夏の匂いがする。
カラリと晴れた空は遠くどこまでも広がっていて、自分という存在がいかにちっぽけなものか思い知らされる。今年はまだ茹だるような猛暑日は到来していないものの、時折吹く風に、微かにその予感を覚えた。
僕は迷いなくインターホンを押した。
「ごめんください。加賀美です」
カメラに微笑んでみせると、「はーい」という明るい女性の声が返ってきた。やがて、鈍い音を立て正門が開いた。連日の訪問で顔馴染みとなった使用人の女性、確か福井さんという名であった、が人好きのする穏やかな顔を覗かせる。
「いらっしゃい。毎日来てくださりありがとうございます」
「いえ。僕が好きで来ているだけなので」
「良いお友達ね。暑いでしょう。早くお入り」
「ありがとうございます」
一礼すると、彼女の後に続く。歩きながら庭園を眺める。やっぱり日本の四季を一番美しく反映させるのは、自分の家みたいな洋風の庭ではなく日本庭園だ。鯉が泳ぐ池は太陽光を反射してきらきらと輝き、松の木は深い緑をたたえている。石造りの灯籠は外気の暑さの中でも涼しげで、見ているこちらの心も静まっていく気がする。
玄関に上がると、冷房のよく効いた空気に全身が包まれ、僕はふぅと小さく息をついた。
脱いだ靴を並べると、彼女の案内に従い目的地へと向かう。
「様子はどうですか?」
尋ねると、彼女は曖昧に笑い首を横に振った。
「期末試験もあるので、心配です。ラストスパートとばかりに進んだ科目もありますので」
「それは困りましたね。坊っちゃんは勉学はあまりお得意でないから。二年になってからは、頑張っていらっしゃるようですが」
「ユウは頭が良いので、今からでも良い成績を取れると思いますよ」
「そうだといいんですけどね……」
部屋の近くに着くと、笑顔で去っていく彼女に深く一礼した。
中庭から差し込む光が、空気中の塵に乱反射する様を数秒眺める。本当に良い天気だ。
来週から試験期間に入る。だから、金曜日の今日、放課後を迎える生徒たちは皆どこか浮足立っていた。試験があるというのに何かから解放されたようなふわふわとした気持ち。障子の奥の彼は微塵も感じていないのだろうけど。
わざと足音を立てると、ピッタリと合わさった障子の前に立った。
ゆっくり息を吸って吐くと、肩に掛けた鞄の持ち手を、両手でぎゅっと握った。
「今日も来たよ」
自分でも笑っちゃいそうな程震えた声だった。
「でも、明日からはもう来ない」
これ以上、何も悪くないユウに迷惑をかける訳にはいかない。
「この障子も開けない」
胸から込み上げるものを、溜息として吐き出した。
「たくさん考えたんだ。何でこうなっちゃったんだろうって。ずっと考えてたんだ。僕は話すのがあんまり上手じゃないから、うまく伝えられないかもしれないけど……たくさん傷つけてごめんなさい」
その場で深く頭を下げた。
「ユウの幸せを犠牲にして、自分が幸せになろうとした。全部僕が悪かったんだ。自分の事を不幸だと思って、それを他人のせいにして……不平等だってっ、僕は可哀想なんだってっ……他人から奪おうとまでした」
頭を上げる。
『俺を壊したことで、それは手に入ったか』
「ユウは……ユウは、こんな僕にも優しくしてくれたのにっ。友達になってくれたのにっ。……あんなに楽しかったのに、僕は馬鹿だ。ほんと、救いようのない馬鹿だよ。自分の手で全部壊した。自分がとっくのとうに幸せになっているって気づかなかったんだ」
障子の向こうに彼はいるはずなのに、その静けさから本当にいるのかどうか不安になった。
開けたい。
どういう表情をしているのか見たい。
声が聞きたい。
反応を知りたい。
今すぐ僕の名前を呼んでほしい。
でも、そんな事してはいけない。
『壊れたものは、二度と元の形には戻らない』
「僕は時間を巻き戻す事ができないから、だからっ、ユウの幸せを……も……元に戻す事が……できない。壊す事しかできない、どうしようもない奴なんだ……。何にもできないんだ。責任の一つもとる事ができないんだ」
唇を強く噛みしめると、血の味が口の中に広がった。ここで泣いてはいけない。僕は、痛みで涙を我慢する。
「もっ……もう……二度と……僕の声すら聞きたくないと思うけど……最後に……言っておかないとって思って……」
呼吸を繰り返し、覚悟を決めた。
「僕と仲良くしてくれて、ありがとうございました」
もう一度、深く頭を下げた。
その後、彼の家を去った。
電車に乗り、窓の外に流れる景色を一つ一つ記憶するように見つめた。二度と目にする事はないだろうから。最寄り駅に到着し、外に出た。やっぱり今日は良い天気だ。
駅前のベンチに腰を下ろすと、一人泣いた。
カラリと晴れた空は遠くどこまでも広がっていて、自分という存在がいかにちっぽけなものか思い知らされる。今年はまだ茹だるような猛暑日は到来していないものの、時折吹く風に、微かにその予感を覚えた。
僕は迷いなくインターホンを押した。
「ごめんください。加賀美です」
カメラに微笑んでみせると、「はーい」という明るい女性の声が返ってきた。やがて、鈍い音を立て正門が開いた。連日の訪問で顔馴染みとなった使用人の女性、確か福井さんという名であった、が人好きのする穏やかな顔を覗かせる。
「いらっしゃい。毎日来てくださりありがとうございます」
「いえ。僕が好きで来ているだけなので」
「良いお友達ね。暑いでしょう。早くお入り」
「ありがとうございます」
一礼すると、彼女の後に続く。歩きながら庭園を眺める。やっぱり日本の四季を一番美しく反映させるのは、自分の家みたいな洋風の庭ではなく日本庭園だ。鯉が泳ぐ池は太陽光を反射してきらきらと輝き、松の木は深い緑をたたえている。石造りの灯籠は外気の暑さの中でも涼しげで、見ているこちらの心も静まっていく気がする。
玄関に上がると、冷房のよく効いた空気に全身が包まれ、僕はふぅと小さく息をついた。
脱いだ靴を並べると、彼女の案内に従い目的地へと向かう。
「様子はどうですか?」
尋ねると、彼女は曖昧に笑い首を横に振った。
「期末試験もあるので、心配です。ラストスパートとばかりに進んだ科目もありますので」
「それは困りましたね。坊っちゃんは勉学はあまりお得意でないから。二年になってからは、頑張っていらっしゃるようですが」
「ユウは頭が良いので、今からでも良い成績を取れると思いますよ」
「そうだといいんですけどね……」
部屋の近くに着くと、笑顔で去っていく彼女に深く一礼した。
中庭から差し込む光が、空気中の塵に乱反射する様を数秒眺める。本当に良い天気だ。
来週から試験期間に入る。だから、金曜日の今日、放課後を迎える生徒たちは皆どこか浮足立っていた。試験があるというのに何かから解放されたようなふわふわとした気持ち。障子の奥の彼は微塵も感じていないのだろうけど。
わざと足音を立てると、ピッタリと合わさった障子の前に立った。
ゆっくり息を吸って吐くと、肩に掛けた鞄の持ち手を、両手でぎゅっと握った。
「今日も来たよ」
自分でも笑っちゃいそうな程震えた声だった。
「でも、明日からはもう来ない」
これ以上、何も悪くないユウに迷惑をかける訳にはいかない。
「この障子も開けない」
胸から込み上げるものを、溜息として吐き出した。
「たくさん考えたんだ。何でこうなっちゃったんだろうって。ずっと考えてたんだ。僕は話すのがあんまり上手じゃないから、うまく伝えられないかもしれないけど……たくさん傷つけてごめんなさい」
その場で深く頭を下げた。
「ユウの幸せを犠牲にして、自分が幸せになろうとした。全部僕が悪かったんだ。自分の事を不幸だと思って、それを他人のせいにして……不平等だってっ、僕は可哀想なんだってっ……他人から奪おうとまでした」
頭を上げる。
『俺を壊したことで、それは手に入ったか』
「ユウは……ユウは、こんな僕にも優しくしてくれたのにっ。友達になってくれたのにっ。……あんなに楽しかったのに、僕は馬鹿だ。ほんと、救いようのない馬鹿だよ。自分の手で全部壊した。自分がとっくのとうに幸せになっているって気づかなかったんだ」
障子の向こうに彼はいるはずなのに、その静けさから本当にいるのかどうか不安になった。
開けたい。
どういう表情をしているのか見たい。
声が聞きたい。
反応を知りたい。
今すぐ僕の名前を呼んでほしい。
でも、そんな事してはいけない。
『壊れたものは、二度と元の形には戻らない』
「僕は時間を巻き戻す事ができないから、だからっ、ユウの幸せを……も……元に戻す事が……できない。壊す事しかできない、どうしようもない奴なんだ……。何にもできないんだ。責任の一つもとる事ができないんだ」
唇を強く噛みしめると、血の味が口の中に広がった。ここで泣いてはいけない。僕は、痛みで涙を我慢する。
「もっ……もう……二度と……僕の声すら聞きたくないと思うけど……最後に……言っておかないとって思って……」
呼吸を繰り返し、覚悟を決めた。
「僕と仲良くしてくれて、ありがとうございました」
もう一度、深く頭を下げた。
その後、彼の家を去った。
電車に乗り、窓の外に流れる景色を一つ一つ記憶するように見つめた。二度と目にする事はないだろうから。最寄り駅に到着し、外に出た。やっぱり今日は良い天気だ。
駅前のベンチに腰を下ろすと、一人泣いた。
