「お百度参りかな」
ハルが楽しそうに目を細めた。
夕食会議はまさかの二日連続開催となった。
今日は肉じゃがをメインとした和食だが、この家の白い洋風のテーブルにはあまり似合わない。ユウの家で食べた方が遥かに美味しく感じるんだろうな。
「まだ明日で三回目だよ」
指を三本立て、ずいっと突きだした。
「いずれ百になるかもしれないじゃないか。あと九十七回お祈りしたら、ミツの神様は一体どんな御利益を授けてくださるのだろうね」
「僕は無神論者だから」
「別に一つくらい神様を心に置いてもいいだろう。スペースはたんまりあるはずだ」
心の体積は有限ってこと?
その一つ置く神様が大きければ、もうそれだけでいっぱいになってしまうのでは。
僕の心がその神様でいっぱいになったとき、僕自身がその神様になるのだろうか。いや、違うな……。
僕はお味噌汁を一口飲むと、脱線しかけた思考を軌道修正する。
「ハルが行けって言ったくせに」
「別に私は毎日行けだなんて言っていないよ」
僕は唇を噛んで恨めしげに兄の顔を見た。対して、そんな視線など全く意に介せず、ハルは白米を食べている。煙に巻いたような事ばかり言うものだから困ったものだ。
何不自由ない暮らし。
ご飯は美味しいものが毎食用意されるし、広い家には埃一つ落ちていない。学校も名門。欲しいといえば父さんは基本的に何だって買ってくれる。
「……ハルって今幸せ?」
「生憎、新しい神様を迎え入れる事は検討していないんだ」
僕は新興宗教の勧誘なんてしていない。
「そうじゃなくて、シンプルに幸せかどうかってこと。土曜日の後」
ハルは咀嚼しながら数秒考え込むと、手に持ったお椀と箸を置くことなく口を開いた。
「満ち足りた……にはまだ遠いが、少なくとも幸せではあるだろうね。あんな素晴らしい光景を間近で見る事ができたんだ」
その表情は、なかなか幸せそうに見えた。
「……今日のユウは静かだったよ。昨日は何ていうか激しかったのに」
「へぇ。見てみたいね」
「じゃあ、明日一緒に行く?」
「遠慮しておくよ」
感嘆した声を上げるものだから誘ったのに、また断られてしまった。
「何が引っかかっているのかな」
「俺を壊して幸せかって言われた」
「これまた、手痛い」
大袈裟に手を叩いてハルは笑った。そして、暗闇に潜む猫みたいに両目を爛々と輝かせる。
「彼は思っていたより頭が回るようだ。いや、回るようになったのか? 幸せな環境にいる人間は頭なんて使わなくとも生きていけるからね。幸せだから」
つまり、僕たちが、幸せなユウを不幸にしたってこと。
「前よりずっと、楽しいお話ができそうだ」
喉奥をクツクツと鳴らして笑った。
だったら、僕と一緒に来ればいいのに。
「僕は楽しくない……」
目の前で自分と同じ容姿の存在が楽しげにすればするほど、僕の心は沈んでいく。ユウから浴びせられた冷たい視線に罵倒、尋問、拒絶が、頭の中に溶けない雪のように降り積もっていく。
「自分に似るほど、もっと仲良くなれて、楽しくなると思っていたのに」
パチンとハルが指を鳴らした。
「同一化願望とでも言うのかな。普遍的によくある話だ。運命の男女はもともと一つの生命体であっただとか、心中した男女は双子に生まれ変わるだとか、そういった類のもの。そうなると、私とミツは前世で心中した事になるがね」
「……意味分かんない」
気持ち悪い事言わないでほしい。
ハルと恋人になる人なんているのかな。
「食べちゃいたいくらい可愛いって奴も、その一種か。要は取り込みたいのさ」
「?」
「他者と同一化する事は、自分と他者の境界線を溶かし、自分という存在をより大きくする事に繋がる」
「それが何。僕は、僕が大きくなっても小さくなっても、嬉しくも何ともないよ。現代文の問題でも作っているつもり?」
「まあまあ、聞き給え。何も同一化すると言っても、完全に同じにはなり得ない。限りなく同一に近づくってだけだ。でも、考えてごらん。自分の一番の味方は自分だし、自分を一番理解しているのも、結局は自分なんだ。そんな『自分』が、いや、『自分』に限りなく近い存在がいたとすれば?」
「……その人は、僕の味方だし、僕を深く理解してくれるってこと?」
「もし、そういう人がいたら?」
「……寂しくない。安心できる」
僕にとってのハルがそうだ。
ムカつくこともあるけど、いつだって僕を守ってくれるし、こうやって話も聞いてくれる。今までは、ハルさえいれば他の人なんてどうでもいいと思っていたんだけど。
「どうやら、私だけではミツの空洞を満たすには足りなかったみたいだね」
冷たい声にギクリと強張ると、ハルが口角を上げた。
笑顔を浮かべているけど、寂しそうな、僕を責めるかのような視線に背筋が伸びる。
「でもそんな、自分の寂しさを埋めるために誰かを利用していいのかな。その人は、そんなもののために存在するわけじゃないのに」
「別にいいだろう」
僕の問いに対し、目の前の兄はけろりと回答した。
「生きるって事は欲望を追い求め、得続ける事だ。ほら」
僕の器に半分ほど残っている肉じゃがを指差す。その先端に吸い寄せられるように、僕の視線は誘導された。
「今食べている、肉、野菜、米……。彼らだって生きていたんだ。けれども、ミツの生きたい、食べたいという欲望の犠牲となり、同一化する」
細長い指が、今度は僕の顔を差した。
「何が違う」
自分の喉がやけに大きく鳴った。突きつけられているのは刃物ではなくてただの指だというのに、緊張感が身体を一瞬にして縛り上げる。
「そうだけど……違うじゃん。ユウは人間だよ、食べ物とはわけが違う」
「同族である人間と、食べ物。どこが違う」
「ど……どこって。言うまでもないでしょ」
「説明してもらわないと、兄には理解できないよ」
ハルは両肘をついて手を組み、顎を乗せた。こちらの神経を逆なでる、にやにやした笑顔。
僕だって、馬鹿にされて黙っているわけにはいかない。
「ユウは……壊されたくなかったって言ってた……土曜も暴れてた……。でもっ、食べ物はそんな風に抵抗しないでしょ」
「その肉は、とある牛の死体だ。抵抗しただろうねぇ。聞こえてくるかのようだ、哀れな牛の最後の悲鳴が……。平穏な日常を壊された彼と、命を奪われた牛。どちらの方がより悲惨なのかな」
「ユウは人で」
「ああっ! 悲しいよ、ミツ。家畜である牛の命は、人の命よりも遥かに価値が劣ると言うんだね……」
客席最後部にまで届くようなわざとらしい嘆きの声を上げたかと思うと、すっと表情を消した。
「それはそうだ」
うわ、でた。
「命の重さは皆違う。軽い命もあれば、重い命もある。平等なんて最初から無理なんだ」
その声に徐々に熱がこもっていき、洗脳するかのような響きを纏い始める。
「種族間だけではないよ。人の間でだってそうだ。見ず知らずの人間よりも、自分にとって大切な人間の命の方が当然重い。だから、一番価値ある『自分』のために、他の人間を犠牲にする事はとても自然な事さ。何も恥じる事はない。だというのに、やれ人は――」
ああ、もう喋らないでよ。
ハルの言っている事は詭弁。「はい、そうですね」と安易に首を縦に振っていい思想ではない。でも、僕には撃ち返せる弾がなかった。
「大切だよ……。僕にとって、ユウは大切なんだよ……」
拙い言葉を絞り出す事しか、今の僕にはできない。
どうして僕は上手に話せないのだろう。ハルは相変わらずペラペラと聞くに堪えない思想を語っている。
「僕のために壊していい訳がなかったんだ……」
無意識に口にした言葉にハッとした。
そっか。
壊したらより大切になるんじゃなくて、大切だから壊してはいけなかったんだ。
大切にする事と壊す事がニアリーイコールで結ばれていたけれど、これらは真逆のものだったのだ。大切にしたいのに壊していたから、僕はこんなにも苦しいんだ。
そして、ユウはもっと苦しい思いをしている。
「ハル。どうしよう……」
助力を乞うように兄を見上げると、何かを見定めるように僕のことを見つめ返してきた。
「壊れたものは、二度と元の形には戻らない。よく知っているだろう?」
止めを刺すように、グサリと胸に突き刺した。
「さて、私はお風呂にでも入ってくるとしようかな」
大きく伸びをして立ち上がると、きれいに空になった器をひょいひょいと食洗機の中に並べ、僕を置いてダイニングを後にしようとする。
去り際、悪戯めいた笑顔でハルは言った。
「ごちそうさま」
ハルが楽しそうに目を細めた。
夕食会議はまさかの二日連続開催となった。
今日は肉じゃがをメインとした和食だが、この家の白い洋風のテーブルにはあまり似合わない。ユウの家で食べた方が遥かに美味しく感じるんだろうな。
「まだ明日で三回目だよ」
指を三本立て、ずいっと突きだした。
「いずれ百になるかもしれないじゃないか。あと九十七回お祈りしたら、ミツの神様は一体どんな御利益を授けてくださるのだろうね」
「僕は無神論者だから」
「別に一つくらい神様を心に置いてもいいだろう。スペースはたんまりあるはずだ」
心の体積は有限ってこと?
その一つ置く神様が大きければ、もうそれだけでいっぱいになってしまうのでは。
僕の心がその神様でいっぱいになったとき、僕自身がその神様になるのだろうか。いや、違うな……。
僕はお味噌汁を一口飲むと、脱線しかけた思考を軌道修正する。
「ハルが行けって言ったくせに」
「別に私は毎日行けだなんて言っていないよ」
僕は唇を噛んで恨めしげに兄の顔を見た。対して、そんな視線など全く意に介せず、ハルは白米を食べている。煙に巻いたような事ばかり言うものだから困ったものだ。
何不自由ない暮らし。
ご飯は美味しいものが毎食用意されるし、広い家には埃一つ落ちていない。学校も名門。欲しいといえば父さんは基本的に何だって買ってくれる。
「……ハルって今幸せ?」
「生憎、新しい神様を迎え入れる事は検討していないんだ」
僕は新興宗教の勧誘なんてしていない。
「そうじゃなくて、シンプルに幸せかどうかってこと。土曜日の後」
ハルは咀嚼しながら数秒考え込むと、手に持ったお椀と箸を置くことなく口を開いた。
「満ち足りた……にはまだ遠いが、少なくとも幸せではあるだろうね。あんな素晴らしい光景を間近で見る事ができたんだ」
その表情は、なかなか幸せそうに見えた。
「……今日のユウは静かだったよ。昨日は何ていうか激しかったのに」
「へぇ。見てみたいね」
「じゃあ、明日一緒に行く?」
「遠慮しておくよ」
感嘆した声を上げるものだから誘ったのに、また断られてしまった。
「何が引っかかっているのかな」
「俺を壊して幸せかって言われた」
「これまた、手痛い」
大袈裟に手を叩いてハルは笑った。そして、暗闇に潜む猫みたいに両目を爛々と輝かせる。
「彼は思っていたより頭が回るようだ。いや、回るようになったのか? 幸せな環境にいる人間は頭なんて使わなくとも生きていけるからね。幸せだから」
つまり、僕たちが、幸せなユウを不幸にしたってこと。
「前よりずっと、楽しいお話ができそうだ」
喉奥をクツクツと鳴らして笑った。
だったら、僕と一緒に来ればいいのに。
「僕は楽しくない……」
目の前で自分と同じ容姿の存在が楽しげにすればするほど、僕の心は沈んでいく。ユウから浴びせられた冷たい視線に罵倒、尋問、拒絶が、頭の中に溶けない雪のように降り積もっていく。
「自分に似るほど、もっと仲良くなれて、楽しくなると思っていたのに」
パチンとハルが指を鳴らした。
「同一化願望とでも言うのかな。普遍的によくある話だ。運命の男女はもともと一つの生命体であっただとか、心中した男女は双子に生まれ変わるだとか、そういった類のもの。そうなると、私とミツは前世で心中した事になるがね」
「……意味分かんない」
気持ち悪い事言わないでほしい。
ハルと恋人になる人なんているのかな。
「食べちゃいたいくらい可愛いって奴も、その一種か。要は取り込みたいのさ」
「?」
「他者と同一化する事は、自分と他者の境界線を溶かし、自分という存在をより大きくする事に繋がる」
「それが何。僕は、僕が大きくなっても小さくなっても、嬉しくも何ともないよ。現代文の問題でも作っているつもり?」
「まあまあ、聞き給え。何も同一化すると言っても、完全に同じにはなり得ない。限りなく同一に近づくってだけだ。でも、考えてごらん。自分の一番の味方は自分だし、自分を一番理解しているのも、結局は自分なんだ。そんな『自分』が、いや、『自分』に限りなく近い存在がいたとすれば?」
「……その人は、僕の味方だし、僕を深く理解してくれるってこと?」
「もし、そういう人がいたら?」
「……寂しくない。安心できる」
僕にとってのハルがそうだ。
ムカつくこともあるけど、いつだって僕を守ってくれるし、こうやって話も聞いてくれる。今までは、ハルさえいれば他の人なんてどうでもいいと思っていたんだけど。
「どうやら、私だけではミツの空洞を満たすには足りなかったみたいだね」
冷たい声にギクリと強張ると、ハルが口角を上げた。
笑顔を浮かべているけど、寂しそうな、僕を責めるかのような視線に背筋が伸びる。
「でもそんな、自分の寂しさを埋めるために誰かを利用していいのかな。その人は、そんなもののために存在するわけじゃないのに」
「別にいいだろう」
僕の問いに対し、目の前の兄はけろりと回答した。
「生きるって事は欲望を追い求め、得続ける事だ。ほら」
僕の器に半分ほど残っている肉じゃがを指差す。その先端に吸い寄せられるように、僕の視線は誘導された。
「今食べている、肉、野菜、米……。彼らだって生きていたんだ。けれども、ミツの生きたい、食べたいという欲望の犠牲となり、同一化する」
細長い指が、今度は僕の顔を差した。
「何が違う」
自分の喉がやけに大きく鳴った。突きつけられているのは刃物ではなくてただの指だというのに、緊張感が身体を一瞬にして縛り上げる。
「そうだけど……違うじゃん。ユウは人間だよ、食べ物とはわけが違う」
「同族である人間と、食べ物。どこが違う」
「ど……どこって。言うまでもないでしょ」
「説明してもらわないと、兄には理解できないよ」
ハルは両肘をついて手を組み、顎を乗せた。こちらの神経を逆なでる、にやにやした笑顔。
僕だって、馬鹿にされて黙っているわけにはいかない。
「ユウは……壊されたくなかったって言ってた……土曜も暴れてた……。でもっ、食べ物はそんな風に抵抗しないでしょ」
「その肉は、とある牛の死体だ。抵抗しただろうねぇ。聞こえてくるかのようだ、哀れな牛の最後の悲鳴が……。平穏な日常を壊された彼と、命を奪われた牛。どちらの方がより悲惨なのかな」
「ユウは人で」
「ああっ! 悲しいよ、ミツ。家畜である牛の命は、人の命よりも遥かに価値が劣ると言うんだね……」
客席最後部にまで届くようなわざとらしい嘆きの声を上げたかと思うと、すっと表情を消した。
「それはそうだ」
うわ、でた。
「命の重さは皆違う。軽い命もあれば、重い命もある。平等なんて最初から無理なんだ」
その声に徐々に熱がこもっていき、洗脳するかのような響きを纏い始める。
「種族間だけではないよ。人の間でだってそうだ。見ず知らずの人間よりも、自分にとって大切な人間の命の方が当然重い。だから、一番価値ある『自分』のために、他の人間を犠牲にする事はとても自然な事さ。何も恥じる事はない。だというのに、やれ人は――」
ああ、もう喋らないでよ。
ハルの言っている事は詭弁。「はい、そうですね」と安易に首を縦に振っていい思想ではない。でも、僕には撃ち返せる弾がなかった。
「大切だよ……。僕にとって、ユウは大切なんだよ……」
拙い言葉を絞り出す事しか、今の僕にはできない。
どうして僕は上手に話せないのだろう。ハルは相変わらずペラペラと聞くに堪えない思想を語っている。
「僕のために壊していい訳がなかったんだ……」
無意識に口にした言葉にハッとした。
そっか。
壊したらより大切になるんじゃなくて、大切だから壊してはいけなかったんだ。
大切にする事と壊す事がニアリーイコールで結ばれていたけれど、これらは真逆のものだったのだ。大切にしたいのに壊していたから、僕はこんなにも苦しいんだ。
そして、ユウはもっと苦しい思いをしている。
「ハル。どうしよう……」
助力を乞うように兄を見上げると、何かを見定めるように僕のことを見つめ返してきた。
「壊れたものは、二度と元の形には戻らない。よく知っているだろう?」
止めを刺すように、グサリと胸に突き刺した。
「さて、私はお風呂にでも入ってくるとしようかな」
大きく伸びをして立ち上がると、きれいに空になった器をひょいひょいと食洗機の中に並べ、僕を置いてダイニングを後にしようとする。
去り際、悪戯めいた笑顔でハルは言った。
「ごちそうさま」
