「はぁ、はぁ……!ま、待ってよ天寧ちゃんっ」
「もうっ!遅いわよ、迅くん!」
雲一つない晴天、そして心地よい爽やかな風が吹いている。
穏やかな日和の中、一面に緑が広がる丘を二人の子供が駆け上がっていた。
軽快な足取りで先に行く少女に対して、かなり遅れていた少年はぜいぜいと息をきらして足を止める。
涙目で訴える迅に天寧は呆れたようにため息をつく。
「いつまでもそんな情けないとおじさまのような立派な軍人さんになれないわよ」
「天寧ちゃんが速すぎるんだよ……。君と違って僕は普通の人間なんだから。いいなあ、龍神さまは体が丈夫で」
「強くなりたいって言ったからこうして特訓に付き合ってあげてるんじゃない。ほら、話せる元気があるのならここで待っているから追いついてきなさい!」
「うぅ……。分かったよ……」
迅は観念したように頷くと呼吸を整えて再び走り始める。
両手を腰に添えて今か今かと先で待つ天寧のもとへと。
「やっと、追いついた……」
「さあ、頂上までもう少しよ。──はい」
ばくばくと鳴る心臓を落ち着かせていると、いつも厳しい天寧が自らの手を差し伸べた。
そのことに驚きを隠せない迅は大きく目を瞠る。
「一緒に行きましょ」
ぽつりと呟いた一言。
恥ずかしそうに視線を逸らしながら頬を染める姿はとても珍しい。
なかなか見せない天寧の一面を見て迅は嬉しそうに顔をほころばせながら小さな手をとる。
「うん!」
手を取り合った二人は一本の大樹がそびえ立つ頂上に向かって全身で風を浴びながら駆け出した。
「はぁ、つ、着いた……」
「ふぅ……。よく頑張ったわね、迅くん。これで軍人へ一歩近づいたんじゃない?」
丘の頂上に到着した二人はその場でへたりと座り込んだ。
出発したときよりも気温が高くなっているせいなのかさすがの天寧も額にじんわりと汗をかいている。
それでもまだ余裕がありそうなのは彼女が龍神だからだろう。
「やっぱりすごいなぁ、天寧ちゃんは。僕が通ってる学校でも君くらい速い子はいないもん」
「龍神だったら女の子もこれくらい走れて当然なの。体力だけじゃないわ、護身術だって身につけるの。皆、一族の名に恥じないように努力しているわ」
「いつか僕も天寧ちゃんみたいに強くなれるかな」
「ええ、このまま頑張ればきっとその想いは報われるわ。わたしがいなくなってもちゃんとやるのよ?」
最後の一文を聞いた迅は悲しそうにしょんぼりと眉を八の字に下げる。
「……明日、天界へ帰るんだよね?」
「そうよ。今回だってお父さまのお仕事についてきただけだし元々、長居するつもりはなかったわ」
「次はいつ会える? 来週? それとも一ヶ月後?」
「ええと……」
ぐいぐいっと迫られて天寧は思わず後ずさる。
目には期待が満ちていて一度、言い淀む。
これから伝える答えが彼が望んでいたものでは違うことを分かっていたから。
それでも嘘をつくわけにもいかず意を決して口を開いた。
「分からないわ」
「ええ!? どうして……?」
今にも泣きそうな迅に天寧は心を締めつけさせながらも、ぐっと堪えた。
「迅くんだって何となく分かるでしょう。わたしのお父さまはたくさんいる龍神たちを束ねる龍王なの。頻繁には人間界には来られないわ」
今回の同行も何度も頼み込んで許してもらったのだ。
天寧だって本当はもっと滞在したいけれど特別に連れてきてもらった以上、もうわがままは言えない。
悲しみを堪えるように唇を噛み、ぽろぽろと涙を流す迅の頭を優しく撫でる。
「大丈夫よ。きっとまたすぐに会えるから」
「……本当?」
「ええ。わたしだってもっと迅くんと一緒にいたいのが本音だもの。次に人間界に行く機会があれば絶対に見逃さないわ」
「約束だよ?」
迅が小指を差し出し、天寧はその愛らしい姿にくすりと微笑む。
そしてこくりと頷くと自分の小指を絡める。
「約束」
「僕、頑張る。いつか天寧ちゃんに追いつけるように。……ううん、君を守れるくらい強くなる」
出会った当初は正直、女の子よりも泣き虫だった彼。
二人で過ごす数日間で大きく成長したようだ。
強い意志が宿った目に頼もしさを覚えながら再会できる日を夢見て天寧は微笑んだのだった。
「ごほっ、ごほっ……」
「天寧さま、大丈夫ですか?」
藺草が香る畳に敷かれた一枚の上等な布団。
その上で一人の娘が数回、咳をこむ。
青白く痩せている顔と細い首もと、手首は誰が見ても口を揃えて病人だと思うだろう。
ぜいぜいと呼吸をする彼女をすぐ傍で使用人が心配そうに見ている。
そして紙に載った粉末状の薬と湯呑みに入った水を渡すと天寧は受け取りながら今できる精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
天寧は慣れた手つきで薬を口に運び流し込む。
これは天界に生息する貴重な薬草から作った薬。
かなり苦いけれどその分、しばらくすれば咳も治まるはずである。
ふうっと息を吐き出すと空になった湯呑みを使用人へ渡す。
「仕事中に呼び出してごめんなさい。もう戻って大丈夫よ」
「とんでもございません。天寧さまが元気に過ごされることがわたくし達の喜びですから。何かございましたら遠慮なくお呼びください」
失礼します、と使用人は丁寧に頭を下げると襖を開けて部屋から出て行った。
一人になり天寧は布団の中へと潜ると木目の天井をぼうっと見つめる。
(また迷惑をかけてしまった。皆は気にしないでと言ってくれるけれど、いつまでも優しさに甘えてはいられないわ。まさかこんな体になってしまうなんて子供の頃からはとても想像出来なかった……)
この憂いを帯びている人物は龍神の天寧である。
彼女が暮らしている場所は八百万の神々が集う天界。
その中でも一番、位が高いのは龍神で天寧の父親はその龍神を束ねる龍王なのだ。
龍王の娘として皆から敬われ愛されてきた。
天寧には兄がいるけれど娘という存在はまた違った可愛さがあるのだろう。
過保護なほどに育てられ、必要最低限でしか外出は認められず、人生のほとんどを龍宮で過ごしてきた。
そして何よりも硝子細工を扱うかのように大事にしている理由がもう一つある。
(早く薬を飲まなくても良い体になりたいわ。あの時のように……)
そう、天寧は龍神でも稀有な病弱であること。
龍神は普通の人間と比べると圧倒的に体が丈夫。
どんな酷い怪我をしてもあっという間に治り、ほとんどの者は病気にもかからない。
特に王族は他の龍神と比べて桁違いに霊力が高いので病で倒れることはめったにないのだが。
五年前に突然、頻繁に発熱と咳の症状が天寧に現れるようになった。
医師に診察をしてもらっても原因不明だと言われてしまい最初は誰もが一時的なものだと思っていた。
しかし五年経った今でも完治せず解熱剤と咳止めを服用し続けている。
それまでは自慢出来るほど足が速く元気だったのだ。
きっと治る、そう信じてありとあらゆる治療法を試したのだが、そんな兆しはいっこうになかった。
なぜこんなにも頑張っているのに治らないのだと。
悲壮感と焦りで苦しくなり、泣いた日もあった。
それでも今日まで生きられたのは龍王の娘という宿命を背負っている使命感。
そして目を瞑ればよみがえる遠い日の思い出。
「迅くん、元気かしら……」
ふと天寧が思い出したのは十二歳のときに人間界で出会った少年、迅。
わがままを言って地上に連れてきてもらったのに未知の世界の物に好奇心を抑えられなかったせいで父親とはぐれてしまった。
迷子になった天寧を見つけてくれたのが迅である。
彼は歴代で優秀な軍人を輩出してきた国一番の名家の長男。
世界を統べていると言っても過言ではない龍王の娘が行方不明になったことで現場は大混乱。
もしこれが事故ではなく人間が手引きした事件ならば戦争にも発展しかねないからだ。
当時、十歳という若すぎる年齢だったが天寧の捜索に協力し見事発見。
子供ならではの視点と冴える頭脳で多くの軍人でも不可能だった事案を見事解決させた。
そこから仲良くなり、天界に帰るまでの数日間は毎日のように迅と遊んだ。
父も発見へと導いた迅にとても感心し、護衛をつけて門限を守るならと遊ぶことを認めてくれたのだ。
迅は誰に対してもとても優しい性格だったが唯一の短所があった。
それは体力がなさすぎること。
彼は、まだ子供だった天寧でも耳にはしたことがある名家の出身。
父親は国家防衛機関に所属している軍統括部長。
ならばその子供も当然、軍人としての才能を受け継いでいると誰もが思っていた。
しかし実際は泣き虫で足が遅く、運動がまったく出来ない少年だった。
初めて追いかけっこをした日のことを天寧は鮮明に覚えている。
遊び始めて数秒でぜいぜいと息をきらし弱音を吐いていたのだ。
本当に彼は将来、国家防衛機関の頂点に立つ存在なのだろうか?
そう呆気にとられ呆然と立ち尽くしたのが今では懐かしい。
龍王の血を受け継ぐ者として、このまま見過ごすわけにはいかないと、使命感にかられた天寧は先生として迅の特訓を始めた。
この状態ではいずれ彼が民を導く立場となったときに苦労するからだ。
最初は天寧と本を読んだりおままごとしたりすするのを期待していた迅はがっくりと肩を落としていた。
最終的には笑顔を見せていたがもっと気持ちを考えてあげれば良かったと天界に帰ってきてからずっと後悔をした。
(わたしも子供だったとはいえ、悪いことしちゃったわ。今ではあのときのように厳しく叱れる資格なんて一切ないもの。本当に最低よ、わたしは)
自分は特別で圧倒的な強い体をもっている。
そんな過信をし続けた結果がこの有様だ。
また会おうと約束したけれど、これでは合わせる顔がない。
それに現在、彼は天寧より二つ歳が下の二十歳。
恋愛結婚が珍しい時代、もう少し年数が経てば政略結婚をするだろう。
あの優しい性格に加えて実家が名を馳せていて有名なので、それに惹かれて近寄ってきた女性くらいはいるかもしれない。
そうとは知らずに近くにいたら変な誤解を与える可能性もある。
ややこしくなるのだったら彼のためにも思い出は思い出のまま大切に胸にしまっておくのが得策だ。
まあ、人間界に赴く予定すらないのでこんな心配は無駄なのだが。
(今は恋愛とか結婚より、この病気を治すことだけ専念しなければ……)
薬が効き始めてきたのか睡魔が天寧を襲う。
抗うことはせず、その快楽に身を任せ、小さなあくびをしてからゆっくりと意識を手放したのだった。
眠りについて数時間後、目を覚ました天寧。
気づけば外は夕日で赤く染まっていて、つい寝過ぎてしまったと慌てて布団を片づけた。
時計を見ると夕食までは時間があることを確認し、本棚から数冊の本を手に取る。
それを文机の上に置くと座布団に座り、開いて読み始める。
外出が難しい天寧は読書をするのが唯一の楽しみである。
もちろん、龍王の娘として公務をすることもあるが、病気を気遣ってか他の家族と比べて圧倒的に機会が少ない。
気持ちはもっと増やしてもいいと思っているのだが無理をして周囲に迷惑をかけることを考えたら大人しくしているのが得策だろう。
それでも座学くらいは、と勉強をして気分転換には物語を読む、これが天寧の日課。
そんな彼女がぺら、ぺらとページをめくっていると部屋の外から声がかかる。
「天寧、少し良いか」
その声にはっと顔を上げると襖へと視線を向けた。
廊下に誰が立っているかすでに分かっている天寧はひとつ、簡単な返事をした。
「はい」
応えるとすぐに襖が開き、その人物は姿を見せた。
「お父さま。どうかなされましたか」
「少し話したいことがあってな」
「まあ、そうでしたか。どうぞ、お入りなってください」
父がこうして部屋にまでやって来るのはかなり珍しい。
よほど大切な話なんだろうか。
不思議に思いつつも天寧はすぐに立ち上がると箪笥から座布団を取り出す。
それを畳に敷くと父はこちらに向き合うように正座をして座った。
「それでお父さま、お話というのは?」
「二週間後、私が会議のために人間界に赴くことはお前も知っているな?」
「はい。確か場所は国家防衛機関でしたよね。龍王であるお父さまと統括本部長をはじめとした数名の軍人の方々で会議をされる……そうお兄さまから聞きました」
「そうだ。人間界へは私の他に秘書と使用人、護衛が同行する予定なのだが……」
父はそこで一旦、言葉を区切ると視線を逸らして少し悩むようなそぶりを見せる。
そして決意を固めたのかふうっと軽く息を吐き出すとこちらをまっすぐに見つめた。
「天寧、お前も行くか?」
「……え」
驚きのあまり発せられたのは消え入りそうなそのたった一言だけ。
思ってもいなかった父からの提案に言葉の意味をすぐには理解することが出来なかった。
混乱している天寧を見かねた父はもう一度口を開く。
「共に人間界へ行くか? 天寧の体調が良ければだが……」
「行きたい、行きたいです!」
「うおっ……!」
一気に幼い頃の思い出が蘇り、懐かしさでいっぱいになる。
この時をずっと待ち望んでいたからか、ぐいっと体を前のめりにし父を驚かせてしまった。
普段は大人しい天寧。
そんな彼女がこんなにも満開に花咲いたような笑顔ときらきらと輝く瞳を見せるのがよほど珍しいのか。
娘から発せられる圧に押されぎょっと目を見開いた。
「そ、そんなに行きたかったのか?」
「はい。人間界には大切な思い出がつまっていますから。許されるのならすぐにでも!」
「しかし体調は大丈夫なのか? 先ほど使用人から天寧が熱を出したと報告を受けたが……」
「もうすっかり良くなりました!」
「薬を飲んでからまだ数時間しか経っていないぞ? それはさすがに早すぎないか?」
「いえ!寝たら熱も下がって咳も止まりました!それにやっと人間界に行けるのです。そう思ったら元気にもなります」
先ほどまで重く怠かった体が嘘のように軽くなり起床してからまだ咳も出ていない。
頬の血色も良くなりうずうずとしている天寧を見て父はふっと小さく笑った。
「……そうかあの二人が言ったとおりだな」
「あの二人? もしかしてお母さまとお兄さまですか?」
「母さんとあいつが言っていたんだ。天寧を龍宮に籠もらせるのは逆に体に悪いんじゃないかって。外に出て太陽を浴び、自然に触れることが大事なのかもしれないと。医師もこの意見に賛成し、確認もとれている」
たしかに病に侵されてからろくに日の光を浴びていないし中庭に咲いている花も部屋から見ているだけ。
何か回復させる手がかりが外の世界にあるかもしれない。
「まあ、医者が認めているのならと私も許可をせざるを得ない。それに王族としてお前も政府や軍の人間に挨拶をいずれしなくてはならないしな。良い機会だ。──ただし」
父はそこで言葉を区切ると目をより真剣なものへと変える。
その表情に天寧は反射的に背筋を伸ばした。
「体調が悪くなったらすぐに私や従者に報告すること。絶対に無理をしないと約束しなさい。いいな?」
彼は龍王として天寧が王族の一人として立派に育ってほしいと願っている。
けれど父親としても体の弱い娘を本気で心配している。
その思いがしっかりと伝わってきて自分もそれに応えなければいけないという覚悟が芽生えた。
「はい。必ずお約束いたします。公務もお父さまの娘として恥じない振る舞いが出来るよう頑張ります」
頷き、凛とした佇まいの天寧を見て父は誇らしげに笑うのだった。
「……よし。熱もない、呼吸も安定してる。問題はなし」
額を触り体温を確認した後、心臓に手を当てて深呼吸をする。
体の怠さもなく、良好であることに胸を撫で下ろした天寧は部屋の障子を開けて晴れ渡った空を見上げた。
(何だか緊張してきたわ……)
いよいよ今日は人間界に行く日。
以前は毎日のように発熱していた天寧だったが、父から公務の話を聞いてからは何故か一切そういったことはなかった。
それにはかなり家族も医者も驚いていた。
久しぶりの公務を無事に成し遂げること、そして十年の時を経て変化を遂げた人間界をこの目で見ること。
この精神的なもちようも原因の一つとしてあったのかもしれない。
窓辺に寄りかかりながら空へと羽ばたいていく鳥を見つめた後、天寧の頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
「迅くんとも、もしかして会えるかな……」
十年前に偶然出逢い、仲良くなった少年の桜宮迅。
国家防衛機関の現統括部長の息子であり、近い将来にその地位を継ぐ者。
無事に軍学校を卒業していれば現在は機関に所属して任務を遂行しているはず。
今日、挨拶をするのは政府長官と迅の父親である国家防衛機関の統括部長、そしてその関係者数名と聞いている。
迅も来るのか父に聞いてみようとしたが悩んだ末、それはやめた。
天寧は現在二十二歳。
嫁ぎに行く娘の中ではだいぶ遅れをとっている。
病弱だからという理由で相手の一族から断られることも多いが、ただそれだけではない。
天寧の見合い相手は父が厳選しているからである。
大切な娘をその辺の男には渡したくないのだろうがあまり遅すぎても貰い手がいなくなる。
父としては最悪それでも良いのかもしれないが天寧には兄がいる。
兄には先日、同じ龍神の婚約者ができた。
見合いで出逢った相手だけれど仲睦まじい様子だったのでいずれ結婚するだろう。
そうなれば彼女はこの龍宮にやって来て暮らし始める。
龍宮の中はかなり広いので一人増えようともまったく問題はないが同じ屋根の下に義妹が住んでいるのは気まずいはず。
それは天寧にとっても同じ。
だからその前になるべく早く結婚をしてこの龍宮から出て行きたいのだが、病と父がそれを許してくれない。
父の前で迅の名前を出せば根掘り葉掘り、関係性を聞かれ変な誤解を招くだろう。
彼が会合に参加するかは気になるけれど黙っておいた方が身のためかもしれない。
考えなければいけないことが沢山あるけれど、とりあえずは今回の公務に集中しなければ。
ため息をついたとき襖の外から声がかかる。
「天寧さま、そろそろお時間です」
「……今、行くわ」
使用人に呼ばれた天寧は立ち上がると開けていた障子を閉めて廊下へと向かうのだった。
「ここに来るのも久しぶり……。あの時と全然変わってないわ。あの鳥居をくぐれば人間界に行けるんですよね、お父さま?」
「ああ。この鳥居は帝都の郊外に繋がっている。それに精霊たちも天寧を歓迎しているようだぞ」
天寧と父、数名の護衛と従者は龍宮の近くにある森に来ていた。
天界から人間界へ行くには精霊が宿る巨大樹の下にある鳥居をくぐる必要がある。
龍神とはいえ地上には自由に行き来出来るわけではない。
龍王に認められた者だけが足を踏み入れられるので周囲は天寧たちの他に人気はない。
十年前にもこの場所に来たけれどかなりの時間が経過しているので記憶がおぼろげ。
精霊たちは巨大樹からふわふわと飛んで来る。
そして天寧の周りを嬉しそうにくるくる回るのを見てようやく思い出してきた。
「では行くぞ。準備は良いか」
「はい、お父さま。……お見送りありがとう。行ってくるわね」
精霊たちに別れを告げると天寧は鳥居へと向かってゆっくりと歩き出すのだった。
鳥居をくぐり抜け光の中を歩いた先に一気に景色が広がる。
柔らかな風が木々を揺らし、木漏れ日が差し込む。
少し遠くには集落も見えて辺り一帯は天界と似ているようでどこか違う。
無事に人間界に到着したのだと分かり安堵していると黒いスーツに身を包んだ男性たちが自動車の前に立っていることに気がつく。
この区域に入れるのは許可が下りた者のみなので、おそらく政府関係者だろう。
「ようこそ、人間界へおいでくださいました。心より歓迎いたします。龍王さま、姫君さま」
「出迎えご苦労。しばらく世話になる」
「はじめまして、天寧と申します。よろしくお願いいたします」
マナー教師に学んだことを思い出しながら挨拶をする。
王族の一員として恥じないように、そして父の顔に泥を塗らないように出来るかぎり一挙一動を丁寧に行う。
すると政府関係者もすぐさま頭を下げて挨拶を返した。
「それではこちらの自動車にお乗りくださいませ」
会議の開催場所は帝都にある国家防衛機関。
現在、天寧たちがいるのは郊外なのでここから先は自動車移動が必須。
(わ、自動車……!実は乗るの楽しみにしていたのよね)
龍神は龍化すれば空を飛べるので天界には自動車はない。
以前、乗ったときに衝撃を受けて好奇心旺盛の天寧は生まれて初めての感覚に大好きになった。
(……い、いけない。これは公務なんだから。子供のときと違うのよ、天寧)
邪念をはらうようにこっそりと首を左右に振ると自動車へと乗り込むのだった。
前方から後方へと流れる景色を窓から楽しんでいるうちに、あっという間に目的地の帝都、国家防衛機関に到着した。
自動車から降りるとその建物の高さに改めて驚く。
(確か大昔に龍神の力を借りてつくられた特別な建物なのよね。この国を守る人たちが集う場所だからってわたしのご先祖さまが決めたと)
こんなにも高さのある建物は国中を探しても唯一ここだけ。
それだけ龍神と人間はお互いの繋がりを大切にしているのだ。
どちらが欠けてもいけない、いがみ合ってもいけない、なくてはならない関係性。
先祖の意思を子孫である天寧たちが受け継いで天も地も両方を守らなくてはという使命感に改めて駆られる。
(気を引き締めて頑張らないと。あら、あそこにいらっしゃるのって……)
政府関係者に案内され、建物の入口へ歩いていくと軍服やスーツに身を包んだ男性たちが立っていることに気がついた。
おそらく彼らは今回の会議相手。
天寧たちが目の前まで来ると全員が恭しく頭を下げた。
「龍王さま、ようこそおいでくださいました。いらっしゃるのを我々一同心待ちにしておりました」
「久しぶりだな、桜宮殿。こちらは娘の天寧だ」
「統括部長さま、お久しゅうございます。再びお会いできて光栄でございます。今回はよろしくお願いいたします」
「まあ、何と御立派になられて。いやはや、私も歳をとるわけですな。……ほらお前も挨拶を」
「はい、父上」
(え? 今、父上って……)
統括部長は隣に立つ若い男へと視線を向けて促すとその彼は頷いて前に一歩出た。
黒を基調として襟元や袖口に金の装飾が施されている軍服に身を包んでいる。
天寧をゆうに超える背丈で日常的に鍛えているのか体つきも良い。
そして肩よりも短い艶やかな黒髪にまるで宝石のような藍色の瞳。
白くシミ一つない美しい肌に思わず心臓が止まりそうになる。
こんな美丈夫には会ったことがないはずなのだが、でもどこか初めてではない気がする。
(人間界に来たのはこれで二回目だから、そこまで知り合いがいるわけじゃない。と、なると……)
記憶を手繰り寄せると一致する人物が脳内に浮かび上がる。
まさか、と思ったがどうしても聞かずにはいられなかった。
「も、もしかして迅くん……!?」
普段よりも大きな声量を出してしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
あんぐりとした口元を手で覆い、衝撃のあまり後ずさりをする天寧。
そんな彼女を目の前の男は微笑ましそうに見つめていた。
彼は右手を自身の胸へと当てるとその色香漂う薄い唇を開く。
「そうだよ、天寧ちゃん。……じゃなかった。再びお会いできて身に余る光栄です、姫君」
「もうっ!遅いわよ、迅くん!」
雲一つない晴天、そして心地よい爽やかな風が吹いている。
穏やかな日和の中、一面に緑が広がる丘を二人の子供が駆け上がっていた。
軽快な足取りで先に行く少女に対して、かなり遅れていた少年はぜいぜいと息をきらして足を止める。
涙目で訴える迅に天寧は呆れたようにため息をつく。
「いつまでもそんな情けないとおじさまのような立派な軍人さんになれないわよ」
「天寧ちゃんが速すぎるんだよ……。君と違って僕は普通の人間なんだから。いいなあ、龍神さまは体が丈夫で」
「強くなりたいって言ったからこうして特訓に付き合ってあげてるんじゃない。ほら、話せる元気があるのならここで待っているから追いついてきなさい!」
「うぅ……。分かったよ……」
迅は観念したように頷くと呼吸を整えて再び走り始める。
両手を腰に添えて今か今かと先で待つ天寧のもとへと。
「やっと、追いついた……」
「さあ、頂上までもう少しよ。──はい」
ばくばくと鳴る心臓を落ち着かせていると、いつも厳しい天寧が自らの手を差し伸べた。
そのことに驚きを隠せない迅は大きく目を瞠る。
「一緒に行きましょ」
ぽつりと呟いた一言。
恥ずかしそうに視線を逸らしながら頬を染める姿はとても珍しい。
なかなか見せない天寧の一面を見て迅は嬉しそうに顔をほころばせながら小さな手をとる。
「うん!」
手を取り合った二人は一本の大樹がそびえ立つ頂上に向かって全身で風を浴びながら駆け出した。
「はぁ、つ、着いた……」
「ふぅ……。よく頑張ったわね、迅くん。これで軍人へ一歩近づいたんじゃない?」
丘の頂上に到着した二人はその場でへたりと座り込んだ。
出発したときよりも気温が高くなっているせいなのかさすがの天寧も額にじんわりと汗をかいている。
それでもまだ余裕がありそうなのは彼女が龍神だからだろう。
「やっぱりすごいなぁ、天寧ちゃんは。僕が通ってる学校でも君くらい速い子はいないもん」
「龍神だったら女の子もこれくらい走れて当然なの。体力だけじゃないわ、護身術だって身につけるの。皆、一族の名に恥じないように努力しているわ」
「いつか僕も天寧ちゃんみたいに強くなれるかな」
「ええ、このまま頑張ればきっとその想いは報われるわ。わたしがいなくなってもちゃんとやるのよ?」
最後の一文を聞いた迅は悲しそうにしょんぼりと眉を八の字に下げる。
「……明日、天界へ帰るんだよね?」
「そうよ。今回だってお父さまのお仕事についてきただけだし元々、長居するつもりはなかったわ」
「次はいつ会える? 来週? それとも一ヶ月後?」
「ええと……」
ぐいぐいっと迫られて天寧は思わず後ずさる。
目には期待が満ちていて一度、言い淀む。
これから伝える答えが彼が望んでいたものでは違うことを分かっていたから。
それでも嘘をつくわけにもいかず意を決して口を開いた。
「分からないわ」
「ええ!? どうして……?」
今にも泣きそうな迅に天寧は心を締めつけさせながらも、ぐっと堪えた。
「迅くんだって何となく分かるでしょう。わたしのお父さまはたくさんいる龍神たちを束ねる龍王なの。頻繁には人間界には来られないわ」
今回の同行も何度も頼み込んで許してもらったのだ。
天寧だって本当はもっと滞在したいけれど特別に連れてきてもらった以上、もうわがままは言えない。
悲しみを堪えるように唇を噛み、ぽろぽろと涙を流す迅の頭を優しく撫でる。
「大丈夫よ。きっとまたすぐに会えるから」
「……本当?」
「ええ。わたしだってもっと迅くんと一緒にいたいのが本音だもの。次に人間界に行く機会があれば絶対に見逃さないわ」
「約束だよ?」
迅が小指を差し出し、天寧はその愛らしい姿にくすりと微笑む。
そしてこくりと頷くと自分の小指を絡める。
「約束」
「僕、頑張る。いつか天寧ちゃんに追いつけるように。……ううん、君を守れるくらい強くなる」
出会った当初は正直、女の子よりも泣き虫だった彼。
二人で過ごす数日間で大きく成長したようだ。
強い意志が宿った目に頼もしさを覚えながら再会できる日を夢見て天寧は微笑んだのだった。
「ごほっ、ごほっ……」
「天寧さま、大丈夫ですか?」
藺草が香る畳に敷かれた一枚の上等な布団。
その上で一人の娘が数回、咳をこむ。
青白く痩せている顔と細い首もと、手首は誰が見ても口を揃えて病人だと思うだろう。
ぜいぜいと呼吸をする彼女をすぐ傍で使用人が心配そうに見ている。
そして紙に載った粉末状の薬と湯呑みに入った水を渡すと天寧は受け取りながら今できる精いっぱいの笑顔を浮かべた。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
天寧は慣れた手つきで薬を口に運び流し込む。
これは天界に生息する貴重な薬草から作った薬。
かなり苦いけれどその分、しばらくすれば咳も治まるはずである。
ふうっと息を吐き出すと空になった湯呑みを使用人へ渡す。
「仕事中に呼び出してごめんなさい。もう戻って大丈夫よ」
「とんでもございません。天寧さまが元気に過ごされることがわたくし達の喜びですから。何かございましたら遠慮なくお呼びください」
失礼します、と使用人は丁寧に頭を下げると襖を開けて部屋から出て行った。
一人になり天寧は布団の中へと潜ると木目の天井をぼうっと見つめる。
(また迷惑をかけてしまった。皆は気にしないでと言ってくれるけれど、いつまでも優しさに甘えてはいられないわ。まさかこんな体になってしまうなんて子供の頃からはとても想像出来なかった……)
この憂いを帯びている人物は龍神の天寧である。
彼女が暮らしている場所は八百万の神々が集う天界。
その中でも一番、位が高いのは龍神で天寧の父親はその龍神を束ねる龍王なのだ。
龍王の娘として皆から敬われ愛されてきた。
天寧には兄がいるけれど娘という存在はまた違った可愛さがあるのだろう。
過保護なほどに育てられ、必要最低限でしか外出は認められず、人生のほとんどを龍宮で過ごしてきた。
そして何よりも硝子細工を扱うかのように大事にしている理由がもう一つある。
(早く薬を飲まなくても良い体になりたいわ。あの時のように……)
そう、天寧は龍神でも稀有な病弱であること。
龍神は普通の人間と比べると圧倒的に体が丈夫。
どんな酷い怪我をしてもあっという間に治り、ほとんどの者は病気にもかからない。
特に王族は他の龍神と比べて桁違いに霊力が高いので病で倒れることはめったにないのだが。
五年前に突然、頻繁に発熱と咳の症状が天寧に現れるようになった。
医師に診察をしてもらっても原因不明だと言われてしまい最初は誰もが一時的なものだと思っていた。
しかし五年経った今でも完治せず解熱剤と咳止めを服用し続けている。
それまでは自慢出来るほど足が速く元気だったのだ。
きっと治る、そう信じてありとあらゆる治療法を試したのだが、そんな兆しはいっこうになかった。
なぜこんなにも頑張っているのに治らないのだと。
悲壮感と焦りで苦しくなり、泣いた日もあった。
それでも今日まで生きられたのは龍王の娘という宿命を背負っている使命感。
そして目を瞑ればよみがえる遠い日の思い出。
「迅くん、元気かしら……」
ふと天寧が思い出したのは十二歳のときに人間界で出会った少年、迅。
わがままを言って地上に連れてきてもらったのに未知の世界の物に好奇心を抑えられなかったせいで父親とはぐれてしまった。
迷子になった天寧を見つけてくれたのが迅である。
彼は歴代で優秀な軍人を輩出してきた国一番の名家の長男。
世界を統べていると言っても過言ではない龍王の娘が行方不明になったことで現場は大混乱。
もしこれが事故ではなく人間が手引きした事件ならば戦争にも発展しかねないからだ。
当時、十歳という若すぎる年齢だったが天寧の捜索に協力し見事発見。
子供ならではの視点と冴える頭脳で多くの軍人でも不可能だった事案を見事解決させた。
そこから仲良くなり、天界に帰るまでの数日間は毎日のように迅と遊んだ。
父も発見へと導いた迅にとても感心し、護衛をつけて門限を守るならと遊ぶことを認めてくれたのだ。
迅は誰に対してもとても優しい性格だったが唯一の短所があった。
それは体力がなさすぎること。
彼は、まだ子供だった天寧でも耳にはしたことがある名家の出身。
父親は国家防衛機関に所属している軍統括部長。
ならばその子供も当然、軍人としての才能を受け継いでいると誰もが思っていた。
しかし実際は泣き虫で足が遅く、運動がまったく出来ない少年だった。
初めて追いかけっこをした日のことを天寧は鮮明に覚えている。
遊び始めて数秒でぜいぜいと息をきらし弱音を吐いていたのだ。
本当に彼は将来、国家防衛機関の頂点に立つ存在なのだろうか?
そう呆気にとられ呆然と立ち尽くしたのが今では懐かしい。
龍王の血を受け継ぐ者として、このまま見過ごすわけにはいかないと、使命感にかられた天寧は先生として迅の特訓を始めた。
この状態ではいずれ彼が民を導く立場となったときに苦労するからだ。
最初は天寧と本を読んだりおままごとしたりすするのを期待していた迅はがっくりと肩を落としていた。
最終的には笑顔を見せていたがもっと気持ちを考えてあげれば良かったと天界に帰ってきてからずっと後悔をした。
(わたしも子供だったとはいえ、悪いことしちゃったわ。今ではあのときのように厳しく叱れる資格なんて一切ないもの。本当に最低よ、わたしは)
自分は特別で圧倒的な強い体をもっている。
そんな過信をし続けた結果がこの有様だ。
また会おうと約束したけれど、これでは合わせる顔がない。
それに現在、彼は天寧より二つ歳が下の二十歳。
恋愛結婚が珍しい時代、もう少し年数が経てば政略結婚をするだろう。
あの優しい性格に加えて実家が名を馳せていて有名なので、それに惹かれて近寄ってきた女性くらいはいるかもしれない。
そうとは知らずに近くにいたら変な誤解を与える可能性もある。
ややこしくなるのだったら彼のためにも思い出は思い出のまま大切に胸にしまっておくのが得策だ。
まあ、人間界に赴く予定すらないのでこんな心配は無駄なのだが。
(今は恋愛とか結婚より、この病気を治すことだけ専念しなければ……)
薬が効き始めてきたのか睡魔が天寧を襲う。
抗うことはせず、その快楽に身を任せ、小さなあくびをしてからゆっくりと意識を手放したのだった。
眠りについて数時間後、目を覚ました天寧。
気づけば外は夕日で赤く染まっていて、つい寝過ぎてしまったと慌てて布団を片づけた。
時計を見ると夕食までは時間があることを確認し、本棚から数冊の本を手に取る。
それを文机の上に置くと座布団に座り、開いて読み始める。
外出が難しい天寧は読書をするのが唯一の楽しみである。
もちろん、龍王の娘として公務をすることもあるが、病気を気遣ってか他の家族と比べて圧倒的に機会が少ない。
気持ちはもっと増やしてもいいと思っているのだが無理をして周囲に迷惑をかけることを考えたら大人しくしているのが得策だろう。
それでも座学くらいは、と勉強をして気分転換には物語を読む、これが天寧の日課。
そんな彼女がぺら、ぺらとページをめくっていると部屋の外から声がかかる。
「天寧、少し良いか」
その声にはっと顔を上げると襖へと視線を向けた。
廊下に誰が立っているかすでに分かっている天寧はひとつ、簡単な返事をした。
「はい」
応えるとすぐに襖が開き、その人物は姿を見せた。
「お父さま。どうかなされましたか」
「少し話したいことがあってな」
「まあ、そうでしたか。どうぞ、お入りなってください」
父がこうして部屋にまでやって来るのはかなり珍しい。
よほど大切な話なんだろうか。
不思議に思いつつも天寧はすぐに立ち上がると箪笥から座布団を取り出す。
それを畳に敷くと父はこちらに向き合うように正座をして座った。
「それでお父さま、お話というのは?」
「二週間後、私が会議のために人間界に赴くことはお前も知っているな?」
「はい。確か場所は国家防衛機関でしたよね。龍王であるお父さまと統括本部長をはじめとした数名の軍人の方々で会議をされる……そうお兄さまから聞きました」
「そうだ。人間界へは私の他に秘書と使用人、護衛が同行する予定なのだが……」
父はそこで一旦、言葉を区切ると視線を逸らして少し悩むようなそぶりを見せる。
そして決意を固めたのかふうっと軽く息を吐き出すとこちらをまっすぐに見つめた。
「天寧、お前も行くか?」
「……え」
驚きのあまり発せられたのは消え入りそうなそのたった一言だけ。
思ってもいなかった父からの提案に言葉の意味をすぐには理解することが出来なかった。
混乱している天寧を見かねた父はもう一度口を開く。
「共に人間界へ行くか? 天寧の体調が良ければだが……」
「行きたい、行きたいです!」
「うおっ……!」
一気に幼い頃の思い出が蘇り、懐かしさでいっぱいになる。
この時をずっと待ち望んでいたからか、ぐいっと体を前のめりにし父を驚かせてしまった。
普段は大人しい天寧。
そんな彼女がこんなにも満開に花咲いたような笑顔ときらきらと輝く瞳を見せるのがよほど珍しいのか。
娘から発せられる圧に押されぎょっと目を見開いた。
「そ、そんなに行きたかったのか?」
「はい。人間界には大切な思い出がつまっていますから。許されるのならすぐにでも!」
「しかし体調は大丈夫なのか? 先ほど使用人から天寧が熱を出したと報告を受けたが……」
「もうすっかり良くなりました!」
「薬を飲んでからまだ数時間しか経っていないぞ? それはさすがに早すぎないか?」
「いえ!寝たら熱も下がって咳も止まりました!それにやっと人間界に行けるのです。そう思ったら元気にもなります」
先ほどまで重く怠かった体が嘘のように軽くなり起床してからまだ咳も出ていない。
頬の血色も良くなりうずうずとしている天寧を見て父はふっと小さく笑った。
「……そうかあの二人が言ったとおりだな」
「あの二人? もしかしてお母さまとお兄さまですか?」
「母さんとあいつが言っていたんだ。天寧を龍宮に籠もらせるのは逆に体に悪いんじゃないかって。外に出て太陽を浴び、自然に触れることが大事なのかもしれないと。医師もこの意見に賛成し、確認もとれている」
たしかに病に侵されてからろくに日の光を浴びていないし中庭に咲いている花も部屋から見ているだけ。
何か回復させる手がかりが外の世界にあるかもしれない。
「まあ、医者が認めているのならと私も許可をせざるを得ない。それに王族としてお前も政府や軍の人間に挨拶をいずれしなくてはならないしな。良い機会だ。──ただし」
父はそこで言葉を区切ると目をより真剣なものへと変える。
その表情に天寧は反射的に背筋を伸ばした。
「体調が悪くなったらすぐに私や従者に報告すること。絶対に無理をしないと約束しなさい。いいな?」
彼は龍王として天寧が王族の一人として立派に育ってほしいと願っている。
けれど父親としても体の弱い娘を本気で心配している。
その思いがしっかりと伝わってきて自分もそれに応えなければいけないという覚悟が芽生えた。
「はい。必ずお約束いたします。公務もお父さまの娘として恥じない振る舞いが出来るよう頑張ります」
頷き、凛とした佇まいの天寧を見て父は誇らしげに笑うのだった。
「……よし。熱もない、呼吸も安定してる。問題はなし」
額を触り体温を確認した後、心臓に手を当てて深呼吸をする。
体の怠さもなく、良好であることに胸を撫で下ろした天寧は部屋の障子を開けて晴れ渡った空を見上げた。
(何だか緊張してきたわ……)
いよいよ今日は人間界に行く日。
以前は毎日のように発熱していた天寧だったが、父から公務の話を聞いてからは何故か一切そういったことはなかった。
それにはかなり家族も医者も驚いていた。
久しぶりの公務を無事に成し遂げること、そして十年の時を経て変化を遂げた人間界をこの目で見ること。
この精神的なもちようも原因の一つとしてあったのかもしれない。
窓辺に寄りかかりながら空へと羽ばたいていく鳥を見つめた後、天寧の頭の中にある人物の顔が浮かんだ。
「迅くんとも、もしかして会えるかな……」
十年前に偶然出逢い、仲良くなった少年の桜宮迅。
国家防衛機関の現統括部長の息子であり、近い将来にその地位を継ぐ者。
無事に軍学校を卒業していれば現在は機関に所属して任務を遂行しているはず。
今日、挨拶をするのは政府長官と迅の父親である国家防衛機関の統括部長、そしてその関係者数名と聞いている。
迅も来るのか父に聞いてみようとしたが悩んだ末、それはやめた。
天寧は現在二十二歳。
嫁ぎに行く娘の中ではだいぶ遅れをとっている。
病弱だからという理由で相手の一族から断られることも多いが、ただそれだけではない。
天寧の見合い相手は父が厳選しているからである。
大切な娘をその辺の男には渡したくないのだろうがあまり遅すぎても貰い手がいなくなる。
父としては最悪それでも良いのかもしれないが天寧には兄がいる。
兄には先日、同じ龍神の婚約者ができた。
見合いで出逢った相手だけれど仲睦まじい様子だったのでいずれ結婚するだろう。
そうなれば彼女はこの龍宮にやって来て暮らし始める。
龍宮の中はかなり広いので一人増えようともまったく問題はないが同じ屋根の下に義妹が住んでいるのは気まずいはず。
それは天寧にとっても同じ。
だからその前になるべく早く結婚をしてこの龍宮から出て行きたいのだが、病と父がそれを許してくれない。
父の前で迅の名前を出せば根掘り葉掘り、関係性を聞かれ変な誤解を招くだろう。
彼が会合に参加するかは気になるけれど黙っておいた方が身のためかもしれない。
考えなければいけないことが沢山あるけれど、とりあえずは今回の公務に集中しなければ。
ため息をついたとき襖の外から声がかかる。
「天寧さま、そろそろお時間です」
「……今、行くわ」
使用人に呼ばれた天寧は立ち上がると開けていた障子を閉めて廊下へと向かうのだった。
「ここに来るのも久しぶり……。あの時と全然変わってないわ。あの鳥居をくぐれば人間界に行けるんですよね、お父さま?」
「ああ。この鳥居は帝都の郊外に繋がっている。それに精霊たちも天寧を歓迎しているようだぞ」
天寧と父、数名の護衛と従者は龍宮の近くにある森に来ていた。
天界から人間界へ行くには精霊が宿る巨大樹の下にある鳥居をくぐる必要がある。
龍神とはいえ地上には自由に行き来出来るわけではない。
龍王に認められた者だけが足を踏み入れられるので周囲は天寧たちの他に人気はない。
十年前にもこの場所に来たけれどかなりの時間が経過しているので記憶がおぼろげ。
精霊たちは巨大樹からふわふわと飛んで来る。
そして天寧の周りを嬉しそうにくるくる回るのを見てようやく思い出してきた。
「では行くぞ。準備は良いか」
「はい、お父さま。……お見送りありがとう。行ってくるわね」
精霊たちに別れを告げると天寧は鳥居へと向かってゆっくりと歩き出すのだった。
鳥居をくぐり抜け光の中を歩いた先に一気に景色が広がる。
柔らかな風が木々を揺らし、木漏れ日が差し込む。
少し遠くには集落も見えて辺り一帯は天界と似ているようでどこか違う。
無事に人間界に到着したのだと分かり安堵していると黒いスーツに身を包んだ男性たちが自動車の前に立っていることに気がつく。
この区域に入れるのは許可が下りた者のみなので、おそらく政府関係者だろう。
「ようこそ、人間界へおいでくださいました。心より歓迎いたします。龍王さま、姫君さま」
「出迎えご苦労。しばらく世話になる」
「はじめまして、天寧と申します。よろしくお願いいたします」
マナー教師に学んだことを思い出しながら挨拶をする。
王族の一員として恥じないように、そして父の顔に泥を塗らないように出来るかぎり一挙一動を丁寧に行う。
すると政府関係者もすぐさま頭を下げて挨拶を返した。
「それではこちらの自動車にお乗りくださいませ」
会議の開催場所は帝都にある国家防衛機関。
現在、天寧たちがいるのは郊外なのでここから先は自動車移動が必須。
(わ、自動車……!実は乗るの楽しみにしていたのよね)
龍神は龍化すれば空を飛べるので天界には自動車はない。
以前、乗ったときに衝撃を受けて好奇心旺盛の天寧は生まれて初めての感覚に大好きになった。
(……い、いけない。これは公務なんだから。子供のときと違うのよ、天寧)
邪念をはらうようにこっそりと首を左右に振ると自動車へと乗り込むのだった。
前方から後方へと流れる景色を窓から楽しんでいるうちに、あっという間に目的地の帝都、国家防衛機関に到着した。
自動車から降りるとその建物の高さに改めて驚く。
(確か大昔に龍神の力を借りてつくられた特別な建物なのよね。この国を守る人たちが集う場所だからってわたしのご先祖さまが決めたと)
こんなにも高さのある建物は国中を探しても唯一ここだけ。
それだけ龍神と人間はお互いの繋がりを大切にしているのだ。
どちらが欠けてもいけない、いがみ合ってもいけない、なくてはならない関係性。
先祖の意思を子孫である天寧たちが受け継いで天も地も両方を守らなくてはという使命感に改めて駆られる。
(気を引き締めて頑張らないと。あら、あそこにいらっしゃるのって……)
政府関係者に案内され、建物の入口へ歩いていくと軍服やスーツに身を包んだ男性たちが立っていることに気がついた。
おそらく彼らは今回の会議相手。
天寧たちが目の前まで来ると全員が恭しく頭を下げた。
「龍王さま、ようこそおいでくださいました。いらっしゃるのを我々一同心待ちにしておりました」
「久しぶりだな、桜宮殿。こちらは娘の天寧だ」
「統括部長さま、お久しゅうございます。再びお会いできて光栄でございます。今回はよろしくお願いいたします」
「まあ、何と御立派になられて。いやはや、私も歳をとるわけですな。……ほらお前も挨拶を」
「はい、父上」
(え? 今、父上って……)
統括部長は隣に立つ若い男へと視線を向けて促すとその彼は頷いて前に一歩出た。
黒を基調として襟元や袖口に金の装飾が施されている軍服に身を包んでいる。
天寧をゆうに超える背丈で日常的に鍛えているのか体つきも良い。
そして肩よりも短い艶やかな黒髪にまるで宝石のような藍色の瞳。
白くシミ一つない美しい肌に思わず心臓が止まりそうになる。
こんな美丈夫には会ったことがないはずなのだが、でもどこか初めてではない気がする。
(人間界に来たのはこれで二回目だから、そこまで知り合いがいるわけじゃない。と、なると……)
記憶を手繰り寄せると一致する人物が脳内に浮かび上がる。
まさか、と思ったがどうしても聞かずにはいられなかった。
「も、もしかして迅くん……!?」
普段よりも大きな声量を出してしまったが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
あんぐりとした口元を手で覆い、衝撃のあまり後ずさりをする天寧。
そんな彼女を目の前の男は微笑ましそうに見つめていた。
彼は右手を自身の胸へと当てるとその色香漂う薄い唇を開く。
「そうだよ、天寧ちゃん。……じゃなかった。再びお会いできて身に余る光栄です、姫君」



