「起きなさい。良い子だから」
「起きない」
火曜日の朝、僕はハルとブランケットの取り合いをしていた。
「明日は行くって昨日言っていたじゃないか」
「言ってないよ」
「知らないな。ほら、ブランケットから手を離しなさい」
「嫌だ〜」
ハルに奪われまいと、僕はブランケットを抱え込んだままベッド上で丸くなった。何が何でも行ってやるものか。ブランケットを握る手に力を込めた。
「いつからそのブランケットは、お前の安全毛布になったのかな」
「昨日」
「おめでとう。今日が卒業式だ」
「留年する〜」
「残念ながら留年制度はないよ。卒業か退学かの二択。いずれにせよ、このブランケットとはバイバイだ」
「ああっ!」
少し力が緩められていたのはこのためか、ハルは突然ブランケットを物凄い力で引ったくった。するりと僕の両手から逃げるようにブランケットが宙を舞った。
「さて。とっとと支度をすることだね」
その言葉を無視してベッドに転がっていると、ハルは僕を両手で思いっきり突き飛ばした。声を上げる間もなく、僕はベッドからごろりと墜落した。普通に痛い。
「酷いや……」
DVだ。訴えてやる。
DV兄は弟を突き落としただけでは物足りなかったのか、僕の両足を掴んで引きずり始めた。
「市中引きずり回しの刑って、実際は馬に乗せられていたらしいね」
「分かったっ! 行くからっ。学校行くからっ」
皮膚が擦れて痛いっ。
懇願の末、僕は兄から解放された。しぶしぶ立ち上がると、後ろからハルに背中を押される。
「押さないでよ」
「いーや、押すね」
「意味分かんない……」
押されながら洗面所に連行されると、監督みたいに腕を組んだハルに監視されながら、僕は顔を洗い口をゆすいだ。その後、口にトーストを突っ込まれたり、制服を着せられたり、髪に櫛を通されたりと、あれよあれよという間に学校に行く支度が整ってしまった。
「ふぅ……。私の弟に相応しいビジュアルになったね」
ハルは一仕事終えたように、かいてもいないのに額の汗を拭う仕草をした。
「いつだって同じ見た目でしょ」
「私はあんな芋虫みたいになった事はない」
「そうだっけ……」
多分あると思う。
「それでは、兄弟仲良く登校と行こうじゃあないか」
玄関から外に出ると、ハルは片手を腰に、もう片方の手を天高く伸ばし人差し指を立てた。通勤、通学中であろう人々が、何だあれはとじろじろ見ている。朝に人目のある場所で出現するという珍しいタイプの不審者だ。頼むから、同じ顔で変な事しないでほしい。
「恥ずかしいから、先行ってよ。三分経ったら出発するから」
「弟のミツ君が、兄のハル君に追いつくのは、ミツ君がお家を出発してから何分後でしょうか?」
「変な問題出さないで。僕、追いつくつもりないから。ハルよりゆっくり歩くから」
「からから、からから……。まったく、中に何が入っている音なんだろうね。ビー玉かな?」
ハルは自身の頭を指でとんとんと叩いた。
めちゃくちゃムカつく。
「うるさい。……もー、一緒に行けばいいんでしょ」
僕は鞄の持ち手を肩に掛け直した。
「分かってくれて嬉しいよ。では、行こうか」
結局、上機嫌でやたら目立つ兄と登校する羽目になってしまった。
僕の教室の前でハルと別れると、扉から少し顔を覗かせ中の様子をうかがった。ユウの席を見ると誰も座っておらず、鞄も置いていなかった。
ということは、今日も欠席なのだろう。
安堵すると同時に、ここまで彼を壊してしまった事への罪悪感がどっと押し寄せ身体がふらついた。
それがどうにも辛くて、自分の席にそそくさと向かい着席すると、僕は机に突っ伏した。僕を守ってくれるブランケットはないので、外界と遮断するにはこれしかないのだった。
やっぱり学校なんて来るんじゃなかった。
僕なんかが来たところで誰も喜ばないし、むしろ何のうのうと来ているんだよと罵られて当然だ。何なら誰でもいいから罵ってほしい。
平穏で賑やかなクラスメイトたちの話し声が、耳に入ってくる。
僕もあんな風に普通に生きられたらいいのに。
分かってる。彼らにだって苦しみはあるのだろうし、ああして過ごす事ができているのも、彼らの日々の努力があってこそ。僕なんかが羨むのがそもそも烏滸がましいんだ。
ああ、でもいいな。
僕だって誰かと関わりたかった。
ずっと寂しかったんだ。
「おい」
それなのに、関わってくれそうな人を壊して、僕は一体何がしたかったんだ。こんな救いようのない馬鹿、僕以外になかなかいないんじゃないかな。
「おいってば」
難しいよ、人間関係。作るだけならまだしも、維持しないといけないって正気の沙汰とは思えない。
「ミツ」
名前を呼ばれ、反射的に顔を上げた。
「え……?」
「おはよ」
隣にユウが立っていた。
その顔には、ぎこちない笑みが浮かんでいる。
「お前、何で昨日休んだん?」
「あ……ちょっと……しんどくて……」
「今日はもういいのか?」
「う……うん。本当は休みたかったけど、ハルに連行されて……」
「ああ。あいつ、本当にめちゃくちゃだな」
何で今、ユウと普通に話しているんだろう。
「……どうして?」
「何が?」
僕が尋ねると、きょとんとした顔を浮かべた。
「その……どうして、僕に話しかけたの?」
「お前に話しかける理由っていちいちいるか?」
「で……でもっ。だって、僕。……僕のこと……許してないでしょ」
自分で言っていて苦しくなる。
僕はユウに拒絶された。拒絶されて当然の奴なんだ。許されなくて当然なのに。
「え? うーん、そうだな……うん、確かに、許していない」
頭を軽くかきながら彼が言った言葉に、僕の全身が強張った。分かってはいたけれど、改めて本人に言われ冷や汗がどっと噴き出した。僕が黙っていると、見かねたのだろうか、ユウの唇が動いた。
「俺って先週まるまる休んだだろ? だから、来週の試験ヤバいんだよね。このままだと、全教科赤点も夢じゃない。だから」
ユウが学校を休んでしまって勉強についていけていないのは、僕のせいだ。
俯き、床を見つめる。
「罰として、俺に勉強教えろ」
彼が言った言葉の意味が瞬時に理解できず、のろのろと頭を起こし見上げた。
目が合うと、ユウは朗らかに笑った。
「別にそれでチャラにはしてやんねーけど」
あまりにも眩しくて、目を眇めた。
この光景、声、言葉を、僕は生涯忘れることはないだろうと思った。
こんな僕にも救済の手が差し伸べられたんだ。
胸の内から熱いものが込み上げ、自分の両目から流れ始めた。
「うん……うんっ。僕にできる事なら……ユウのため、何だってするよ……何だって……」
「泣くなって」
涙を拭おうともせず、つっかえつっかえ話す僕を見て、ユウは慌てた。泣いている僕なんか放っておけばいいのに、何て優しいのだろう。そう思うと、さらに涙が溢れてきた。
「ちょっと、京本。なに朝っぱらから加賀美くん泣かせてるの?」
「酒井、違うんだ。これは誤解で……」
「あんたが話しかけたから泣いちゃったんでしょ」
「いや、まあそうなんだけどさ。でも、違うんだ……」
「ふふっ」
言い争う光景が微笑ましくて、僕は笑った。
僕の人生の最高幸福地点は、今、この瞬間に更新された。
だから、その対価として僕の全てをあげよう。
「起きない」
火曜日の朝、僕はハルとブランケットの取り合いをしていた。
「明日は行くって昨日言っていたじゃないか」
「言ってないよ」
「知らないな。ほら、ブランケットから手を離しなさい」
「嫌だ〜」
ハルに奪われまいと、僕はブランケットを抱え込んだままベッド上で丸くなった。何が何でも行ってやるものか。ブランケットを握る手に力を込めた。
「いつからそのブランケットは、お前の安全毛布になったのかな」
「昨日」
「おめでとう。今日が卒業式だ」
「留年する〜」
「残念ながら留年制度はないよ。卒業か退学かの二択。いずれにせよ、このブランケットとはバイバイだ」
「ああっ!」
少し力が緩められていたのはこのためか、ハルは突然ブランケットを物凄い力で引ったくった。するりと僕の両手から逃げるようにブランケットが宙を舞った。
「さて。とっとと支度をすることだね」
その言葉を無視してベッドに転がっていると、ハルは僕を両手で思いっきり突き飛ばした。声を上げる間もなく、僕はベッドからごろりと墜落した。普通に痛い。
「酷いや……」
DVだ。訴えてやる。
DV兄は弟を突き落としただけでは物足りなかったのか、僕の両足を掴んで引きずり始めた。
「市中引きずり回しの刑って、実際は馬に乗せられていたらしいね」
「分かったっ! 行くからっ。学校行くからっ」
皮膚が擦れて痛いっ。
懇願の末、僕は兄から解放された。しぶしぶ立ち上がると、後ろからハルに背中を押される。
「押さないでよ」
「いーや、押すね」
「意味分かんない……」
押されながら洗面所に連行されると、監督みたいに腕を組んだハルに監視されながら、僕は顔を洗い口をゆすいだ。その後、口にトーストを突っ込まれたり、制服を着せられたり、髪に櫛を通されたりと、あれよあれよという間に学校に行く支度が整ってしまった。
「ふぅ……。私の弟に相応しいビジュアルになったね」
ハルは一仕事終えたように、かいてもいないのに額の汗を拭う仕草をした。
「いつだって同じ見た目でしょ」
「私はあんな芋虫みたいになった事はない」
「そうだっけ……」
多分あると思う。
「それでは、兄弟仲良く登校と行こうじゃあないか」
玄関から外に出ると、ハルは片手を腰に、もう片方の手を天高く伸ばし人差し指を立てた。通勤、通学中であろう人々が、何だあれはとじろじろ見ている。朝に人目のある場所で出現するという珍しいタイプの不審者だ。頼むから、同じ顔で変な事しないでほしい。
「恥ずかしいから、先行ってよ。三分経ったら出発するから」
「弟のミツ君が、兄のハル君に追いつくのは、ミツ君がお家を出発してから何分後でしょうか?」
「変な問題出さないで。僕、追いつくつもりないから。ハルよりゆっくり歩くから」
「からから、からから……。まったく、中に何が入っている音なんだろうね。ビー玉かな?」
ハルは自身の頭を指でとんとんと叩いた。
めちゃくちゃムカつく。
「うるさい。……もー、一緒に行けばいいんでしょ」
僕は鞄の持ち手を肩に掛け直した。
「分かってくれて嬉しいよ。では、行こうか」
結局、上機嫌でやたら目立つ兄と登校する羽目になってしまった。
僕の教室の前でハルと別れると、扉から少し顔を覗かせ中の様子をうかがった。ユウの席を見ると誰も座っておらず、鞄も置いていなかった。
ということは、今日も欠席なのだろう。
安堵すると同時に、ここまで彼を壊してしまった事への罪悪感がどっと押し寄せ身体がふらついた。
それがどうにも辛くて、自分の席にそそくさと向かい着席すると、僕は机に突っ伏した。僕を守ってくれるブランケットはないので、外界と遮断するにはこれしかないのだった。
やっぱり学校なんて来るんじゃなかった。
僕なんかが来たところで誰も喜ばないし、むしろ何のうのうと来ているんだよと罵られて当然だ。何なら誰でもいいから罵ってほしい。
平穏で賑やかなクラスメイトたちの話し声が、耳に入ってくる。
僕もあんな風に普通に生きられたらいいのに。
分かってる。彼らにだって苦しみはあるのだろうし、ああして過ごす事ができているのも、彼らの日々の努力があってこそ。僕なんかが羨むのがそもそも烏滸がましいんだ。
ああ、でもいいな。
僕だって誰かと関わりたかった。
ずっと寂しかったんだ。
「おい」
それなのに、関わってくれそうな人を壊して、僕は一体何がしたかったんだ。こんな救いようのない馬鹿、僕以外になかなかいないんじゃないかな。
「おいってば」
難しいよ、人間関係。作るだけならまだしも、維持しないといけないって正気の沙汰とは思えない。
「ミツ」
名前を呼ばれ、反射的に顔を上げた。
「え……?」
「おはよ」
隣にユウが立っていた。
その顔には、ぎこちない笑みが浮かんでいる。
「お前、何で昨日休んだん?」
「あ……ちょっと……しんどくて……」
「今日はもういいのか?」
「う……うん。本当は休みたかったけど、ハルに連行されて……」
「ああ。あいつ、本当にめちゃくちゃだな」
何で今、ユウと普通に話しているんだろう。
「……どうして?」
「何が?」
僕が尋ねると、きょとんとした顔を浮かべた。
「その……どうして、僕に話しかけたの?」
「お前に話しかける理由っていちいちいるか?」
「で……でもっ。だって、僕。……僕のこと……許してないでしょ」
自分で言っていて苦しくなる。
僕はユウに拒絶された。拒絶されて当然の奴なんだ。許されなくて当然なのに。
「え? うーん、そうだな……うん、確かに、許していない」
頭を軽くかきながら彼が言った言葉に、僕の全身が強張った。分かってはいたけれど、改めて本人に言われ冷や汗がどっと噴き出した。僕が黙っていると、見かねたのだろうか、ユウの唇が動いた。
「俺って先週まるまる休んだだろ? だから、来週の試験ヤバいんだよね。このままだと、全教科赤点も夢じゃない。だから」
ユウが学校を休んでしまって勉強についていけていないのは、僕のせいだ。
俯き、床を見つめる。
「罰として、俺に勉強教えろ」
彼が言った言葉の意味が瞬時に理解できず、のろのろと頭を起こし見上げた。
目が合うと、ユウは朗らかに笑った。
「別にそれでチャラにはしてやんねーけど」
あまりにも眩しくて、目を眇めた。
この光景、声、言葉を、僕は生涯忘れることはないだろうと思った。
こんな僕にも救済の手が差し伸べられたんだ。
胸の内から熱いものが込み上げ、自分の両目から流れ始めた。
「うん……うんっ。僕にできる事なら……ユウのため、何だってするよ……何だって……」
「泣くなって」
涙を拭おうともせず、つっかえつっかえ話す僕を見て、ユウは慌てた。泣いている僕なんか放っておけばいいのに、何て優しいのだろう。そう思うと、さらに涙が溢れてきた。
「ちょっと、京本。なに朝っぱらから加賀美くん泣かせてるの?」
「酒井、違うんだ。これは誤解で……」
「あんたが話しかけたから泣いちゃったんでしょ」
「いや、まあそうなんだけどさ。でも、違うんだ……」
「ふふっ」
言い争う光景が微笑ましくて、僕は笑った。
僕の人生の最高幸福地点は、今、この瞬間に更新された。
だから、その対価として僕の全てをあげよう。
