僕の平日の昼ごはんは、いつもコッペパンだった。
購買のコッペパンは中身の種類が実に豊富で、財布にも優しかった。
僕の一番のお気に入りはピーナッツホイップで、二番目はあんこバターだ。大体は甘いパンを選ぶのだけれど、たまにたまごサラダやツナマヨネーズなんかも選んだりする。
ドッグ系もありだが、一度ナポリタンドッグを食べた時に、片手で食べていたらナポリタンがボトボトと零れて制服のズボンを汚してしまった。それ以降はコッペパンしか選ばない。
昼休みになると、僕は購買でコッペパンを買って、北校舎に向かった。
ただでさえ日当たりの悪い北校舎の端の端に、僕が隠れ家として使っているパソコン教室があった。
今は生徒一人につき一台、タブレットが配布されている時代だ。某SF映画の宇宙人のように後頭部が突き出したモニターが並ぶパソコン教室など、ほぼ打ち捨てられているも同然だった。
僕はそのパソコン教室の鍵を持っていた。
決して、不当に入手したものではない。
この教室を部室としているパソコン部の部長を、僕が務めているからだった。ちなみに、高等部一年生の時から。
僕の通う聖・志光学園は、高等部から全生徒が部活に入ることを義務付けられていた。
当然、部活などしたくない者も多い。そんな者がとりあえずで選ぶ部活のひとつが、パソコン部だった。
同系統の部活としてプログラミング部やEスポーツ部がある中、なにをするのかよくわからないパソコン部は、その印象そのままに特に活動はない。
担当教員も定年間近でやる気がなく、顔を出したことはなかった。活動実績もなければ、部費の割り当てもないのに潰れないのは、その部員の多さゆえだった。
実質帰宅部と同義なのを、学校側もわかっていて黙認しているのだろう。
鍵に関しても、担当教員がいちいちキーボックスを開くのすら面倒なのか、僕の成績の良さや真面目そうな見た目から悪さには使わないだろうと判断したのか、持たせっぱなしにしてくれている。
卒業する日まで、この日常が続く。
僕は、そう信じて疑わなかった。
しかし、そんな日常はいとも簡単に崩れる。
僕は、鍵を持っていることをいいことに、パソコン教室を私物化していた。
とはいえ、一緒に騒ぐような親しい友人がいるわけでもない陰キャの僕が、そこで何をするわけでもない。
昼休みや放課後に、静かに一人の時間を楽しむだけだった。
一人の時間と言っても大したことはない。好きなお笑い芸人の動画をスマホで観ているだけである。そのためにも、片手間で食べられるコッペパン一択なのであった。
中等部の頃は、クラスで動画を観たりもしていたのだが、どうやらあの空間にはプライベートはないらしい。
「あ、俺もそれ好き!」だとか、
「昨日のテレビ見た? こいつら出てたよね?」などと、スマホ画面を覗かれることが度々あった。
最悪の場合は、無理やり僕の椅子の半分に腰掛けて、一緒に観始めたりする。
別に密かな趣味というわけではない。
趣味を共有したくないという限界オタクというわけでもない。
ただ、僕にはちょっとしたトラウマのようなものがあって、みんなと同じタイミングで一緒に声を上げて笑うことができなかった。
なので、変に思われるのが嫌で、パソコン教室を手に入れてからは、一人で観るようになったのだった。
実に気が楽だ。
家で観ている時より気楽ですらある。
卒業する日まで、この日常が続く。
僕は、この日常が卒業まで続いてほしいと願っていた。
むしろ、続くと信じて疑わなかった。
しかし、その願いはいとも簡単に崩れる。
それは、高等部二年生に上がって間もない頃。
その日のコッペパンの中身は、イチゴジャムマーガリンだった。
僕は、お気に入りのピン芸人が上げたばかりの新作ネタを見ていた。
口の端に付いたジャムをぺろりと舌先で舐めた時、遠く、階下から怒号のようなものが聞こえてきた。
「どこ行った、ごらぁ!」
「舐めやがって、クソ野郎!」
僕は動画を停止して、イヤフォンを外す。
自分に言われたことではないとわかっていたが、肉食獣の気配を感じた小動物のごとく、僕の心臓は早鐘を打っていた。
「ぶっ殺す!」
まだまだ遠いけれども、あまりに物騒な言葉が北校舎に響いて、僕は肩を跳ね上げた。
続けて、バタバタと廊下を走る足音が聞こえてきた。
これはかなり近い。
階段を上り切った勢いで、前のめりに倒れ込みそうになる姿まで頭に浮かんだ。
はぁはぁと、荒い呼吸までも聞こえる。
「やばっ、行き止まりじゃね?」
明るそうな、軽めの声がそう言った。
「なんで、上に逃げるんだよ!」
切迫しているが、冷静そうな低い声がそう答える。
「お前が引っ張って来たんだろ!」
低い声が続けた。
「あ、そっか……」
声から察するに、二人組の男子生徒らしい。
息を弾ませながらも、二人の会話は軽快だった。
――どこかで聞いたことのある声だ。
僕は様子を探るように、寄りかかっていたドアに耳をつけた。
しかし、そこでいったん二人の会話は途切れたようだった。
階下では、言葉にならない怒鳴り声や、壁やドアを乱暴に蹴るような音が聞こえていた。
僕はドアを細く開けて、廊下に顔を出した。
スラッと背の高い二人が、オロオロとあたりを見渡したり、下を気にしたりしていた。
背格好は似ているが、一人は髪を明るく染め、緩いパーマをかけていて、もう一方はストレートの黒髪をサッパリと整えていた。髪型からして正反対な印象を受けた。
顔はよく見えなかったが、二人には見覚えがあった。
同じ二年生で間違いないだろう。今まで同じクラスになったことがないので、名前までは咄嗟に出てこなかった。
明るい髪の方が、ハッと気づいたように目の前の旧木工室のドアに手を掛けた。
「うわ、ダメだ。鍵かかってる」
それに促されるように、黒髪の方も別のドアに手を掛けて、扉をガチャガチャと揺らした。
「あー、こっちもダメだ」
「どうする?」
パソコン教室のドアに手を掛ける前に、明るい髪の方が黒髪の方に顔を向けた。
「これ、詰んだか?」
黒髪の方が冷静に腕を組む。
二人で頭を捻っている間にも、階下で暴徒のように騒ぐ音が、ゆっくりだが確実に近づいてきていた。
「あ」
明るい髪の方が声を上げた。
「ねぇねぇ、あれは? 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、相手が階段上ってくるのと入れ違いに下に行くやつ」
「あ、あれ? いいね!」
黒髪の方も乗り気のようだ。
僕もそのシーンをすぐに思い浮かべることができた。健全な男の子なら、同じような状況になったら試してみようと、心のメモに書き留めるシーンではあると思う。
「あれって、ほら、相手が上ってきて――」
「うん。えっと、手すりをこうして……」
二人は身振り手振りでシミュレーションを始めたようだった。
しかし、ただ手と足をバタつかせただけで、すぐに二人同時に首を傾げた。
「え、どうやるの?」
「この階段でできるやつ?」
――バカなのかよ!
思わず、ツッコミの声が出そうになってしまった。
「どっちに逃げた?」
「どこも鍵かかってるしな……」
追っ手と思われる人物の、怒鳴り声ではない普通の会話声まで、はっきりと聞こえた。
もうすぐ下の階まで近づいてきている。
「やば、来た、どうしよ、どうしよ!」
明るい髪の方が、声は抑えているが、焦るあまりに足をバタつかせた。
――アホか、音を立てるな!
「もう、腹を括って戦うか……」
黒髪の方が、妙に格好つけて前髪を掻き上げる。
――いや、誰に向けてのパフォーマンスなんだよ!
僕の心の中のツッコミが止まらない。
なんだか、ここで見捨てるのは忍びない気がして、僕はもう少しだけドアの隙間から身体を乗り出した。
「チッ、チチチチ」
猫を呼ぶように舌を鳴らして、二人の注意を引いた。
弾かれたように、二人の顔が僕へと向けられる。
視線が合うなり、僕は二人に向かって手招きをした。
購買のコッペパンは中身の種類が実に豊富で、財布にも優しかった。
僕の一番のお気に入りはピーナッツホイップで、二番目はあんこバターだ。大体は甘いパンを選ぶのだけれど、たまにたまごサラダやツナマヨネーズなんかも選んだりする。
ドッグ系もありだが、一度ナポリタンドッグを食べた時に、片手で食べていたらナポリタンがボトボトと零れて制服のズボンを汚してしまった。それ以降はコッペパンしか選ばない。
昼休みになると、僕は購買でコッペパンを買って、北校舎に向かった。
ただでさえ日当たりの悪い北校舎の端の端に、僕が隠れ家として使っているパソコン教室があった。
今は生徒一人につき一台、タブレットが配布されている時代だ。某SF映画の宇宙人のように後頭部が突き出したモニターが並ぶパソコン教室など、ほぼ打ち捨てられているも同然だった。
僕はそのパソコン教室の鍵を持っていた。
決して、不当に入手したものではない。
この教室を部室としているパソコン部の部長を、僕が務めているからだった。ちなみに、高等部一年生の時から。
僕の通う聖・志光学園は、高等部から全生徒が部活に入ることを義務付けられていた。
当然、部活などしたくない者も多い。そんな者がとりあえずで選ぶ部活のひとつが、パソコン部だった。
同系統の部活としてプログラミング部やEスポーツ部がある中、なにをするのかよくわからないパソコン部は、その印象そのままに特に活動はない。
担当教員も定年間近でやる気がなく、顔を出したことはなかった。活動実績もなければ、部費の割り当てもないのに潰れないのは、その部員の多さゆえだった。
実質帰宅部と同義なのを、学校側もわかっていて黙認しているのだろう。
鍵に関しても、担当教員がいちいちキーボックスを開くのすら面倒なのか、僕の成績の良さや真面目そうな見た目から悪さには使わないだろうと判断したのか、持たせっぱなしにしてくれている。
卒業する日まで、この日常が続く。
僕は、そう信じて疑わなかった。
しかし、そんな日常はいとも簡単に崩れる。
僕は、鍵を持っていることをいいことに、パソコン教室を私物化していた。
とはいえ、一緒に騒ぐような親しい友人がいるわけでもない陰キャの僕が、そこで何をするわけでもない。
昼休みや放課後に、静かに一人の時間を楽しむだけだった。
一人の時間と言っても大したことはない。好きなお笑い芸人の動画をスマホで観ているだけである。そのためにも、片手間で食べられるコッペパン一択なのであった。
中等部の頃は、クラスで動画を観たりもしていたのだが、どうやらあの空間にはプライベートはないらしい。
「あ、俺もそれ好き!」だとか、
「昨日のテレビ見た? こいつら出てたよね?」などと、スマホ画面を覗かれることが度々あった。
最悪の場合は、無理やり僕の椅子の半分に腰掛けて、一緒に観始めたりする。
別に密かな趣味というわけではない。
趣味を共有したくないという限界オタクというわけでもない。
ただ、僕にはちょっとしたトラウマのようなものがあって、みんなと同じタイミングで一緒に声を上げて笑うことができなかった。
なので、変に思われるのが嫌で、パソコン教室を手に入れてからは、一人で観るようになったのだった。
実に気が楽だ。
家で観ている時より気楽ですらある。
卒業する日まで、この日常が続く。
僕は、この日常が卒業まで続いてほしいと願っていた。
むしろ、続くと信じて疑わなかった。
しかし、その願いはいとも簡単に崩れる。
それは、高等部二年生に上がって間もない頃。
その日のコッペパンの中身は、イチゴジャムマーガリンだった。
僕は、お気に入りのピン芸人が上げたばかりの新作ネタを見ていた。
口の端に付いたジャムをぺろりと舌先で舐めた時、遠く、階下から怒号のようなものが聞こえてきた。
「どこ行った、ごらぁ!」
「舐めやがって、クソ野郎!」
僕は動画を停止して、イヤフォンを外す。
自分に言われたことではないとわかっていたが、肉食獣の気配を感じた小動物のごとく、僕の心臓は早鐘を打っていた。
「ぶっ殺す!」
まだまだ遠いけれども、あまりに物騒な言葉が北校舎に響いて、僕は肩を跳ね上げた。
続けて、バタバタと廊下を走る足音が聞こえてきた。
これはかなり近い。
階段を上り切った勢いで、前のめりに倒れ込みそうになる姿まで頭に浮かんだ。
はぁはぁと、荒い呼吸までも聞こえる。
「やばっ、行き止まりじゃね?」
明るそうな、軽めの声がそう言った。
「なんで、上に逃げるんだよ!」
切迫しているが、冷静そうな低い声がそう答える。
「お前が引っ張って来たんだろ!」
低い声が続けた。
「あ、そっか……」
声から察するに、二人組の男子生徒らしい。
息を弾ませながらも、二人の会話は軽快だった。
――どこかで聞いたことのある声だ。
僕は様子を探るように、寄りかかっていたドアに耳をつけた。
しかし、そこでいったん二人の会話は途切れたようだった。
階下では、言葉にならない怒鳴り声や、壁やドアを乱暴に蹴るような音が聞こえていた。
僕はドアを細く開けて、廊下に顔を出した。
スラッと背の高い二人が、オロオロとあたりを見渡したり、下を気にしたりしていた。
背格好は似ているが、一人は髪を明るく染め、緩いパーマをかけていて、もう一方はストレートの黒髪をサッパリと整えていた。髪型からして正反対な印象を受けた。
顔はよく見えなかったが、二人には見覚えがあった。
同じ二年生で間違いないだろう。今まで同じクラスになったことがないので、名前までは咄嗟に出てこなかった。
明るい髪の方が、ハッと気づいたように目の前の旧木工室のドアに手を掛けた。
「うわ、ダメだ。鍵かかってる」
それに促されるように、黒髪の方も別のドアに手を掛けて、扉をガチャガチャと揺らした。
「あー、こっちもダメだ」
「どうする?」
パソコン教室のドアに手を掛ける前に、明るい髪の方が黒髪の方に顔を向けた。
「これ、詰んだか?」
黒髪の方が冷静に腕を組む。
二人で頭を捻っている間にも、階下で暴徒のように騒ぐ音が、ゆっくりだが確実に近づいてきていた。
「あ」
明るい髪の方が声を上げた。
「ねぇねぇ、あれは? 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、相手が階段上ってくるのと入れ違いに下に行くやつ」
「あ、あれ? いいね!」
黒髪の方も乗り気のようだ。
僕もそのシーンをすぐに思い浮かべることができた。健全な男の子なら、同じような状況になったら試してみようと、心のメモに書き留めるシーンではあると思う。
「あれって、ほら、相手が上ってきて――」
「うん。えっと、手すりをこうして……」
二人は身振り手振りでシミュレーションを始めたようだった。
しかし、ただ手と足をバタつかせただけで、すぐに二人同時に首を傾げた。
「え、どうやるの?」
「この階段でできるやつ?」
――バカなのかよ!
思わず、ツッコミの声が出そうになってしまった。
「どっちに逃げた?」
「どこも鍵かかってるしな……」
追っ手と思われる人物の、怒鳴り声ではない普通の会話声まで、はっきりと聞こえた。
もうすぐ下の階まで近づいてきている。
「やば、来た、どうしよ、どうしよ!」
明るい髪の方が、声は抑えているが、焦るあまりに足をバタつかせた。
――アホか、音を立てるな!
「もう、腹を括って戦うか……」
黒髪の方が、妙に格好つけて前髪を掻き上げる。
――いや、誰に向けてのパフォーマンスなんだよ!
僕の心の中のツッコミが止まらない。
なんだか、ここで見捨てるのは忍びない気がして、僕はもう少しだけドアの隙間から身体を乗り出した。
「チッ、チチチチ」
猫を呼ぶように舌を鳴らして、二人の注意を引いた。
弾かれたように、二人の顔が僕へと向けられる。
視線が合うなり、僕は二人に向かって手招きをした。
