ただいまを忘れないで、ただいまを覚えていて。


 雲一つ、ない空。
 青い風が吹く。草の匂いを運び。鼻。
 レジャーシートがはためく音。耳。
『仰向けって、なんで仰向けって言うか。
 知ってる?』
 寝転ぶ僕の隣で、



 真っ白な天井。
 消毒液の匂い。
 バイタルを示す。電子音。
 病院だ。確か、僕は、草原に居た。
 僕、僕。僕は?
 ここは、どこか分かる。
 けれど、僕は。
 僕が誰か、分からない。

 〜〜さん。
 看護師が来て、発した音が。
 自分のための音だと、分からなかった。
 長い間待たされた病院の待合室で。
 自分と関係のない名前が、
 次から次へと呼ばれるように。

 僕は病室を出た。
 なんでも、三日間ほど、僕は眠ったまま。
 どうりで。足が重いわけ。
 診察室に入る。
 医者が言う。
「手の平と膝に、かすり傷があるだけで、
 目立った外傷はございません」
「あのう。頭を強く打った、とかは」
「特に」
「でも、その、記憶が」
「一時的なものでしょう」
「一時的。あの、どうすれば、」
「記憶は、ここにばかりあるのでは、」
 医者は、頭を指さして、
「ないのです。場所に。宿るのです」
 そう言うと、看護師から、カードを。
「とりあえずは、ご自宅に帰られて、」
 渡されたのは、僕の写真が入った。
 個人識別カード。
 裏面には、住所が書かれている。
「あのう。それって、」
「おめでとうございます。退院です」
 看護師がそう言って、僕を立たせる。
 医者は、もう、机に向かっていた。



 スーツだった。
 僕の発見当時、着ていたものだと。
 看護師から、言われた。
 ネクタイを結んだとき。
 これは、覚えているんだ。と思った。
「あの、警察とかって、」
「ご心配なさらず。今は、記憶のことだけ」
「あの、荷物。所持品は、これだけ?」
「ええ、カードのみです」
 財布も持たずに。いや、盗まれたのか?
「あの、支払いは、」
 一枚。請求書を渡された。
「それでは、お大事に。それと、これを」
 自宅までの地図を渡され。
 僕は、病院を出た。

 太陽は雲に隠れている。
 自宅は近く。歩いて行く。
 見覚えのない景色が続く。
 家の扉の前。これも。覚えがない。

 ……気づく。鍵が。ない。
「馬鹿だな。はあっ」
 思わず、悪態をつくと。
 ビーッ。と。
 音声認識。だ。
「開けごま」
 ビーッ。
「オープンセサミ」
 ビーッ。
「アブラカタブラ」
 ビーッ。
「ちちんぷいぷい」
 ビーッ。
「ただいま」
 ビーッ。
「じゅげ、」
 ビーッ。
 ……考えろ考えろ。
 開く。あく。アーク。
 虹!。
「赤橙黄緑青藍紫」
 ビーッ。



 分かるわけないだろ。
 無限にある言葉の中から。
「はあっ、疲れた」
 ピーッ。
 ガチャン。
 ……空いた?
 僕は扉を開ける。

「……たっ、ただ、
 玄関に入り、後ろ手に扉を閉める。
 いっ、
 扉を閉めた瞬間、ライトが点いた。
 少し、おどろ、
「おかえりなさい」
 まっ!」
 驚いた。本当に。
 誰も居ないと思っていた家から。
 女の人の声。



 そして、思い出した。
『仰向けって、なんで仰向けって言うか。
 知ってる?』
 彼女の声。だ。
『仰向けって、青空の、青の方を向くから、
 仰向けって、言うんだって』
 清々しい風が一瞬、吹く。



 そして、気がついた。
 怖気が、背を走る。
 冷や汗が、筋を伝う。
 三日間、僕は行方不明になっていたんだ。
 この女、何も、どこにも、連絡をしていない。
 警察。病院。
 どこにも。



 そして。そして、思い出した。



「うつ伏せ」

 僕は、いや。僕の意思とは関係なく。
 玄関の。砂っぽい床に。
 五体を投げ出した。

「おすわり」

 五体投地から、土下座の形に。
 素早く姿勢を変えたせいで。
 両手両膝を、少し。擦りむいた。

「お手」

 彼女は僕に前屈み、左手を出す。
 僕は、その手に、右手を差し出す。

「おかわり」

 彼女の右手に、僕の左手。
 僕は、彼女に、かしづくように。
 僕は、彼女に、すがりつくように。

「おかえり」

 全ての記憶が。
 恐怖が。
 かえってきた。
 彼女が、手を離す。
 僕は、力無く、だらんと、両腕を垂らす。

「もう。ダメじゃない」

 彼女の中指の爪が、僕の顎の下に当たる。
 爪は、そのまま顎の下を引っ掻きながら。
 僕の喉元へと進む。
 中指が跳ね、指の腹が、喉仏の上を押す。
 指は、下へ。喉仏を優しくなぞり。
 首元で、指が、曲がる。
 痛みのない、引っ掻き。
 ネクタイの結び目の間に。
 彼女の爪が、指が、滑り込む。

「ネクタイ。ちゃんと、結ばなきゃ」

 するりと、解かれたネクタイを。
 彼女は、結び直す。
 前の方の布を、長く長く。
 きゅっと。
 リードのように。

「もう、私がいないと、
 何もできないんだから」

 屈託のない笑顔。

「お散歩のコースから、離れちゃダメよ」

 彼女は、僕のリードを引っ張る。
 僕は、靴を脱ぐ。
 家の中に上がる。

「記憶が離れちゃうから」

 彼女は、ソファの背もたれに、深く。
 そして隣を、ぽんぽん、と叩いた。
 僕は、座る。

「ねえ、覚えてる?」

 ソファの、目の前の壁には、
 僕と、彼女の、写真が、びっしりと。

「ああ、覚えて。います」

 そのうちの一枚は、あのときの写真。



 清々しい風が一瞬。
『僕と、結婚してください』
 僕の声。
『一生あなたを幸せにします』



 覚えて。いる。
 ソファの隣。
 彼女は、何も言わず。
 ただ、そっと、
 僕の手を握った。