閉鎖生態系ver.2.0

 月曜日、ユウは学校を休んだ。
 その次の日も、学校に来なかった。

「あれ?」

「加賀美くん、京本くんと仲良いでしょう? 放課後、ご自宅にプリント持っていってくれない? 提出締切近いから」
「あ……はい」
 郵送ではダメなのかな。
 水曜日の昼休み。
 担任の森園先生に職員室に呼び出された僕は、先生の前で突っ立っていた。先生は昼食の途中だったそうで、乱雑に書類が散らばる机の僅かな隙間にお弁当箱が所狭しと乗っている。
 お金のある学校なんだから、わざわざ生徒を伝書鳩にしなくてもいいのに。
 でも、ユウが心配だったので、合法的に会えるのは幸運だと思った。
「あの……僕、ユウ……京本くんの家、知らないのですが……」
「あら、そうなの? じゃあ、教えてあげるから」
 森園先生はそう言うと、近くにあったメモ帳にボールペンでサラサラと住所を書き込んだ。そして、ピリッと切り離すと、クリップで留めた書類の束とともに「はい」と僕に手渡してきた。
 プライバシー……。
「えっと、こういうのって良いんですか?」
「ん? 何が?」
「その……一生徒の住所を、他の生徒に無断で伝えるの……」
「一生徒って。友達同士でしょう? 細かいわねぇ」
「はぁ……」
「京本くんのお家には、あなたが届ける事を連絡しておくから」
 森園先生は快活に笑い出した。それに対し、僕は生返事を返す。
 僕が気にしすぎなのだろうか。友達という資格は思っていたよりも強い効力と信用性を有するらしい。
 好都合だから、いいのだけれど。
「じゃあ、よろしくね。お大事にって伝えておいてね」
「はい……」
 僕は一礼し、職員室を出て扉を閉めた。扉から少し離れると、森園先生からもらったメモをまじまじと見つめる。
「どうしちゃったんだろ……」
 体調不良とは聞いているけれども、まだ土曜日の衝撃が身体に残っているのかな。確かにあの日、ユウは吐いてしまったけど、それは想定の範囲内。だって、僕も初めて見たときに吐いてしまったから。
 あの日も土曜日の夜だった。その次の日、ハルに連れられ父さんを問い詰めに行った。
『京本は俺のだ。やらんぞ』
 ……嫌な事思い出しちゃった。
 ……月曜日は普通に小学校に二人とも行った。だから、てっきりユウも月曜日には回復して学校に来るものだと思っていたけれど、小学生と高校生では違うのかな。
 教室に戻ると、何故かハルが僕の席に座って紙に何か書いていた。
「邪魔。どいて」
「似たようなものだから、別にいいだろ」
 僕を見上げると、意地の悪い笑顔を浮かべた。
「よくない。どいて」
「はぁ。とうとう反抗期かな」
 ハルは面倒そうに席を立つと、僕の机の上に腰掛け脚を組んだ。
 邪魔。
 でも、こうなったらどうせ何言ったところで退かないので、僕は空いた椅子に座った。
「今日も彼は不在か」
「うん。だから、プリント持っていくように頼まれた」
「……ふーん」
 森園先生からもらったプリントを見せると、興味深そうに紙の束を見た。
「ハルも来る?」
「いや、遠慮しておくよ。今日は文芸部の奴らに私の新作を心ゆくまで堪能してもらうからね」 
「嫌がらせやめなよ」
「嫌がらせではない」
「あっそ」
 断られてしまった。興味あると思ったんだけど。
 となると、ユウの家に僕一人で行くことになるのか。
 同級生の家に一人で行くのなんて初めてだから、緊張するな。
「……放課後、彼の家に行くのかい?」
「うん。そうだけど」
 やっぱり行きたいのかな。
「気が変わった?」
「いや? 帰ったら感想を聞かせてもらうよ」
 そう言うと、ハルは僕の机から降りた。そして、そのまま教室から立ち去ろうとする。
「もう行くの?」
「ああ。最後の推敲をしてしまいたいからね」
「そう……」
 廊下へ出ていく後ろ姿を見送ると、僕は広くなった机の上にお弁当を置き昼食をとった。

 一人で食べるのって、こんなに静かだったんだ。

 今日は七限まであったので、放課後を迎えると既に十六時半を過ぎていた。返却期限が迫っている本をとっとと返してしまおうと図書館に向かうと、カウンターに座っていた当番の図書委員に声を掛けられる。
「あ……あの……」
 一年の子だ。
「加賀美先輩が予約されていた本……返ってきていますので……」
「あっ。忘れてた」
 今朝、机の上に連絡が置かれていた事をすっかり忘れていた。あんなに心待ちにしていたのに、どうして忘れていたのだろう。
「じゃあ、これ返して、そっち借ります」
 肩に下げた鞄から本を取り出し、その子に手渡した。その子はぺこりと小さく礼をすると返却処理を始めたので、その様子を見つめる。
 中等部の頃から図書委員を続けているだけあって、手際が良い。
 そういえば、僕の次の当番は来週だっけ。
 何しよっかな。
「あの……」
「うん」
「どうかしましたか?」
「別に」
「あっ……はい……」
 僕は視線をカウンターから図書室内へと移した。期末試験が近いからか、いつもより賑わいを見せている。人が多いのは好きじゃないから僕としては困るところ。
 それにしても、今日はいい天気だな。
 開放的な窓の外には青い空が広がっている。それなのに皆して机にかじりついて勉強しているものだから、少しもったいないなと思った。
 もったいないとなると、家に籠もっているユウだってそうだ。外で走るのが好きなのに、こんな天気の日まで家にいるなんて可哀想。来週からはテスト期間で部活もなくなるのに。明日は学校に来れるかな。
 ふわふわとした白い雲がゆっくりと流れてきた。
 あの先に宇宙があるのだと思うと何だか不思議だ。いや、地表から上が既に宇宙なのかな。ああ、でも、地球全体含んでの宇宙か。そうか、僕も宇宙人かぁ。
「すみません……あの、すみません……終わりました……」
 カウンターに視線を戻すとお目当ての本がぽつんと置かれていたので、鞄の中にしまう。
「ありがとう」
 軽く頭を下げると、その子もつられたように頭を下げた。

「えっと、ユウの家……」
 玄関先にて、メモに書かれた住所をスマホの地図アプリに入力すると一点が指し示されたので、星印をつけた。ここからの経路を調べる。
 最寄り駅まで徒歩十分。
 電車に乗って二十分。
 駅から徒歩二十分。
「……結構遠いや」
 家に帰るのは二、三時間後になりそうだ。遅くなりそうだったら、先に夜ご飯食べておいてとハルに連絡しないといけない。
 平日は学校と自宅を行き来するだけで、休日もあまり外出しないので、駅に行く事自体久しぶりだ。この時期は夕方と言えども日が沈むのが遅いため、真昼と錯覚するほど明るい。駅までのショートカットとして森林公園を突っ切る。
 木だ。
 野良猫が寝てる。
 鯉。
 ふらふら寄り道したので、結局時間がかかってしまった。
「まぁ、いっか」
 駅に着くと、ちょうど二分後の電車に間に合いそうだった。道草した分を取り戻そうと、改札を抜けエスカレーターを駆け上がる。ホームに着くと電車が入ってきたので、行き先を確認し、息を切らせながら乗りこんだ。発車すると、窓に映る見慣れない景色を眺める。
 住宅街、田んぼ、工場、川、田んぼ……。
 ユウはいつも電車からこの景色を見ているのかと思うと、不思議な感じがした。先程借りた本を車内で読もうと思っていたのに、そんなことを考えているとあっという間に目的の駅名を告げるアナウンスが聞こえてきた。
 駅の外に出ると見渡す限り知らない景色で、自分の中のマップが更新されたみたいで面白い。地図アプリを開き、ユウの家へのルートを確認した。
 周囲の景色を楽しみながら、緩やかな坂道を登る。遠くに小学校か中学校らしきものが見える。学区からして、ユウはここに通っていたのだろう。すぐ傍を、小学生複数人が楽しそうに駆け抜けていった。
 住宅街がしばらく続くと、段々人家がまばらになっていき、坂の頂上にいただくかのように目的地が姿を現した。
 僕は、地図アプリと目の前の建物を見比べる。
「わぁ……日本家屋だ」
 流石と言ってはなんだけど、立派な木で作られた門とその両端から伸びる竹垣。上から覗いている家は、そこだけでもう、富と伝統を感じさせた。
 ユウはあんな感じだけど、由緒正しい家で育ったもんね。
 ふとした仕草に育ちの良さが出ている。うん。
 どうやって入るのだろうと門の周りを探すと、京本と書かれた表札の下にインターホンが美観を損ねないようにひっそり取り付けられているのを発見した。宅配業者の人とかは困らないのだろうか。
 どきどきしながら押すと、「はい」という女性の声が聞こえてきた。
「えっと……ユウ……優希くん、いますか」
「あらっ! 坊っちゃんのお友達?」
「は……はい……プリント持ってきました」
 ユウ、家で「坊っちゃん」って言われてるんだ。
「ちょっと待っていてちょうだい」
 おとなしくその場で待っていると、門が奥にギィっと開き、中から穏やかそうな白髪混じりの女性が現れた。ユウのお母さんではなさそう。「坊っちゃん」って言っていたし、似ていない。
「いらっしゃい」
「は……はい。加賀美光月と申します」
 僕は深く一礼した。
「まぁ。加賀美さんのとこの。坊っちゃんからお話聞いておりますよ、新しくできたお友達だって。どうぞ、中に入ってちょうだい」
 友達。
 ころころと笑いながら手招きされたので、その後に続いて門の中に足を踏み入れた。真正面から見たユウの家は立派なもので、右には大きな松の木が、左には石造りの池があり、赤、白、黒のまだら模様をした鯉が数匹優雅に泳いでいる。さっき森林公園にいた鯉とは、ゼロの数が圧倒的に違うのだろう。
「坊っちゃんったら土曜日の夜からお部屋に籠もりっきりでねぇ」
「はぁ」
 生返事を返しながら、僕は家へと続く石畳の上を歩く。
「お熱を測っても平熱だし、念のため病院に行きましょうかと尋ねても、別にいいって素っ気ない態度を取られるし」
「はい」
「もう私たち心配で心配で。旦那様が一番ご心配されていらっしゃるのですが、頼むから入ってくるなと言われましてねぇ。ずっとしょんぼりされているんですよ」
 それはそうだろうな。
 そう思ったけれど、当然口には出さず、「心配ですね」と中身のない相槌を打った。
「でも、お友達が来てくれてよかったわ」
 ガラリと玄関の戸を横に引くと、「どうぞ」と言われたので、「お邪魔します」と中に入った。玄関正面には金無地の屏風が立ち、その手前の大きな器には華やかながら品のある花が生けられていた。
 先生の作品だ。
 やっぱ見ていて悲しくなるな。不思議。
 両翼と左奥に廊下が伸び、外から見た通りかなり広い事が一目で分かる。
「ちょうど旦那様と奥様がいらっしゃるので、呼んできますね」
 彼女はにこりと微笑むと、僕に一礼して奥へと消えていった。
 花の匂いが混じった、よその家特有の空気に包まれていると、どうしてこうも落ち着かないのだろう。そわそわと僕は身体を小さくした。ユウの香りである。この家の子供なのだから、それはそうだ。
 それにしても、土曜日から籠もりっきりなんて、想定よりも支障を来たしているようで心配。そうと知っていればお見舞いに何か持ってきたのに。
「優希のお友達?」
 上から声が落ちてきたので見上げると、優しそうな女性が微笑んでいた。
 あっ。ユウのお母さんだ。
 一目見てそう判断した僕は立ち上がり、彼女にも深く一礼した。
「はじめまして、京本くんのお母様。加賀美光月と申します」
「あら……。優希のためにわざわざありがとう。部屋にいるから会いに行ってあげてね」
「上がっていいんですか?」
「当然よ。いつも加賀美さんのとこに泊めてもらっているのはうちの子の方なんですもの。土曜日はごめんなさいね、あの子体調崩しちゃって。その上クッキーまでいただいてくるなんて……。本当にありがとうね、光月くん。とっても美味しかったわ」
「喜んでいただけて幸いです」
 クッキー喜んでくれたようで良かった。
 僕が加賀美だと知っても顔色一つ変えない。
 この人は、父さんたちの事を何も知らないとみた。知っていたら笑顔を浮かべるなんてできないだろうし、母さんと同じ病院に入ってしまうかもしれない。
 父さんは外面だけなら完璧だもんな。
「今度はうちに泊まりに来てちょうだいね。それにしても、本当に加賀美さん……お父さんに似ていて美人さんね〜。こんな綺麗なお友達がいるなら、優希に写真でも見せてもらえばよかったわ」
 父さんに似ていると言われて、一瞬顔が引き攣った。けれども、うっとりとしている様子を見る限り僕の綻びには気づいていない。父さんから遺伝した、女性から高評価を受ける容姿を持っている事に今だけは感謝した。きっと父さんの事だから、彼女に対して紳士的に振る舞っているのだろう。
「ユウはあんまり写真を撮るタイプではないです」
「そうでしょう? もう、男の子ってこういうところが困るのよね。折角スマホ持っているんだから、たくさん写真撮ればいいのに。優希のこと、『ユウ』って呼んでいるの?」
「はい。僕は『ミツ』って呼ばれてます」
「かわいいわね〜」
 見た目通り、優しい人。
 話していると温かい気持ちになる。ユウに似ている。
 これが「母親」というものなのかな。僕たちの母さんは物心ついた頃から既にちょっと怖かったから、よく分からないや。
 ユウは、この人に育てられたんだな。
「加賀美……?」
 僕は声のした方に目をやる。
「京本先生っ!」
「あら、あなた」
 京本先生が呆然と僕を見つめていた。
 うちで見るときと違って、和装で髪も後ろに撫でつけているので威厳を感じられる。少し顔が青褪めているけど、疲れているのかな。
「光月くん……か?」
 僕の名前だ。
「はいっ! そうです、光月ですっ!」
 嬉しくてつい大きな声を出してしまい、我ながら恥ずかしくなった。けれども、久しぶりに会うというのに、僕だとすぐに分かってくれたのだから当然だ。
「あ……ああ」
 テンション高めの僕に驚いたのか、先生は半歩後ずさった。
「僕のこと分かるんですねっ」
「ああ……。加賀美……お父さんや陽輝くんよりも、君は何というか……可愛らしいからね……」
 目を泳がせて答える姿を見つめる。
 やっぱり先生は見てくれていたんだ。
 黙っていたらどっちがどっちか判別つかない人がほとんどだというのに、先生はすぐにハルじゃなくて僕だと分かった。
 数年ぶりだというのに!
 僕は度々秘密基地から先生の事を見ていたから、あまり久しぶりとは思わないけれど。
「なにぼけっとしているの。光月くん、加賀美さんにそっくりで綺麗な子よね」
「……ああ。……一瞬、見間違えた」
 ちらりと視線を僕に向けたものの、すぐ逸らした。
 怯えたような姿に心が痛む。僕は父さんと違って、性格悪くないし、頭もおかしくない。だから、そんな顔しないでほしい。
「……大きくなったね」
「最後にお会いしたのが、小学六年生の十二月四日でしたので、四年六か月と二十一日ぶりですかね。背だって伸びますよ。ふふっ」
「そう……そうだったね」
 笑ったら少しは警戒を解いてくれるかと思ったけど、余計警戒されてしまったらしい。先生は片腕を掴んで下を向いてしまった。
 もしかして、現場を見ているのバレてる?
 いや、そんなはずない。まさか父さんじゃないし。
 見られていると知って、あの部屋でやるわけがない。
「光月くん、優希のお見舞いに来てくれたんですって」
「優希……」
「学校三日間も休んでいて心配です。籠りっきりって」
 先生は傷ついた顔を浮かべた。
「私には顔すら見せてくれないんだ……」
 土曜の夜に散々見たもんね……。
「そうなんですね」
 先生は弱々しく頷いた。大切な息子に拒絶されて相当なダメージが入っている模様。
 そんなしおらしい姿を見ていると、ちょっとした好奇心が頭をもたげた。
「どうしてだと思いますか?」
「え?」
 僕の質問が予想もしないものだったのか、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべた。
「……私の事がうっとおしいんじゃないだろうか」
 違いますよ。
 とは言えないので、「僕も心当たりがないんです」と伝えた。
 嘘だけど。
 心の中でペロリと舌を出した。
 やっぱり気づいていないや。
 愛息子に全部見られていたとも知らずしょんぼりしちゃって、可愛いね。
 笑いを噛み殺した。
「ユウにお会いしても良いですか? 担任の先生からプリントを渡すようにと頼まれていますので」
「もちろん構わないが……」
「光月くんが会いに来たって知ったら、あの子きっと喜ぶわ。部屋の前まで案内してあげるわね」
「お願いします」
 ユウのお母さんが嬉しそうに歩き出したため、僕はその後ろについていく。
 どんな部屋だろう。散らかっているのだろうか、それとも整理されているのだろうか。どちらも想像つくのが面白い。
「光月くん」
「はい」
 後ろから先生に声を掛けられ振り向いた。
「どうして優希と友達になったんだ?」
「あなた、何言ってるの」
 僕はぱちぱちと瞬きをした。
「たまたま、席が前後だったんです」
 微笑んでみせたけれども、先生は笑い返してくれず、訝しんでいるような恐怖を抱いているような複雑な表情を浮かべた。
「そうか……」
「これも何かの縁ですね。先生とも、またゆっくりお話したいです」
 僕は深々と一礼すると、ユウのお母さんに続いて廊下を歩き出した。
 廊下は長く、右には障子、左には小さな中庭がある。枯山水の流線が綺麗。突き当たりを左に曲がりさらに右に曲がると、手前を歩く脚が止まった。
「ここよ」
 そこは閉ざされた障子の前だった。鍵は掛けられなさそう。高校生の部屋としては良くないけど、僕も未だにハルと同室だから他人の事は言えないね。
 彼女がくるりと振り返った。「あの子、出てくれるといいのだけれど」と困ったような笑みを浮かべるので、胸が痛んだ。ユウは、母親ともあれからあまり顔を合わせていないみたい。
「優希。お友達がお見舞いに来てくれたわよ」
 数秒の静寂があった後、障子の扉が開かれ「誰」と顔を出したユウが、僕の方を向いた。
 その瞬間、青白い顔の目がこれでもかと見開いた。
「……は?」
「ユウ、大丈夫?」
 土曜日よりやつれている。
 髪もボサボサで、全体的に痩せたように見える。あまり食事が喉を通らないのかも。僕が渡したクッキーも食べることができなかったのかもしれない。やっぱりゼリー飲料とかの方がよかったかな。
「な……何でお前が」
「学校からのプリント持ってきてくれたんですって。後でお菓子持っていくから待ってて」
「お構いなく」
「え? あっ、母さんっ。待っ……」
「なあに?」
 切迫した声に呼び止められたユウのお母さんが、脚を止めた。
「いや……その……」
 気まずそうに目を泳がせると、軽く下を向き唇を強く噛んだ。皮膚が破れて血が出てしまわないか心配になる。
「大丈夫よ。練切とかお饅頭みたいな渋いもの持っていかないってば」
「あ……うぅ……うん……」
 彼女が快活に笑うと、ユウは更に縮こまり、歯切れの悪い返事をした。そんな息子の姿を心配そうに見ると、彼女は僕に笑顔を向ける。
「光月くん、ゆっくりしていってね。この子、風邪とかじゃないから」
「はい。ありがとうございます」
「何かあったら呼んで頂戴。居間にいるから」
 ちらりとユウを見ると、彼女は息子の部屋の前から廊下の奥へと歩いていき、角を曲がった。その姿を見送ると、僕はユウの顔を覗き込んだ。
「どこか悪いの?」
 すると、ユウは部屋に顔を引っ込め、ピシャリと扉を閉めてしまった。
「ええっ⁉ 待ってよ。僕、廊下に立ちっぱなしは嫌だよ」
 障子越しに話すって、そんな昔話じゃないんだから。
 僕はユウの返事を待つも、一向に返ってきそうな気配はない。
 どうして入れてもらえないのだろう。
「開けてよー」
 もう一度声を掛けても、目の前の障子は全く開きそうにない。困った。このままだったらプリントを渡せないし、ユウの様子を見る事もできないまま帰る羽目になってしまう。
 ……開けちゃおっかな。
 僕は開き戸の境目に手を掛けると、横にスライドさせた。しかし、少し開いたかと思うと、バンっとすごい勢いで閉められてしまい、「うわっ」と思わず僕は声を上げた。
 危ない。指が挟まれるところだった。
「どうしちゃったの?」
 問いかけるも、やっぱり静寂しか返ってこない。まだ気持ちの整理がつかないのかな。
 今日無理に会うのはやめた方がよさそう。
「……明日、また来るね」
 障子の奥にいる彼に告げ立ち去ろうとすると、小さく扉が開いた。
「……入れ」
 沈んだ目が障子の隙間から覗いている。深い井戸の底のような暗さにドキッとしつつも、「うん」と僕は部屋の中へ足を踏み入れた。
 十畳ほどの和室の中央に、巣のように布団が敷かれていた。低い机にはコップとイヤホン。壁にはサッカー選手のポスター、棚にはトロフィーやメダルが並んでいる。鞄は畳に直置きで、枕元のスマホは充電器につながっている。
「じろじろ見るな」
「あっ。ごめん」
 ユウは後ろ手に障子を閉めると、不機嫌を隠さない声で僕に話しかけてきた。
「何しに来た」
「えっ? プリント渡しにだよ」
 僕がそう言うと無言で手を差し出してきたので、慌てて自分の鞄を開き、プリントを取り出す。「はい」と手渡すと、すごい速さでひったくられ人差し指が紙で切れた。
「痛っ」
 反射的に声を上げると、ユウは驚いたように目を開くも、すぐに目を伏せた。
「用済んだんだろ。帰れ」
「ええっ。そんな」
「帰れ」
「僕、もうちょっと、ユウとお話したいよ」
「何を」
「何をって……」
 そんな事言われても困る。
 体調も聞きたいし、途中で見た猫や電車の話だってしたかった。
 でも、全身の毛を逆立てた野良猫みたいに、ユウは僕を拒絶している。貧相な僕のコミュニケーション能力では、ここからどう進めれば良いのか分からない。
「あれから……ここにずっと籠もっているの?」
「ああ」
「家で何してるの?」
「何も」
「何もって……。スマホで何か見ていたんじゃないの?」
「覚えていない」
「……それって、楽しい?」
「別に」
 会話を繋ごうとしても、全部短く切り落とされる。
「ね……ねえ。どうしてそんなに不機嫌なの? ユウのお父さんもお母さんも皆心配していたし困っているよ。少しくらい」
「はあ?」
 部屋の温度が一気に下がったような気がして、僕は生唾を飲み込んだ。
「お前マジで何言ってんの?」
「え……」
「土曜日に俺に何したか覚えてるだろ? 言ってみろよ」
「あ……えっと……僕たちの父さんと先生……ユウのお父さんが不倫しているところ……見せた……」
「俺さ、見たいって言ったか?」
「いや……」
「そうだよな? 俺、やめろって何度も言ったよな? でも、お前ら俺を押さえつけるし、お前の場合は気持ち悪ぃ音流れるパソコン持ってどっか行くし、俺の上に乗ってくるしで最悪だよ。最悪。お前、最悪だよ」
 あんなに優しかったユウに、真正面から怒りと罵倒を浴びせられ、僕は軽いパニックに陥る。
「し……仕方ないじゃんっ。ユウはずっとお父さんに嘘つかれていたんだよ? そんなものの上に築かれた幸せなんて、幸せじゃないよっ」
「幸せだ」
「えっ?」
「嘘でも夢でも良かったんだよ、俺は。なのに、お前らが全部壊したんだよ」
「それは違うよっ。初めから全部壊れていたんだ」
「だからっ、俺は壊れていない幸せな夢を見続けていたかったんだって言ってんだろっ。馬鹿がっ」
 そう吐き捨てると、ユウはすっと目を細めた。
「それにお前、話すり替えてるんじゃねぇよ。別に俺のためとかじゃなかったんだろ。自分らだけが壊れているのが嫌で俺を巻き込んだんだろ。ガキみたいな動機のくせに綺麗事言ってんじゃねぇよ」
 僕はビクッと震え身体を小さくすると、唇をキツく引き結んだ。
 本当だ。
 いつの間にか、僕は「ユウのためだった」ことにしようとしていた。
「何か言えよ」
「僕……僕はただ、全てを正しくしたかっただけ。そして、同じ傷を持つ者同士、仲良く助け合っていきたいなって」
「それ、俺を傷つけていい理由にならないだろ」
 ユウが僕に近づいてくる。
「あの夜から苦しくて仕方ない。寝ても覚めても思い出す。父さんの顔も、母さんの顔もまともに見れない……」
 ガっと胸倉を両手で強く掴まれた。互いの吐息がかかる程の近距離で睨みつけてくる目の奥には、激情が揺らめいている。
「なあ。どうしてくれるんだよ、なあっ!」
「ユウ……」
 涙を滲ませて怒鳴りつけてくる彼が可哀想になり、僕はその身体を抱き締めた。ユウは全身を強張らせたかと思うと、僕の腕の中でめちゃくちゃに暴れ始める。腕や背中、胸と様々な箇所に痛みが走るが、そんな事はどうでもよかった。
「やめろっ。離せっ」
「僕の事嫌いになった?」
「ああ、嫌いだよ。だから、離せっ」
「そんなの嫌だよ……」
 ユウは初めての友達なのに。
 同一の存在により近づけば、もっと仲良くなれると思ったのに。
「離せっ。この野郎っ、殺すぞっ」
「これから僕、どうすればいい? どうしたら、また仲良くしてくれる?」
「知るかっ。そんなの、俺が知りてぇよっっ」
 ユウの重い拳が僕のみぞうちに綺麗に食い込み、自分の口から聞いた事もないような苦悶の音が漏れた。腹部を押さえながら、僕は一歩二歩と後ずさる。痛みを逃がすために浅い呼吸を繰り返しユウを見ると、青褪めた顔で僕を見ていた。
「……ユウ」
「帰れ」
 つかつかと近寄ってくると、僕を廊下に押し出し扉を閉めた。
 僕は痛みに喘ぎながら、真っ白な障子をしばらくの間見つめていた。