閉鎖生態系ver.2.0

 空は澄んだ水色から黒へと近づいていき、気がつけば街灯が灯る程周囲は真っ暗になっていた。この辺りは高い建物が比較的少ないから、星がよく見える。
 南東の空に、夏の大三角が浮かぶ。あの赤い星は、さそり座の一等星アンタレスだろう。
 この光は全部、数十年、数百年、あるいはもっと遥か昔に生まれた光だ。せいぜい長くて百年程度の寿命しかない僕には、まったく実感が湧かない。それをこうして今僕が見ている事は、奇跡としか言いようがない。
 ユウと過ごした季節は、僕にとって奇跡だったのだ。
 流れ星のように消してしまったけれど。
 また目頭が熱くなり、泣き始めてしまう。
 いい加減、目が痛かった。
 波が一段落して呼吸を整えると、ふと今の時刻が気になった。隣に置いてある鞄を開き、中からスマホを取り出した僕は、心臓が鷲掴まれたかと思うほどぎょっとした。
 ホーム画面には、21:17という数字と、ハルからの大量の着信履歴が表示されていた。
 やってしまった。
 涙がすっかり引っ込んでしまった僕は、スマホを鞄に突っ込むと、ベンチから立ち上がり家路へと急いだ。
 息を切らせながら家に着くと、僕は恐る恐る玄関の扉を開き中の様子を伺う。とりあえず、玄関周辺にハルはいないようで安堵した。
 ああなると、ハルはとても面倒だ。いい加減弟離れしてもらいたい。そう思って玄関に上がり、洗面所で手を洗った僕は完全に油断していた。
「おい」
 全身が硬直した。
 父さんがリビングに立っていた。
「あ……」
 サッと血の気が引いていく。
 今日、帰ってくる日だっけ……?
 父さんは無表情で僕の方へゆっくり歩いてきた。 
「陽輝。どこをほっつき歩いていた」
 僕は鞄の持ち手をぎゅっと握り締めた。
「僕は光月です」
「どっちでもいいだろ」
 ああ、そうだった。
「制服姿で夜に一人出歩くなんて、補導でもされたらどうするんだ。俺の顔に泥を塗る気か?」
 これだ。
「試験前に夜遊びなんてな。これで悪い成績でも取ってみろ」
 これが僕の世界だった。
「俺の子供が不良品なんて、恥ずかしくてならん。本当に俺の子なのか? 余計な血が混ざったからか?」
 これが現実なんだった。
「まぁ、いい。俺に迷惑掛けるなよ」
「はい……」
 父さんは温度のない声で淡々と話し終えると、ソファへ戻っていった。
 逃げるように、僕は階段を上り始めた。心臓がバクバクとうるさい。
 ハル……!
 自室に逃げると、ハルはベッドの中央を占拠してうつぶせに寝転がっていた。僕が来た事に気がつくと、読んでいたハードカバーからバッと顔を上げ、慌てたようにベッドから下りてこちらにやって来る。
「ミツっ。こんな遅くまでどこに行ってたんだ。私がどれだけ心配したと……」
 そこまで言って、ハルは言葉を飲んだ。
「あいつに何て言われた?」
 僕の目が腫れている事から、父さんに泣かされたと思ったのだろう。その声には抑えられない憎悪が込められていた。僕が黙ってうつむくと、ハルは舌打ちする。
「来週の月曜日まで出張で帰ってこないと踏んでいたが……。あーあ、折角の金曜の夜が台無しだ。ミツに心霊特集を見せようと思っていたのに」
「やめてよ……」
「秘密基地のスクリーンでも別にいいが……やっぱりホラーは音響が大事だ。リビングのオーディオセットがうちでは一番いいのに、あいつがいるんじゃあ近づけない」
 ハルは憤慨しているけれど、僕としては好都合。父さんには、番組が終わるまでリビングに居てもらいたいところだ。
「……僕、お風呂入って寝るね」
 クローゼットに向かい、棚から着替えを取り出していると、ハルが近づいてきた。
「夕飯はどうするんだ。食べてきたのか」
「食欲ないから、いいや……」
「一階に居づらいなら、この部屋で食べてもいい」
「本当にお腹空いてないんだ。だから、大丈夫」
 僕は笑ってみせるも、ハルはまだ心配なようで眉を下げた。
「そうか……。じゃあ、お風呂に入っておいで。目の腫れがひどいから、冷感シートを用意しておくよ」
「うん……。ありがとう……」
 着替えを手にして、僕は部屋を出た。
 足音を立てないように、ちらりとリビングの様子を伺った。ソファに座る父さんの後頭部が見える。どうやらパソコンをいじっているようで、僕に気づきそうもない。こっちを振り返らないよう祈りながら、僕はその後ろを通り過ぎ、浴室へと急いだ。脱衣所に入り鍵をかけると、ほっと息をつく。
 僕の何かを削ぎ落としていく父さんのあの目が嫌いだった。
 身体を洗うと、二、三人は余裕で入れそうな程広々とした浴槽の中、僕は小さく丸まった。
 自分は帰ってきたのだ。
 湯船に顔をつけた。
 相対的にはマイナスかもしれないけれど、プラスがゼロに戻っただけ。これまで普通に生きてこられたのだから、この先もきっと大丈夫。なんなら、この先はもっと大丈夫になるかもしれない。ほら、金属は叩けば叩くほど強くなるって言うし。
 顔を上げると、手で水滴を拭った。浴室に僕の溜息がやけに大きく響いた。
 お風呂から上がり部屋に戻ると、初期位置のように、またハルがベッドの中央を占拠していた。
「僕もう寝るから、電気消していい?」
「まだ十時になったばかりじゃないか。健全な高校生が眠るには早すぎやしないかな」
「健全だから早く寝るんだよ」
 僕がそう言うと、ハルはごろりと転がり、僕が眠るスペースを作ってくれた。電気を消していいらしい。
 隣に上がり、サイドテーブルに乗っているリモコンを手にして照明を消そうとすると、突然視界が真っ暗になった。
「冷たっ」
「これで明日には多少マシな顔になるんじゃないかな」
 シートを貼るのなら、普通声くらい掛けるでしょ。
「何にも見えないよ」
「どうせ目をつむるのだから、構わないだろう。アイマスクみたいなものだ。一石二鳥だと喜んだらどうかな」
「そうかもしれないけどさ……」
「ほら、良い子はもう寝るんだろう」
 ハルの声が聞こえたかと思うと、自分の身体がゆっくりとベッドに横たえられ、ブランケットが掛けられた。閉ざされた視界がグレーから濃い黒にパッと変わった事から、ハルが部屋の照明を消したと分かった。
「おやすみ」
「おやすみ」
 隣にハルの気配を感じながら、僕は眠りにつこうとする。
 今日は本当に疲れた。マットレスに身体が沈むと、急に全身が重くなったように感じた。
 頭の中、走馬灯のようにこれまでの出来事が再生されていく。客席で眺める立場でいればいいのに、ワンシーン毎に心が擦り減っていく。

 やっぱり僕は他人と関わるべきじゃなかったんだ。
 そう知った。
 これが、今回僕が獲得したもの。
 分不相応のものを求めた罰なんだ。
 ごめんなさい。
 僕は意識を手放した。