「お父さまから聞いたことがあるの。ルーナ王国は大昔までは他の国と外交もしていて友好関係もあったらしいの。でも突然、それを辞めて国を閉ざしたんだって」
「辞めて閉ざした? 一体どうして……」
「明確な理由は分からないわ。天界と繋がる唯一の道も壊されて行けなくなってしまったとルーナ王国一帯を守護するとある神が嘆いていたから」
外国を守護する役目を担っているのは天寧たち、王族ではなく他の龍神の一族。
そしてその当時、ルーナ王国によく往き来していたのは天寧の祖父の友人だった。
壊された道を修復するには神と人の思いが通じることが必要で地上はそれを断固として拒否している。
閉鎖される以前は特に友好関係が崩れるような出来事もなかったと聞いているので原因も不明のまま。
現在、ルーナ王国内がどのような状況なのかも何一つ分からないようで、祖父の友人は引退した祖父や龍王の天寧の父に助けを求めにきたのをよく覚えている。
他国に襲われたのか国内で反乱が起きたのか閉ざされてから十年以上経過した今も謎に包まれているのだ。
そこで天寧は祖父が教えてくれたある話を思い出す。
「でも閉ざされる数日前に噂が流れていたらしいの。王族の一人を筆頭に呪いや毒の研究をしていると……」
「なんだって……!?」
「わたしも出来るなら信じたくないわ。今は各国、それぞれ武力を高めてきているし、それに対抗したいのかもしれないけれど。だからといって到底、許されることはない」
「それがもし事実だとしたら大問題だ……。平和をもたらす神をも拒絶し世界を揺るがす事態になる」
「あくまでこれは噂だからまだ確証はないわ。でもこの本はルーナ語ですべて書かれている。そして──」
天寧は本の中間部分までめくる手を進め、花の絵が描かれている箇所で止めると見開いたまま迅に見せた。
「この国にしか咲いていない呪花の仮説も載っているの。噂と辻褄が合うわ。それと迅くん、ここを見てちょうだい」
「これは寝ている少女と呪花の絵だろうか」
天寧が示した箇所に横たわる少女、そしてその上に一輪の呪花が描かれている。
ルーナ語で埋め尽くされている項目を指でなぞり再び翻訳しながら天寧は口を開いた。
「影は光となり、目覚める力となる。そして、その影はすべてを覆い支配する……。そう書かれているわ」
最後の一行の物騒な言葉に思わず背筋が凍る。
どうしてここから遙か遠い国の本があるのか、ルーナ王国は瘴気を研究して何をしようとしているのか。
もちろん、呪花についてはこの国も国家防衛機関を筆頭に調査はしている。
しかし人間を襲う危険な生物のため、採取出来たとしても微量でなかなか研究も進んでいない。
分からないことの方が多いのが現状で謎を解明していないのだ。
「……ここで話していても埒が明かないわ。呪花と同時にさらにこの本を調べる必要があるみたい」
「それなら図書館の職員にしばらくの間、借りても良いか聞いてみようか」
「ええ、そうね」
天寧は頷くと手にしている本をしっかりと抱え直す。
そして机に戻り読んでいた他の本を元の棚にしまっていく。
片付けを終えると貸し出しの許可をもらいに迅と共に職員を探すのだった。
これから暗く深い渦に巻き込まれていくと知らずに──。
無事に貸し出しの許可を得た天寧と迅は図書館あとにし、自動車で宿泊先の宿に向かっていた。
「結局、誰も詳しいことは知らなかったわね」
「図書館が所蔵している書籍だということは確実なんだが……」
職員に見つけた本について調べてもらったが、物が古すぎるためか、記録が残っていなかったのだ。
しかし裏表紙の端に図書館の印が押されてあったので誰かが持ち込んだわけではないと結論に至った。
緊急でこの本について調査したいと申し出たところ、龍神の天寧と軍人の迅の頼みなら、と外へ持ち出す許可をくれたのだ。
「さっそく、宿に戻ったらお父さまに見ていただくわ。何かご存じかもしれないから」
「そうだね。もしこの本に書かれていることが事実ならば、俺たち国家防衛機関も黙ってはいられない。呪花の瘴気を悪用するつもりなら到底許される行為ではないからな」
「ただここの『影は光となり、目覚める力となる』という言葉に少しひっかかるのよね。悪用というよりむしろ善意の意味にもとらえられる……」
「その言葉を単純にとらえて考えると瘴気の毒が我々人類の役に立つ、と言いたいのだろうか」
「毒が薬になるということ? もしそうだとしたらとてつもない発見よ。今まで呪花は悪の存在だったのにこれからは人々を救う救世主になるんだもの」
下手に刺激すれば人間の命を落とす危険性があった悪の花。
秘められた可能性について考察するもさすがに今すぐには結論は出せない。
もっと周囲の神々や人間に相談し、時間をかけて慎重に事を進めなければ我々に危険が及ぶ。
「俺たちもあらゆる手を使ってルーナ王国について調べるよ。何か連絡をとる手段があるかもしれないからね」
「わたしも他の龍神に話を聞いてみるわ。進展があったらすぐに報告するから」
「ありがとう。やっぱり天寧さんは頼りになるなぁ。俺なんかよりずっと」
「何を言っているの。貴方だって軍人として部下たちを引っ張っているじゃない。もっと自信を持ちなさい」
笑いかけながらはっきりと答える天寧に迅は僅かに目を見開くと少しの間をあけて頷いた。
「……うん、そうだね。周囲の期待に応えられているか不安だったけれど、それを言葉にしてもらえると自信になる。どんなにつらい任務でも頑張れそうだ」
過去を振り返っているのだろうか。
目を伏せて寂しそうに微笑む迅に胸が締めつけられる。
彼のことをある程度は知っているつもりだったけれど、会わない間にひそかに苦しんでいたのだと静かに伝わった。
これ以上、何て言葉をかければよいか分からなくて天寧は口を噤んだ。
思ったことをすぐ言ってしまう自分の性格を理解しているからこそ今は何も言えない。
ただ隣にいてあげることは唯一出来る。
そこから宿に到着するまでは特に会話は無かった。
でも決して居心地が悪いわけではなく、お互いの気持ちが何となく理解出来て不思議と落ち着く空気だった。
自動車の窓から後方へ流れていく景色を見ていると宿泊先の宿が見えてきた。
空は茜色から徐々に紺色になっていく段階でまだ星は浮かんでいない。
それに父と約束している門限までまだ余裕がある。
慣れない人間界で一回目から門限を過ぎたらどうしようかと思ったけれど無事に守られたようで胸をなで下ろす。
自動車が宿の入り口前に止まると運転手が降りて後部座席のドアを開ける。
隣に座っていた迅が先に降りるとすっと手を差し出して天寧は手を重ねて外へと出た。
同行してくれた迅とはここで一旦、お別れである。
借りた本を両手で大事に抱えると彼と向き合う。
「迅くん、忙しいのに今日は案内してくれてありがとう。とても充実した一日だったわ」
「そう言ってもらえて良かった。君に楽しんでもらえたのならそれが一番だから。天寧さんは明日も忙しいの?」
「ええ。朝から夜まで公務の予定でいっぱいよ。特に夜は呪花の現地調査だから気合いを入れないと。本の挿し絵では見たことがあるけれど実物を見るのは初めてだから」
「実はその調査には俺も急遽、同行することになったんだ。呉服店で君の着物を仕立てている途中に父上から連絡があってね、新たな呪花が見つかったから警備を強化したいと」
「そう……。人々への被害は?」
「今のところは確認されていない。ただ話によると発見された呪花は普通の呪花よりもかなり巨大らしい。下手に刺激をすれば甚大な被害が生まれる可能性もあるから油断は出来ないよ」
「巨大な、呪花……」
小さな呪花でさえ、蕾の中に人を殺すほどの瘴気が含まれているのにそれが誰も見たことがないほどの大きさ。
何だか嫌な胸騒ぎがして手が小刻みに震えてしまった。
龍神として民の上に立つものとして恐怖を覚えてはいけないはずなのに体はどうしても反応してしまう。
(しっかりしなさい、しっかり……)
頭の中で何度も繰り返し、俯きながら自分を律していると、影が落ちる。
「……天寧さん」
顔を上げると迅が真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
長い睫毛に縁取られた煌めく宝石のような瞳は不安そうにしている天寧を映し出している。
今までの天寧ならこんなにも端整な顔立ちの彼に見られては絶対に顔を背けてしまっていた。
しかし何故か恥ずかしささえも忘れて不思議と視線を逸らすことも出来なくて静かに次の言葉を待った。
「もしかして怖い?」
「……っ」
まるで心の中を見透かされているようだった。
図星を突かれてひゅっと小さく息を吸うと天寧はゆっくりと首を縦に振った。
ここで嘘ついて鋭い彼を騙すことなんて不可能である。
「……ええ。情けないわよね、わたしは龍神なのに怖がるなんて。体も弱いのにこんな気持ちのままじゃ民の上に立つ資格なんてないわ」
きっと両親や兄は視察などで呪花を見たことがあるから恐怖なんて感じないだろう。
けれど天寧は違う。
人生のほとんどを龍宮の中で過ごしてきて外の世界、ましてや人間界ことなんて知らない上に耐性がない。
きちんと公務を果たしたい、もし呪花の瘴気に触れて毒に蝕まれてしまったら──。
そんな複雑な感情が入り混じり、自己嫌悪に陥る。
不甲斐なさと情けなさに苦しくなって自然と涙が溢れ出した。
「ごめっ、ごめんなさいっ……」
急いで泣き止まなくてはと思えば思うほど次々と涙が頬を伝う。
せめて泣き顔は見られたくなくて両手で顔を隠す。
さすがに天寧を慕ってくれている迅も偉大なる龍神がこんな有様では呆れたかもしれない。
もう駆け足でここから逃げて部屋に戻ってしまおうか。
彼の反応が怖くて耳も塞ぎたくなるが足が鉛のように重く、固まって動かない。
すると震える天寧の体に迅は腕を伸ばし、優しく包み込んだ。
じんわりと感じるぬくもりに驚いて、そっと顔を上げる。
瞼が腫れて涙でぐちゃぐちゃになってるであろう、だらしない顔。
ばちっと目が合っても彼は笑ったりせず、むしろ慈しむように微笑んだ。
「……迅くん?」
何故、そんなにも優しい眼差しで見つめてくれたのか分からず、おそるおそる尋ねると、彼の手がそっとこちらへと伸ばされる。
そして長く細い指が天寧の、頬を伝う涙をそっと拭った。
「泣きたいときは泣いていいよ。強がらなくていいんだ」
「でも、こんな鎧を纏っただけの王族を見たら皆、嫌いになって離れていくわ……。そうしたらもうわたしになんて価値は無い……」
「そんなことない!」
「……!」
何人もの部下を率いているとは思えないほど穏やかな迅が初めて見せた表情と口調。
天寧自身も他人に怒られたのは生まれて初めてで突然の出来事に思わず肩をびくりと震わせた。
驚きのあまり涙も止まり、頬を撫でていた彼の手が今度は天寧の両肩を掴む。
「天寧さんがこの世界に存在してくれているだけで喜ぶ人は大勢いる。君の家族も使用人たちも、もちろん俺も。価値が無いなんて言わないでくれ。龍神がどうとかではなく、一人の人として天寧さんは素敵なんだから」
「……本当に?」
「ああ、大切な君に嘘なんてつかないよ。天に誓って」
花が満開に咲いたかのように笑う迅に闇に覆われていた天寧の心が晴れていく。
龍神、そして龍王の娘という特別な立場であるがゆえに、知らず知らずのうちにその重責に押し潰れそうだったのかもしれない。
置かれている立場に恥じない振る舞いをしていると人としての感情までも忘れてしまっていたような気がする。
それを迅がたった今、確かにこの胸に取り戻してくれた。
「貴方にお願いがあるの」
「何でも言って。天寧さんの望みはすべて叶えてあげるから」
「もし、またわたしが立ち止まってしまったら、その言葉をもう一度、かけてくれないかしら。どんなにつらくて泣いて暗闇にいても、迅くんがいてくれたら大丈夫な気がするの」
「ああ、約束する。君がどこにいようと絶対に駆けつけて救い出してみせるから」
「きっとあの頃のわたしより、貴方の方がずっと足が速くなったのでしょうね。あっという間に来てくれそう」
「……それじゃあ、確かめてみる?」
「え?」
何を確かめるのかさっぱり分からず、天寧は首を傾げる。
瞳を瞬かせ、きょとんと不思議そうな表情をしている彼女を迅は企むような笑みを浮かべながらその薄い唇を開いた。
「今日はもう遅いから、それはまた明日。明日の朝、公務が始まる前に天寧さんを連れて行きたい場所があるんだ。いいかな?」
「え、ええ。大丈夫よ」
困惑しながらも頷くと迅は安堵したように息を吐き、微笑んだ。
そして身につけている腕時計を見て現在の時刻を確認すると建物の中へと天寧を促す。
「そろそろ部屋に戻らないと龍王さまが心配なされるんじゃないかな?」
「あっ!すっかり話に夢中になって門限のこと、忘れていたわ!」
「大丈夫、今からすぐに戻れば門限には間に合うよ。引き留めてしまってすまない」
「ううん、こちらこそ話を聞いてくれてありがとう。他でもない貴方に相談して良かった」
「……っ!」
「どうしたの? 迅くん」
頬をほんのりと赤く染めて動揺したかのように瞳が揺れる彼の様子に天寧は首を傾げる。
まじまじと下から見つめられた迅は上目遣いの天寧に気がつくと慌てながら口を開いた。
「あっ、いや……。へ、部屋まで送ろうか?」
「ふふっ。もう迅くんってば心配性ね。この宿は特別な許可を得た人しか出入りが許されていないのだから一人で部屋まで行けるわ」
「そ、そうだよね。もう君は立派な淑女で子供ではないのだから……。それに一旦、幼なじみとしての関係は終わりだ。明日からの公務は天寧さんを姫君として支えるから」
「わたしも貴方との私的な関係を忘れてきちんと軍人として見るわ」
「お互い、公務も任務も頑張ろう。天寧は体のこともあるし無理はしないで」
「ありがとう。迅くんも危険な任務も多いだろうからどうか気をつけて」
「ああ。……それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
挨拶を交わすと天寧は迅からくるりと背を向けて宿の中へと戻っていった。
夜空には無数の星々が浮かび、過酷な運命へと立ち向かう二人を照らしていたのだった。
「辞めて閉ざした? 一体どうして……」
「明確な理由は分からないわ。天界と繋がる唯一の道も壊されて行けなくなってしまったとルーナ王国一帯を守護するとある神が嘆いていたから」
外国を守護する役目を担っているのは天寧たち、王族ではなく他の龍神の一族。
そしてその当時、ルーナ王国によく往き来していたのは天寧の祖父の友人だった。
壊された道を修復するには神と人の思いが通じることが必要で地上はそれを断固として拒否している。
閉鎖される以前は特に友好関係が崩れるような出来事もなかったと聞いているので原因も不明のまま。
現在、ルーナ王国内がどのような状況なのかも何一つ分からないようで、祖父の友人は引退した祖父や龍王の天寧の父に助けを求めにきたのをよく覚えている。
他国に襲われたのか国内で反乱が起きたのか閉ざされてから十年以上経過した今も謎に包まれているのだ。
そこで天寧は祖父が教えてくれたある話を思い出す。
「でも閉ざされる数日前に噂が流れていたらしいの。王族の一人を筆頭に呪いや毒の研究をしていると……」
「なんだって……!?」
「わたしも出来るなら信じたくないわ。今は各国、それぞれ武力を高めてきているし、それに対抗したいのかもしれないけれど。だからといって到底、許されることはない」
「それがもし事実だとしたら大問題だ……。平和をもたらす神をも拒絶し世界を揺るがす事態になる」
「あくまでこれは噂だからまだ確証はないわ。でもこの本はルーナ語ですべて書かれている。そして──」
天寧は本の中間部分までめくる手を進め、花の絵が描かれている箇所で止めると見開いたまま迅に見せた。
「この国にしか咲いていない呪花の仮説も載っているの。噂と辻褄が合うわ。それと迅くん、ここを見てちょうだい」
「これは寝ている少女と呪花の絵だろうか」
天寧が示した箇所に横たわる少女、そしてその上に一輪の呪花が描かれている。
ルーナ語で埋め尽くされている項目を指でなぞり再び翻訳しながら天寧は口を開いた。
「影は光となり、目覚める力となる。そして、その影はすべてを覆い支配する……。そう書かれているわ」
最後の一行の物騒な言葉に思わず背筋が凍る。
どうしてここから遙か遠い国の本があるのか、ルーナ王国は瘴気を研究して何をしようとしているのか。
もちろん、呪花についてはこの国も国家防衛機関を筆頭に調査はしている。
しかし人間を襲う危険な生物のため、採取出来たとしても微量でなかなか研究も進んでいない。
分からないことの方が多いのが現状で謎を解明していないのだ。
「……ここで話していても埒が明かないわ。呪花と同時にさらにこの本を調べる必要があるみたい」
「それなら図書館の職員にしばらくの間、借りても良いか聞いてみようか」
「ええ、そうね」
天寧は頷くと手にしている本をしっかりと抱え直す。
そして机に戻り読んでいた他の本を元の棚にしまっていく。
片付けを終えると貸し出しの許可をもらいに迅と共に職員を探すのだった。
これから暗く深い渦に巻き込まれていくと知らずに──。
無事に貸し出しの許可を得た天寧と迅は図書館あとにし、自動車で宿泊先の宿に向かっていた。
「結局、誰も詳しいことは知らなかったわね」
「図書館が所蔵している書籍だということは確実なんだが……」
職員に見つけた本について調べてもらったが、物が古すぎるためか、記録が残っていなかったのだ。
しかし裏表紙の端に図書館の印が押されてあったので誰かが持ち込んだわけではないと結論に至った。
緊急でこの本について調査したいと申し出たところ、龍神の天寧と軍人の迅の頼みなら、と外へ持ち出す許可をくれたのだ。
「さっそく、宿に戻ったらお父さまに見ていただくわ。何かご存じかもしれないから」
「そうだね。もしこの本に書かれていることが事実ならば、俺たち国家防衛機関も黙ってはいられない。呪花の瘴気を悪用するつもりなら到底許される行為ではないからな」
「ただここの『影は光となり、目覚める力となる』という言葉に少しひっかかるのよね。悪用というよりむしろ善意の意味にもとらえられる……」
「その言葉を単純にとらえて考えると瘴気の毒が我々人類の役に立つ、と言いたいのだろうか」
「毒が薬になるということ? もしそうだとしたらとてつもない発見よ。今まで呪花は悪の存在だったのにこれからは人々を救う救世主になるんだもの」
下手に刺激すれば人間の命を落とす危険性があった悪の花。
秘められた可能性について考察するもさすがに今すぐには結論は出せない。
もっと周囲の神々や人間に相談し、時間をかけて慎重に事を進めなければ我々に危険が及ぶ。
「俺たちもあらゆる手を使ってルーナ王国について調べるよ。何か連絡をとる手段があるかもしれないからね」
「わたしも他の龍神に話を聞いてみるわ。進展があったらすぐに報告するから」
「ありがとう。やっぱり天寧さんは頼りになるなぁ。俺なんかよりずっと」
「何を言っているの。貴方だって軍人として部下たちを引っ張っているじゃない。もっと自信を持ちなさい」
笑いかけながらはっきりと答える天寧に迅は僅かに目を見開くと少しの間をあけて頷いた。
「……うん、そうだね。周囲の期待に応えられているか不安だったけれど、それを言葉にしてもらえると自信になる。どんなにつらい任務でも頑張れそうだ」
過去を振り返っているのだろうか。
目を伏せて寂しそうに微笑む迅に胸が締めつけられる。
彼のことをある程度は知っているつもりだったけれど、会わない間にひそかに苦しんでいたのだと静かに伝わった。
これ以上、何て言葉をかければよいか分からなくて天寧は口を噤んだ。
思ったことをすぐ言ってしまう自分の性格を理解しているからこそ今は何も言えない。
ただ隣にいてあげることは唯一出来る。
そこから宿に到着するまでは特に会話は無かった。
でも決して居心地が悪いわけではなく、お互いの気持ちが何となく理解出来て不思議と落ち着く空気だった。
自動車の窓から後方へ流れていく景色を見ていると宿泊先の宿が見えてきた。
空は茜色から徐々に紺色になっていく段階でまだ星は浮かんでいない。
それに父と約束している門限までまだ余裕がある。
慣れない人間界で一回目から門限を過ぎたらどうしようかと思ったけれど無事に守られたようで胸をなで下ろす。
自動車が宿の入り口前に止まると運転手が降りて後部座席のドアを開ける。
隣に座っていた迅が先に降りるとすっと手を差し出して天寧は手を重ねて外へと出た。
同行してくれた迅とはここで一旦、お別れである。
借りた本を両手で大事に抱えると彼と向き合う。
「迅くん、忙しいのに今日は案内してくれてありがとう。とても充実した一日だったわ」
「そう言ってもらえて良かった。君に楽しんでもらえたのならそれが一番だから。天寧さんは明日も忙しいの?」
「ええ。朝から夜まで公務の予定でいっぱいよ。特に夜は呪花の現地調査だから気合いを入れないと。本の挿し絵では見たことがあるけれど実物を見るのは初めてだから」
「実はその調査には俺も急遽、同行することになったんだ。呉服店で君の着物を仕立てている途中に父上から連絡があってね、新たな呪花が見つかったから警備を強化したいと」
「そう……。人々への被害は?」
「今のところは確認されていない。ただ話によると発見された呪花は普通の呪花よりもかなり巨大らしい。下手に刺激をすれば甚大な被害が生まれる可能性もあるから油断は出来ないよ」
「巨大な、呪花……」
小さな呪花でさえ、蕾の中に人を殺すほどの瘴気が含まれているのにそれが誰も見たことがないほどの大きさ。
何だか嫌な胸騒ぎがして手が小刻みに震えてしまった。
龍神として民の上に立つものとして恐怖を覚えてはいけないはずなのに体はどうしても反応してしまう。
(しっかりしなさい、しっかり……)
頭の中で何度も繰り返し、俯きながら自分を律していると、影が落ちる。
「……天寧さん」
顔を上げると迅が真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
長い睫毛に縁取られた煌めく宝石のような瞳は不安そうにしている天寧を映し出している。
今までの天寧ならこんなにも端整な顔立ちの彼に見られては絶対に顔を背けてしまっていた。
しかし何故か恥ずかしささえも忘れて不思議と視線を逸らすことも出来なくて静かに次の言葉を待った。
「もしかして怖い?」
「……っ」
まるで心の中を見透かされているようだった。
図星を突かれてひゅっと小さく息を吸うと天寧はゆっくりと首を縦に振った。
ここで嘘ついて鋭い彼を騙すことなんて不可能である。
「……ええ。情けないわよね、わたしは龍神なのに怖がるなんて。体も弱いのにこんな気持ちのままじゃ民の上に立つ資格なんてないわ」
きっと両親や兄は視察などで呪花を見たことがあるから恐怖なんて感じないだろう。
けれど天寧は違う。
人生のほとんどを龍宮の中で過ごしてきて外の世界、ましてや人間界ことなんて知らない上に耐性がない。
きちんと公務を果たしたい、もし呪花の瘴気に触れて毒に蝕まれてしまったら──。
そんな複雑な感情が入り混じり、自己嫌悪に陥る。
不甲斐なさと情けなさに苦しくなって自然と涙が溢れ出した。
「ごめっ、ごめんなさいっ……」
急いで泣き止まなくてはと思えば思うほど次々と涙が頬を伝う。
せめて泣き顔は見られたくなくて両手で顔を隠す。
さすがに天寧を慕ってくれている迅も偉大なる龍神がこんな有様では呆れたかもしれない。
もう駆け足でここから逃げて部屋に戻ってしまおうか。
彼の反応が怖くて耳も塞ぎたくなるが足が鉛のように重く、固まって動かない。
すると震える天寧の体に迅は腕を伸ばし、優しく包み込んだ。
じんわりと感じるぬくもりに驚いて、そっと顔を上げる。
瞼が腫れて涙でぐちゃぐちゃになってるであろう、だらしない顔。
ばちっと目が合っても彼は笑ったりせず、むしろ慈しむように微笑んだ。
「……迅くん?」
何故、そんなにも優しい眼差しで見つめてくれたのか分からず、おそるおそる尋ねると、彼の手がそっとこちらへと伸ばされる。
そして長く細い指が天寧の、頬を伝う涙をそっと拭った。
「泣きたいときは泣いていいよ。強がらなくていいんだ」
「でも、こんな鎧を纏っただけの王族を見たら皆、嫌いになって離れていくわ……。そうしたらもうわたしになんて価値は無い……」
「そんなことない!」
「……!」
何人もの部下を率いているとは思えないほど穏やかな迅が初めて見せた表情と口調。
天寧自身も他人に怒られたのは生まれて初めてで突然の出来事に思わず肩をびくりと震わせた。
驚きのあまり涙も止まり、頬を撫でていた彼の手が今度は天寧の両肩を掴む。
「天寧さんがこの世界に存在してくれているだけで喜ぶ人は大勢いる。君の家族も使用人たちも、もちろん俺も。価値が無いなんて言わないでくれ。龍神がどうとかではなく、一人の人として天寧さんは素敵なんだから」
「……本当に?」
「ああ、大切な君に嘘なんてつかないよ。天に誓って」
花が満開に咲いたかのように笑う迅に闇に覆われていた天寧の心が晴れていく。
龍神、そして龍王の娘という特別な立場であるがゆえに、知らず知らずのうちにその重責に押し潰れそうだったのかもしれない。
置かれている立場に恥じない振る舞いをしていると人としての感情までも忘れてしまっていたような気がする。
それを迅がたった今、確かにこの胸に取り戻してくれた。
「貴方にお願いがあるの」
「何でも言って。天寧さんの望みはすべて叶えてあげるから」
「もし、またわたしが立ち止まってしまったら、その言葉をもう一度、かけてくれないかしら。どんなにつらくて泣いて暗闇にいても、迅くんがいてくれたら大丈夫な気がするの」
「ああ、約束する。君がどこにいようと絶対に駆けつけて救い出してみせるから」
「きっとあの頃のわたしより、貴方の方がずっと足が速くなったのでしょうね。あっという間に来てくれそう」
「……それじゃあ、確かめてみる?」
「え?」
何を確かめるのかさっぱり分からず、天寧は首を傾げる。
瞳を瞬かせ、きょとんと不思議そうな表情をしている彼女を迅は企むような笑みを浮かべながらその薄い唇を開いた。
「今日はもう遅いから、それはまた明日。明日の朝、公務が始まる前に天寧さんを連れて行きたい場所があるんだ。いいかな?」
「え、ええ。大丈夫よ」
困惑しながらも頷くと迅は安堵したように息を吐き、微笑んだ。
そして身につけている腕時計を見て現在の時刻を確認すると建物の中へと天寧を促す。
「そろそろ部屋に戻らないと龍王さまが心配なされるんじゃないかな?」
「あっ!すっかり話に夢中になって門限のこと、忘れていたわ!」
「大丈夫、今からすぐに戻れば門限には間に合うよ。引き留めてしまってすまない」
「ううん、こちらこそ話を聞いてくれてありがとう。他でもない貴方に相談して良かった」
「……っ!」
「どうしたの? 迅くん」
頬をほんのりと赤く染めて動揺したかのように瞳が揺れる彼の様子に天寧は首を傾げる。
まじまじと下から見つめられた迅は上目遣いの天寧に気がつくと慌てながら口を開いた。
「あっ、いや……。へ、部屋まで送ろうか?」
「ふふっ。もう迅くんってば心配性ね。この宿は特別な許可を得た人しか出入りが許されていないのだから一人で部屋まで行けるわ」
「そ、そうだよね。もう君は立派な淑女で子供ではないのだから……。それに一旦、幼なじみとしての関係は終わりだ。明日からの公務は天寧さんを姫君として支えるから」
「わたしも貴方との私的な関係を忘れてきちんと軍人として見るわ」
「お互い、公務も任務も頑張ろう。天寧は体のこともあるし無理はしないで」
「ありがとう。迅くんも危険な任務も多いだろうからどうか気をつけて」
「ああ。……それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
挨拶を交わすと天寧は迅からくるりと背を向けて宿の中へと戻っていった。
夜空には無数の星々が浮かび、過酷な運命へと立ち向かう二人を照らしていたのだった。



