北風と太陽は旅人を笑わせたい

 最終日はほぼ移動だけで終わった。僕は、夜は布団の中でずっと泣き続けていた。説明のつかない涙が止まらなかった。

 だからか、移動中はほぼ寝て過ごした。

「ものもらいになっても責任とらねぇけど」

 そう言いながら、磯山くんがアイマスクを貸してくれた。そのお陰で腫れた目を隠すことができた。

 修学旅行が終われば、来週からまた日常が始まる。休みが三日間あってよかった。スキップイソップを再開するために、この三日間で、なんとか区切りをつけなければ――

 それでも気持ちは落ち着かないまま、あっという間に三日間の休みは過ぎ、無情にも日常が戻って来た。

 修学旅行明けの今日は午前授業だけだった。授業が終わると、僕は重い足取りでパソコン教室に向かった。ドアを開けると、風太と望陽が先に来ていた。

「あれ、早いね……」

 僕がぼんやりして言うと、望陽がサラッといった調子で言った。

「四時限目、サボっちゃった」
「え、」
「で、殴り合った」
「は?」

 ぱちくりと目を瞬かせると、確かに、望陽と風太の左頬が紅く腫れていた。

「なんで?」
「抜け駆けしたから」

 風太も、なんでもないことのようにさらりと言った。

「っていうか、多日登も俺のこと殴りたいなら殴っていいよ」

 風太が、僕の前まで歩み寄り、殴りやすいようにか少し腰をかがめた。

「いや、殴らないよ……」
「本当に、ごめんなさい」

 風太はかがめた腰をさらに折って、深々と頭を下げた。

「うん……大丈夫だから」

 僕はそう言って、目を細めた。

 その様子を少し離れた所から見ていた望陽が、パンッとひとつ手を打つ。

「はい。これで仲直り、いいよね?」

 勢いよく上体を起こした風太が、何か言いたげに望陽を睨みつけたが、チラっと僕を見下ろして、言葉を飲み込んだようだった。

 殴り合ったという事実から、どうやら、風太とのあの夜のことも望陽は知っているらしい。

 二人の間で片付いたなら、それでいい。

 僕は一度目を閉じた。

 正直なことを言えば、僕はひどく揺れていた。それでも、僕が出した条件だ。

 スキップイソップの活動を優先する。僕を理由に、スキップイソップの活動を壊したくない。それは、僕自身だって同じだ。

 僕にも当てはまることだと思う。

「よし、じゃあ、今日からスキップイソップの活動を再開します」

 僕は思いっきり声を張った。

「前回の結果は残念だったけれど、これからは、こういうことも日常的に起こると思って、切り替えていきましょう!」
「おー」

 望陽と風太も笑いながら拳を上げた。

 それを見て、やっとホッとする。

「じゃあ、スキップイソップ育成計画の第三弾! 『漫才王決定戦』にエントリーします!」
「えぇ!!」

 そうそう、この息の合ったリアクションを待っていました。

 『漫才王決定戦』は年末に決勝戦がテレビ放映される、大人気番組で、全国のプロアマ年齢不問の漫才師たちが、いくつもの予選を勝ち上がり頂点を目指すテレビ企画だ。

 いきなり頂点を目指すのはさすがにおこがましい。だが、もし、第三回戦くらいに残れれば、それだけでも大きな話題になる。

 しかし、それすら難しいのはわかっている。だから、これから毎年エントリーをして、一回戦通過を当面の目標に、数年後には三回戦、できれば準々決勝くらいにまで残れるコンビになりたいというのが、僕の夢だった。

 これで頂点をとることが、ある意味、最終目標みたいなところまである。

「そこに向けて頑張るぞ!」
「もう、第一回戦敗退くらい肩の力抜いてさ」

 そうヘラッと笑う望陽に、僕はびしっと指を向けた。

「それはダメ! 無理だとわかってても、狙うは頂点!」
「えぇ!」

 風太が横で情けない声を出した。

「風太まで……」

 そうため息をつくと、風太は少し安心したように笑った。

「とりあえず、今のネタ、絶対ダメじゃないと思う。だから、このネタをしっかり、組み直して、考えよう!」
「うん」

 そう言うと、僕は、スマホをポケットから出した。

 動画審査のために撮った動画を、選んで、再生を始める。

 二人がそれを後ろから覗き込んだ。

「んー、ここ、テンポ悪いかな?」
「いや、テンポ悪くはないんだけど、たぶんセリフで説明しすぎてるかも?」
「じゃあ、望陽の動きにすぐ移っていいかな?」
「それが、いいかも?」

 そう言うと、望陽と風太は並んで立った。

 すっと呼吸を整えると、顔つきが変わる。

「いや、普通に拾ってくれればいいから……」
「かしこまりましたぁ~」

 そう言うと、望陽はアイドル顔負けの片足ターンを華麗に決めて、足元にある何かを拾う動作をした。

「あ、お前! また勝手に!」

 風太が眉間にシワを寄せながら、望陽を睨んだ。望陽は、悪びれる様子もなく、へらっと笑う。

「いやいや、禁止令食らったけど、やっぱ、俺はここにターンを入れたい!」

 そう言うと望陽は、クルックルっと今度は二回続けて華麗なターンを披露した。

「いや、いいんじゃない? いいよ、いい。なんか望陽はターン入れたがるから、もういっそターンキャラにしよう」

 僕は思わず、腹を抱えた。

「……」
「……」
「えっ……?」

 そう声を漏らしたのは誰だったか。

「あ……」

 僕も気付いて、咄嗟に口元を押さえた。パソコン教室に流れる時間ごと止まったような沈黙が下りた。

「いま、多日登……」

 望陽が、震える指先を向けてきた。

「……笑った?」

 風太が震える声を出した。

 すっかり気が抜けていた。疲れていたのもあるし、三人が元通りになったこと、スキップイソップが再始動したこと。全てが僕を安心させていた。

 だから、自然と漏れた。

 ――望陽のターンで。

「お、俺の勝ち……」

 望陽が口の中で小さく言った。それが、自分の耳に届いたのか、次はもっと大きな声で、

「俺の勝ち!!」

 と、大袈裟に拳を天に突き上げた。

 条件はそろっていた。そして、どっちが笑わせたかも明白だった。

 あまりに呆気なく、あまりに唐突に勝負は決したのだった。