものだからね。普通怒るに決まっている。それなのに私は呑気に喜んでくれるかなって母さんがどう思うかも考えないで浮かれて花束なんか買ってもうこの先顔合わせなんてできない本当に私って」
「もう、いいだろ」
 自分自身に対して吐かれた呪詛は、中途半端な箇所で終止符を打たれた。
 彼は、これまで見たことない程穏やかな微笑みを浮かべる。何かを悟ったような、全てを諦めたような、およそ十代半ばの少年が浮かべていいようなものではなかった。
 そうだ。
 自分はこの手で、確かに一度彼を殺したのだ。
「とりあえず、お前は悲しいんだろ?」
 沈みいく夕焼けが、彼の全身を憂鬱なオレンジ色に染め上げている。
 所々が錆びたベンチ、死に急ぐ蝉の鳴き声、足元から這い上がる夏の夜の匂い。
「どうしようもないことって、あるよ」
 この瞬間のためにセッティングされたと見紛うばかりの光景。
「最近知った」
 そう告げた彼のまばたきが、スローモーションのように脳裏に焼き付く。
 深くゆっくりとした溜息とともに、自分の両頬を涙が伝った。役者かと思う程、我ながら完璧なタイミングで可笑しくなる。これが小説の一編なら、陳腐な駄作と一蹴してしまうだろうに、当事者となると斯様に震えるものなのだと知った。
「えっ⁉ 泣いたっ⁉ 何でっ⁉」
 彼はつい数秒前の雰囲気を木っ端微塵にするような反応をみせると、周囲をキョロキョロと見渡し、やおらに立ち上がった。外界から隠すように私の前に立つと、困った表情で私を見下ろす。このような事態にあまり慣れていないのか、慌てているその姿を見て、内心ざまあみろと泣きながら思った。
 けれども、その辛うじて残っていたプライドは、呆気なく砕け散った。
 彼が私の頭を撫で始めたからだ。
「……は?」
「えっ……いや、俺が泣いてると……父さんはこうしてくれたから……」
 子供扱いされている事への屈辱と、求めていたものをやっと与えられた歓喜とが綯い交ぜになり、脳の回路が焼き切れそうになる。
 フリーズしてしまった私を彼は不思議そうに見てくるも、深く考えない事にしたのかそのまま手を緩やかに動かし続ける。彼の手の重みと熱が直接伝わっている実感が湧き途端に羞恥を覚えた私は、「もういい」と彼の手を掴んで退かした。そして、涙の跡を腕で強引に拭う。
「俺、家までついていこうか」
「いや、いい。ただ、ミツには……」
「分かってるって。今日お前と会った事は言うなってことだろ? こんな所で泣いていたなんて知られたら、兄の尊厳とやらに関わるもんな」
 悪戯っぽく目を細めるのが腹立たしく、彼の脇腹をそれなりの力で殴ると、「やめろよ」と楽しげに笑った。