望陽に手を引かれるまま連れてこられたのは、全国的にも有名な水族館だった。
「え、ここって……」
「自由時間、17時までだから、十分時間あると思う」
「そう、だけど」
「お願い。多日登、今日は俺にちょうだい」
「……もう、さっきからお願いっていう時の顔ズルい」
「ふふ、多日登、好き」
唐突に言われて、胸がギュッと詰まった。
「……そういうのは、なしならいいよ」
望陽の態度にいちいち、頬が熱くなってしまうのをどうにかしたかった。
「わかった。なしね。絶対、キスとかもしないから安心して」
さっきよりも強く胸が締まった。しないと言われてるのだから、ホッとする場面なのに、どうしてこんなに動揺してしまうのだろう。
中に入ると、色々なことが吹っ飛んだ。
僕も以前から来てみたかった場所だし、僕らの住む田舎とは違う、どこか都会的な雰囲気や人の多さにも戸惑ったり、緊張したり、高揚したりした。それに、水族館という幻想的な空間に、現実を忘れて没頭することもできた。
メインの大水槽の前では、たかが1回や2回、予選に通らなかったことくらいでくよくよしているのが馬鹿らしいとさえ思えた。
ただ、繋ぎっぱなしの手が汗ばんできたことや、僕がぽかんと口を開けて水槽を見上げる横顔を写真に撮られたりすることに、いちいち照れくささや緊張を覚えてしまっていた。
そして、時折、浮かぶ風太の顔にも――
望陽が抜け駆けをした時点で、風太にも知らせるべきだとは思った。でも、それをしたところで、何になるんだろう。怒って駆けつけた風太と望陽と揉めて、ややこしい事になるのではないか。
これってズルだよねと、拒否しなかった僕を風太はどう思うだろう。
そんな思いがモヤモヤと胸の中で渦巻いて、シャチに思い切り水を掛けられても、昼食で食べたホットサンドが美味しくても、笑うことが出来なかった。
今日は、イレギュラー。勝負は関係ないと言い聞かせたところで、上手く笑えなかった。
そんな僕と一緒にいて、きっと望陽も楽しくなかったと思う。
僕たちは15時前には水族館を出た。
待ち合わせ場所の最寄り駅まで移動して、近くのコーヒーショップに入った。
そこでやっと、繋いでいた手が離れた。少し汗ばんだ手のひらに、空気が触れて、ヒヤリとした。
もちろん、ずっと繋いでいた訳ではない。何度か離す時はあった。それでも、次に歩き出す時には、自然と手を取られて指を絡めてきた。
望陽はこういうことに慣れているのかな? 他の誰かとも、こんな風にデートとかしたことあるのかな?
そんなことを考えてしまった。
「あー、楽しかったね!」
ホイップクリームがモリモリのドリンクと、チョコチャンククッキーが乗ったトレイをテーブルに置きながら、望陽が高らかに言った。
「……なんか、あまり楽しそうに出来なくてごめんね」
僕は自分で頼んだドリンクに口をつけながら、しょぼんと肩を落とした。
それを見て望陽が目を丸くする。
「えー、なんで? 多日登凄く楽しそうだったけど?」
「え、そう見えた? 全然、笑ったり出来なかったんだけど……」
「いやいや、でも目がキラキラしてたから、十分、楽しんでくれてると思ってたけど、勘違いかな?」
それはそうだった。時々、我に返ったように悶々としたり、後ろめたくなったりした瞬間はあったけど、ほとんどの時間を心から楽しめた。それでも――
「僕みたいに、ニコりともしないやつと一緒にいて、望陽は楽しくなかったでしょ?」
「……楽しくないよ」
そう言った望陽の声は少しだけ低かった。僕の肩がビクリと跳ねる。やっぱり――
「せっかく、俺が楽しかったって言ってるのに、自分のこと下げて、そんなこと言われたら楽しくないよ」
「あ……ごめん」
僕はバッと顔を上げた。自分がどれだけ失礼なことをしてしまっているのか、言われてやっと気づいた。
「多日登といて、俺は楽しいよ。たとえ上手く笑えなくても、もっと一緒にいたいと思うよ。でも、多日登が俺の隣にいて、上手く笑えないってそのことばかり気にするなら……なんていうか、悲しいよ」
望陽の顔は、言葉通り悲しそうだった。
傷つけてしまった。こんなに僕を思ってくれている人を――そう思うと、消えてしまいたいほど苦しかった。
「ごめんね、望陽。それに、ありがとう」
思わず零れそうになる涙を堪えるように、僕は俯いた。
その頬を望陽が指で撫でる。
「いいよ。絶対、俺が笑わせてみせるから、多日登は無理せず自然にしててくれればいいよ」
そうは言われたけど、こんな時に、明るく笑ってお礼を言えたらなと思ってしまう。
「うん。ありがとう」
僕は俯いたまま、上目でちらりと望陽の顔色を窺った。視線が合うなり、望陽の肩がきゅっと上がる。それから、頬を淡く染めて、少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「……ていうか、聞いてもいい?」
「ん?」
「なんで、そんなに笑うことに抵抗あるのか」
「あ」
そういえば、そのことを伝えていなかったことに思い至る。僕の中では特に大したことではないし、誰が悪い話でもない。原因は重要ではなかった。だから、聞かれなかったからしなかっただけのことだ。
「ああ、それね――」
僕はなんともないことのように、口を開いた。あまりにあっさりとした僕の態度に、望陽は拍子抜けしたように目を見開いていた。
実に単純な話だ。
弟の日々輝が生まれた直後、父は長年の夢だったバイクでのアメリカ横断に出ていた。
もちろん、出産直後に思いつきで家を空けたわけではない。若い頃からの夢で、結婚して子どもができてから一度は諦めたものを、母と二人で何年もかけて金を貯め、仲間とも準備を進めていたらしい。
ところが、よりによって出発を控えた時期に日々輝ができた。父は中止しようとしたが、母が「もう二人育ててるんだから一人増えたって同じ」と笑って、半ば無理矢理送り出したのだという。
結果だけ見れば、母はその頃かなり無理をしていた。
それを僕たちにも見せていなかったが、日々輝は夜泣きも多く、眠れない夜が続いていたのだと思う。
ある日、僕たちが、リビングでお笑い番組を見ながら大声で笑っていた時、ついに母の精神は限界を突破した。
「うるせぇんだよ! 笑うんじゃねぇ! 笑うな! 笑うな! 笑うな!!」
母の声が家中に響いた。
「笑うな!」と気が狂ったように繰り返していたところを見ると、僕たちを責めたかったわけじゃない。ただ、本当に限界だったのだと、当時の僕にもわかった。だが、傷ついた。母の言葉にではなく、母を追い詰めてしまったことに――きっと兄もそうだったのだろう。
やり場のない気持ちを誰かのせいにしたくて、僕にこう言った。
「お前の笑い方が気持ち悪いから、お母さんがおかしくなった」
それが決め手だった。
それから、僕はなんだか笑い方がわからなくなった。
「……そんなことがあったんだ」
すべてを聞き終えて、望陽は長い息を吐いた。
「うん。でも、この話をすると、お母さんやお父さんが無責任だと思われたり、兄がひどい奴だと思われたりするのが嫌なんだ」
「……うん。少し思っちゃった」
「でしょ? でも、お母さん、普段からキレたりはするけど、あんな風に理不尽なことを言ったのは後にも先にもそれっきりだし、僕の中では全てが悪いタイミングで噛み合っちゃっただけだと思う」
「だから、誰も悪くないと」
「悪くないよ。僕がお母さんのこと思って、勝手に笑わない方がいいんだって思いこんだだけだし」
「お兄さんは?」
「ああ、当時も今も嫌なやつだけど、あの頃は兄も小さかったし、そのことは全く恨んでない。他に思い出すだけで腹立つこといっぱいあるし」
その言葉に、望陽はブハッと吹き出した。
「多日登って意外と強いよな」
「そうかな?」
「そして、頑固」
「多分、それはある」
オチがついたタイミングを見計らったように、集合時間十分前のアラームが鳴った。
集合場所は駅だった。
望陽ともそこで別れる。
駅前で、どちらともなく手を取り、目を見つめ合った。
「望陽、今日は楽しかった、ありがとう」
僕がそう言うと、望陽は目を細めて頷いた。
「うん、俺も楽しかった。ありがとう。多日登」
「うん……」
続く言葉が見当たらない。でも、じゃあねと切るのもなんだか違う気がした。
夕陽に照らされた望陽の顔は柔らかい。望陽の口が小さく開いた。
「キスしたい」
「それは、ダメ」
僕の即答に望陽は心底楽しそうに笑ってから「じゃあ、また夜連絡する」と言って、去っていった。
その背中に手を振りながら、僕は少しだけ切ない気持ちになっていた。
「え、ここって……」
「自由時間、17時までだから、十分時間あると思う」
「そう、だけど」
「お願い。多日登、今日は俺にちょうだい」
「……もう、さっきからお願いっていう時の顔ズルい」
「ふふ、多日登、好き」
唐突に言われて、胸がギュッと詰まった。
「……そういうのは、なしならいいよ」
望陽の態度にいちいち、頬が熱くなってしまうのをどうにかしたかった。
「わかった。なしね。絶対、キスとかもしないから安心して」
さっきよりも強く胸が締まった。しないと言われてるのだから、ホッとする場面なのに、どうしてこんなに動揺してしまうのだろう。
中に入ると、色々なことが吹っ飛んだ。
僕も以前から来てみたかった場所だし、僕らの住む田舎とは違う、どこか都会的な雰囲気や人の多さにも戸惑ったり、緊張したり、高揚したりした。それに、水族館という幻想的な空間に、現実を忘れて没頭することもできた。
メインの大水槽の前では、たかが1回や2回、予選に通らなかったことくらいでくよくよしているのが馬鹿らしいとさえ思えた。
ただ、繋ぎっぱなしの手が汗ばんできたことや、僕がぽかんと口を開けて水槽を見上げる横顔を写真に撮られたりすることに、いちいち照れくささや緊張を覚えてしまっていた。
そして、時折、浮かぶ風太の顔にも――
望陽が抜け駆けをした時点で、風太にも知らせるべきだとは思った。でも、それをしたところで、何になるんだろう。怒って駆けつけた風太と望陽と揉めて、ややこしい事になるのではないか。
これってズルだよねと、拒否しなかった僕を風太はどう思うだろう。
そんな思いがモヤモヤと胸の中で渦巻いて、シャチに思い切り水を掛けられても、昼食で食べたホットサンドが美味しくても、笑うことが出来なかった。
今日は、イレギュラー。勝負は関係ないと言い聞かせたところで、上手く笑えなかった。
そんな僕と一緒にいて、きっと望陽も楽しくなかったと思う。
僕たちは15時前には水族館を出た。
待ち合わせ場所の最寄り駅まで移動して、近くのコーヒーショップに入った。
そこでやっと、繋いでいた手が離れた。少し汗ばんだ手のひらに、空気が触れて、ヒヤリとした。
もちろん、ずっと繋いでいた訳ではない。何度か離す時はあった。それでも、次に歩き出す時には、自然と手を取られて指を絡めてきた。
望陽はこういうことに慣れているのかな? 他の誰かとも、こんな風にデートとかしたことあるのかな?
そんなことを考えてしまった。
「あー、楽しかったね!」
ホイップクリームがモリモリのドリンクと、チョコチャンククッキーが乗ったトレイをテーブルに置きながら、望陽が高らかに言った。
「……なんか、あまり楽しそうに出来なくてごめんね」
僕は自分で頼んだドリンクに口をつけながら、しょぼんと肩を落とした。
それを見て望陽が目を丸くする。
「えー、なんで? 多日登凄く楽しそうだったけど?」
「え、そう見えた? 全然、笑ったり出来なかったんだけど……」
「いやいや、でも目がキラキラしてたから、十分、楽しんでくれてると思ってたけど、勘違いかな?」
それはそうだった。時々、我に返ったように悶々としたり、後ろめたくなったりした瞬間はあったけど、ほとんどの時間を心から楽しめた。それでも――
「僕みたいに、ニコりともしないやつと一緒にいて、望陽は楽しくなかったでしょ?」
「……楽しくないよ」
そう言った望陽の声は少しだけ低かった。僕の肩がビクリと跳ねる。やっぱり――
「せっかく、俺が楽しかったって言ってるのに、自分のこと下げて、そんなこと言われたら楽しくないよ」
「あ……ごめん」
僕はバッと顔を上げた。自分がどれだけ失礼なことをしてしまっているのか、言われてやっと気づいた。
「多日登といて、俺は楽しいよ。たとえ上手く笑えなくても、もっと一緒にいたいと思うよ。でも、多日登が俺の隣にいて、上手く笑えないってそのことばかり気にするなら……なんていうか、悲しいよ」
望陽の顔は、言葉通り悲しそうだった。
傷つけてしまった。こんなに僕を思ってくれている人を――そう思うと、消えてしまいたいほど苦しかった。
「ごめんね、望陽。それに、ありがとう」
思わず零れそうになる涙を堪えるように、僕は俯いた。
その頬を望陽が指で撫でる。
「いいよ。絶対、俺が笑わせてみせるから、多日登は無理せず自然にしててくれればいいよ」
そうは言われたけど、こんな時に、明るく笑ってお礼を言えたらなと思ってしまう。
「うん。ありがとう」
僕は俯いたまま、上目でちらりと望陽の顔色を窺った。視線が合うなり、望陽の肩がきゅっと上がる。それから、頬を淡く染めて、少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「……ていうか、聞いてもいい?」
「ん?」
「なんで、そんなに笑うことに抵抗あるのか」
「あ」
そういえば、そのことを伝えていなかったことに思い至る。僕の中では特に大したことではないし、誰が悪い話でもない。原因は重要ではなかった。だから、聞かれなかったからしなかっただけのことだ。
「ああ、それね――」
僕はなんともないことのように、口を開いた。あまりにあっさりとした僕の態度に、望陽は拍子抜けしたように目を見開いていた。
実に単純な話だ。
弟の日々輝が生まれた直後、父は長年の夢だったバイクでのアメリカ横断に出ていた。
もちろん、出産直後に思いつきで家を空けたわけではない。若い頃からの夢で、結婚して子どもができてから一度は諦めたものを、母と二人で何年もかけて金を貯め、仲間とも準備を進めていたらしい。
ところが、よりによって出発を控えた時期に日々輝ができた。父は中止しようとしたが、母が「もう二人育ててるんだから一人増えたって同じ」と笑って、半ば無理矢理送り出したのだという。
結果だけ見れば、母はその頃かなり無理をしていた。
それを僕たちにも見せていなかったが、日々輝は夜泣きも多く、眠れない夜が続いていたのだと思う。
ある日、僕たちが、リビングでお笑い番組を見ながら大声で笑っていた時、ついに母の精神は限界を突破した。
「うるせぇんだよ! 笑うんじゃねぇ! 笑うな! 笑うな! 笑うな!!」
母の声が家中に響いた。
「笑うな!」と気が狂ったように繰り返していたところを見ると、僕たちを責めたかったわけじゃない。ただ、本当に限界だったのだと、当時の僕にもわかった。だが、傷ついた。母の言葉にではなく、母を追い詰めてしまったことに――きっと兄もそうだったのだろう。
やり場のない気持ちを誰かのせいにしたくて、僕にこう言った。
「お前の笑い方が気持ち悪いから、お母さんがおかしくなった」
それが決め手だった。
それから、僕はなんだか笑い方がわからなくなった。
「……そんなことがあったんだ」
すべてを聞き終えて、望陽は長い息を吐いた。
「うん。でも、この話をすると、お母さんやお父さんが無責任だと思われたり、兄がひどい奴だと思われたりするのが嫌なんだ」
「……うん。少し思っちゃった」
「でしょ? でも、お母さん、普段からキレたりはするけど、あんな風に理不尽なことを言ったのは後にも先にもそれっきりだし、僕の中では全てが悪いタイミングで噛み合っちゃっただけだと思う」
「だから、誰も悪くないと」
「悪くないよ。僕がお母さんのこと思って、勝手に笑わない方がいいんだって思いこんだだけだし」
「お兄さんは?」
「ああ、当時も今も嫌なやつだけど、あの頃は兄も小さかったし、そのことは全く恨んでない。他に思い出すだけで腹立つこといっぱいあるし」
その言葉に、望陽はブハッと吹き出した。
「多日登って意外と強いよな」
「そうかな?」
「そして、頑固」
「多分、それはある」
オチがついたタイミングを見計らったように、集合時間十分前のアラームが鳴った。
集合場所は駅だった。
望陽ともそこで別れる。
駅前で、どちらともなく手を取り、目を見つめ合った。
「望陽、今日は楽しかった、ありがとう」
僕がそう言うと、望陽は目を細めて頷いた。
「うん、俺も楽しかった。ありがとう。多日登」
「うん……」
続く言葉が見当たらない。でも、じゃあねと切るのもなんだか違う気がした。
夕陽に照らされた望陽の顔は柔らかい。望陽の口が小さく開いた。
「キスしたい」
「それは、ダメ」
僕の即答に望陽は心底楽しそうに笑ってから「じゃあ、また夜連絡する」と言って、去っていった。
その背中に手を振りながら、僕は少しだけ切ない気持ちになっていた。
