いつまでも「なぜでしょう?」ではありません!

普段まじめな暦が、講義中にうとうとしている。
当然のように隣に座る伊織が、その様子を見てしまった。

(……え?)

暦は相変わらずうとうとしている。

(先輩が?)

伊織は、講義どころではなくなってしまった。
あの木内暦が、講義中にうたた寝をしているのだ。
伊織は、暦から目が離せなくなってしまった。

暦の頭が一回カクンとなる。

「……っ」

ついつい、笑いそうになる。
一瞬、暦が何事もなかった顔で姿勢を正す。

数分後。
また暦の頭がカクンと動く。
カクンとなるどころか、こちらに顔を向けてうつ伏せになってしまった。
伊織はここぞとばかりに無防備な暦の顔を観察してしまう。

(……かわいい)
(……かわいい?)
(いや、かわいいよね?)
(……絶対かわいい)

伊織の中で、謎の四段活用が発生した。
観察はさらに続く。

(まつ毛長!……唇、柔らかそう……)
(触ったらどんな感じなんだろう)

そして伊織は我に返った。

「いや、……何考えてんの俺?」

「……柴君」
「……何?」

目を覚ました暦に、伊織は、普段よりも挙動がおかしくなってしまう。
さっと目をそらす。

「いえ、こちらを見ていたので」
「見てない」
「?……そう、ですか?」帰宅後、伊織は先日よりも更に混乱することになった。

かわいい。
触りたいと思った。
なんで?
男にこんなこと思ったことあった?
先輩だから?
…………好き?

どこまでも思考は進んでゆき、自分でも飲み込めない場所にまで到達してしまった。


ある日の帰り道。
いつものように伊織と暦は並んで歩いていた。

「今度、外国語のテストあるんだけど、ちょっとヤバいんだよね」
「そうなのですか」

暦は少々呆れてから、提案する。

「柴君、私でよければみましょうか?」
「いいの!?」

伊織は、渡りに船といった様子だ。

「でも、先輩。この前、講義中眠そうじゃなかった?」
「……今は大丈夫です」

そう言って、暦は伊織を部屋に招いた。
暦の部屋は相変わらず片付いている。

テーブルに教材を広げ、テキストと睨めっこする二人。
自然と距離が近くなる。

伊織はふと、隣に座る暦の様子を覗き見た。
講義室のときよりも近い距離。
先程まで何かしら話していた伊織が何も言わなくなったことに気づき、暦も伊織の様子を確認した。
こちらをみている。
視線が合う。

「柴君?」

伊織は暦から視線を逸らすことができず、またもや講義室で見た唇に目が行く。

「やっぱり……」
「?」

暦は、伊織が何を考えているのかわからず不思議そうな顔をした。

「先輩?」
「え?」

暦は、伊織の、許可を得るような問いかけに戸惑い、何を言おうとしているのか考えた。
しかし、答えは出ない。
その隙を見て、伊織は更に暦の方へ体重を寄せると、人差し指を暦の下唇にちょん、と置いた。
暦は拒まなかった。
何をされたか理解できない。

「ごめん」

伊織は、すっと人差し指を引いて言った。

「何を……いえ……別に」

暦は、完全に拒否することはなかった。
その代わり、考えることをやめた。

「ありがと先輩。多分、テスト大丈夫」

伊織はそう言って荷物をまとめると、「じゃあね」と部屋を後にした。

(私は今、何をされました?)

自分の下唇に、伊織と同じように指を置く。
呆然とした暦だけが、残された。空気も冷たくなってきた、ある日、事件は起こった。

(……キーホルダーがありません)

暦は、最初はただそう思っただけだった。

昨日まではトートバッグの持ち手についていた。
トートバッグの中を確認する。
ない。
部屋を見わたす。
ない。
昨日の行動を思い出す。
大学?
学食?
図書館?
講義室?

(どこで落としたのでしょう)

考えていくたびに、不安になっていった。

(見つからなかったら……)

暦は、自分が思っている以上に焦っていることに気が付いた。
また部屋中を見てまわる。

心臓がどきどきして、居ても立っても居られない。

そして、デスクチェアの下に落ちていることに気がついた。
灯台下暗し、といったところか。
暦は、人形を手の中に握って、しばらく動けないでいた。

人形を握る力を緩めると、次は落とさないようにと考える。
失くさないように部屋に置いておくか、バッグへの取り付け方を考えるか悩んだ。
悩んだ末、次は外れないように取り付けよう、という結論に至る。

(頂いたものですから)

暦の中ではそれだけの意味のはずだった。次の共通講義の日、伊織は、暦の人形をのぞき込むように見た。
以前と取り付け方が変わっている。

「あれ、先輩それ――」

暦が人形を庇うように触る。

「?」
「なんでもありません」

人形に触れていた手を離し、暦はすぐさま普段通りを装った。長期休みに入り、本格的な冬の夜。
伊織が臨時で入れたのは、ケーキ屋でのバイトだった。
赤と白の衣装を身に着け、ケーキを売る。

サンタの乗ったイチゴのショートケーキが店頭に並ぶ。
しかもホールケーキである。

(この数、捌けるのか?)

伊織は多少の不安を抱えながら、きらびやかな照明の中、呼び込みを行う。
周囲はクリスマスソングが流れ、人通りも普段より賑やかだ。

バイト終わり。
伊織の不安は的中していた。
ホールケーキがいくつか余ってしまっていた。

「柴さん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
「一個持って帰りなよ、彼女くらいいるっしょ」
「こんな時間までバイトしてた奴に彼女いると思います?」

バイト先の店員と軽く言葉を交わす。

「とりあえず持って帰りな」

半ば無理やりホールのショートケーキを押し付けられ、伊織は少々困った顔をする。

(二十一時前か……)

少し考える。

(先輩ん家近かったな……メッセしよ)

最初に頭に浮かんだのは、他の誰でもない暦の姿だった。風呂上がりの暦がスマホをチェックすると、伊織からメッセージが届いていた。

(冬休みですよ、なにかあったのでしょうか?)

文面を見て固まる。

柴君がこちらへ向かっている?
なぜわざわざこんな日に?

暦は部屋を見回した。
そんなに散らかっていない、はず。
ケトルに水を入れ、湯を沸かす。
マグカップを用意する。

風呂上がりの自分の格好を見て、考える。

(……流石に部屋着では……)

急いで適当な服に着替える。

そうこうしているうちに、部屋のインターホンが鳴る。
思った以上に早い。

「はい」
「柴です」
「今、開けます」

暦は玄関のドアを開ける。
そこには、肩を上下させ、白い息を吐いている伊織が立っていた。
片手に大きめの紙袋を下げている。

「こんばんは先輩」
「こんばんは……急いで来たのですか?」
「あー、うん」

伊織が少し、目をそらす。
暦はそれを見てふわ、と笑みをこぼした。

「寒いでしょうから、上がってください」
「おじゃま、します」

暦が先に部屋に戻り、伊織はその後ろを歩く。

「コート、掛けておきましょうか」
「うん、ありがと」
「いえ」

伊織は、脱いだコートを差し出された手に預ける。
暦はそれを手際よくハンガーに通し、普段自分の使っているハンガー掛けに掛けた。

「これ」

そう言って伊織が紙袋から取り出したのは、先ほどまで店頭に並んでいたホールケーキだった。

「……大きいですね」

暦は率直な意見を述べる。

「……うん」

伊織も、改めて部屋に置いてみるとケーキが意外に大きいことに気づいた。

「とりあえず、冷めないうちにコーヒーを」
「うん」

暦はコーヒーを淹れながら、現状を再確認した。
展開に頭が追い着いていなかったが、

(柴君が、また部屋にいます)
(普通に座ってます)

いつもと違う気がする。
なんだか不思議な気分だった。

部屋に戻る。
伊織が床に座っている。
何処に座ろうかと悩んだ末、

「先輩?」

伊織の不思議そうな顔を見て、その横に座ることにした。

「これ半分食べれるかな」
「余ったら持って帰ってくださいね」
「うーん、明日の朝飯はケーキかぁ」

そんな他愛もないことを話しながら、二人でそれぞれ切り分けたケーキをつつく。

(きょうは……何もない、のでしょうか……)

暦は伊織の様子を盗み見た。
少し嬉しそうにしている、気がする。

「先輩、甘いもの好き?」
「……何を急に」
「コーヒー、いつもブラックだし、あんま印象なかった」
「合うんです……甘いものと」
「ブラックが?」
「……」

暦が何も言わなくなって、そしてまた口を開く。

「ただ……」
「?」
「このイチゴは思ったより酸っぱいです」
「……ぷっ」

暦が深刻な顔をして言う。
伊織は思わず吹き出してしまった。

「なんですか」
「……いや、あの……ぷぷ」

しばらく笑いの止まらない伊織に対し、暦は不服そうな顔をした。

それから、伊織の視界に、ふと暦のトートバッグが映った。
夏の終わりに土産として渡した人形が、無言でぶら下がっている。
伊織は、それを見つけて、またにやけてしまった。木曜の共通講義。
先に講義室に来ている暦はいつもレジュメを二枚とっておく。
そのたびに暦は「あと何回これが続くのでしょう」と考える。

伊織が後から暦の隣の席に着く。
暦は何も言わず、とっておいたレジュメの一枚を伊織に差し出す。

「ありがと」

伊織は当然のように受け取った。
ベルが鳴り、いつも通りの講義が始まる。

伊織は何か考えているのだろうか。
何も考えていないのだろうか。
それを確かめるすべもなく、日々は続いていった。


「先輩、学食行こ」
「はい」

いつもの学食。
いつもの、中庭の見える窓際の席。
なぜかふたりで昼食をとるのが当たり前になってしまった。
しかし、二人でうどんを食べながら見た、青々とした中庭は、一変して草木の色がくすんで見える。
半そで姿だった学生たちが、少しだけ厚着になっている。

(私らしくありませんね)


帰宅すれば一人だけの部屋。
それでも、伊織との思い出は雪の様に積もってゆき、そのうち溶けて消えてしまうものだと思っていた。
春になれば卒業。

(そうなれば、柴君とはもう……)暦が改めて言った。

「私は地元へ戻るのですよ?」
「知ってる」
「会えなくなります」
「会えるよ」
「なぜ」
「新幹線乗る」
「……二時間かかります」

暦にとってはかなりの距離だった。
しかし、伊織からしたらどうとでもない距離。

「土曜の朝に出れば昼前に着くじゃん」
「往復でいくらかかると思ってるんですか」
「バイトしてるし」
「そういう問題では――」
「先輩こそ、俺に会いに来る気ないの?」
「あります」

暦は即答した。
それがまた、伊織には愛おしく思えた。

「じゃ、いいじゃん」
「そうなのですか?」
「はいはい、いつまでもとぼけないでよ、先輩」
「そんなつもりでは……」

真冬の空の下、その場所だけ、春が来たようだった。