いつまでも「なぜでしょう?」ではありません!

大学四年生の後期。
木内暦は初っ端から油断していた。

午後から講義。
朝食は食べ損ねた。

昼食くらいは、と思ったところで大切なものを忘れていたことに気が付く。

(財布を忘れました)

最近、ぼんやりしていて抜けていると自分でも思う。
講義室から少し離れた学食まで来たのに、財布を忘れて突っ立っているだけ。

そんなときだった。

「木内先輩」

声がかかる。
こんなところで自分に声をかけてくる人間なんて、一人しかいない。
最近、何かと自分に構ってくる二年生の柴伊織に違いない。

「柴君」
「先輩、今から昼飯?」
「え、ええ。そんなところです」

財布を忘れて昼食まで食べそこないそうだなんて、彼には気づかれたくなかった。
無意識に目をそらす。

「どうしたの?」
「どうもしていません」
「選ばないの?」
「……」
「先輩?」
「……柴君」
「何?先輩」
「しつこいです」
「……え」

伊織が少し固まる。

「あ、いえ!」

暦は焦った。
拒否しているわけではなかった。
ただ、そう思ってしまったことが口に出てしまった。

「そうではなくて!」

伊織が不安そうに見つめてくる。

「財布を……財布を忘れました」

暦は精一杯の言葉を口にする。
気まずい。
気まずすぎる。
暦は自分の顔が赤くなっていないか、今すぐ確認したかったが、そんなことはできなかった。

そして、伊織の方は、そんなこと?という顔をしていた。

「俺買うよ?」
「え?」
「や、先輩普段から食べてないし、いつものことじゃん」
「い、いつものことだなんて、失礼ですね」
「だって……んー、まあいいや、何買う?」
「……です」
「ん?」
「柴君と同じものがいいです」
「いいの?じゃあ、先輩は席とっといてよ、買ってくるから」

暦が赤面している間に、話がどんどん進んでゆく。

(彼は、なぜそうやって普通の顔をして私の中に入ってくるのですか)

不服。
そう思いながらも、暦は伊織に言われた通りに二人分の席を探し始めた。

暦は学食の中を見渡した。
昼時とあって、学生で溢れかえっている。
無意識に、窓際の席が空いていないか確認する。
二席。
中庭を正面にしてカウンターのようになっている席を見つけた。
席に荷物を置くと、伊織がどんぶりがふたつ乗っている盆を持って近づいてくる。

「お待たせー」
「待ってはいません」

隣り合ってうどんをすする。
窓の外には、青々とした植木とぱらぱらと歩く学生たち。

「先輩、この席好きだよね」
「そうでしょうか」
「うん、いつも、中庭の見える窓際じゃない?」
「そう、かもしれません」

箸が止まる。

(そういえば、以前も柴君とこの席でお話ししたような気がします)その夜。
暦が提出用のレポートを書いていると、スマホの通知音が鳴った。
誰……かは、なんとなく分かる。
PCのモニターから目を離し、スマホを手に取る。
ホーム画面の通知には「柴伊織」の文字が表示されていた。

メッセージアプリを開く。
伊織から、『こんばんは』というスタンプが送られてきていた。
暦の知らないキャラクターだった。

(相変わらず、変なスタンプですね)

『こんばんは、柴君』
『どうしました?』

『先輩、後期の講義、全部決めちゃった?』
『ていうか、もう単位取れてるんだっけ?』

(藪から棒に……)

『もう取れてますが、何かありましたか?』

『んー、木曜昼からの共通講義とろうと思ってて、内容知ってたら教えてほしかった』
『シラバスにでも書いてあるでしょう』
『まあ、そうなんだけどね』

(ではなぜ私に?)

『もう遅いから、ごめんね』

最後に、伊織からの『おやすみ』のスタンプだけが画面に残る。

(……切られました……なんだったのでしょう?)

(木曜昼から……)

暦はレポートはそのままに、大学の学生用HPに接続し、時間割とシラバスを見比べる。

(これ、ですね)

取れないこともない。

暦は迷いなく受講ボタンをクリックした。本講義がはじまった週の木曜日。
伊織が講義室に入ると、一番に目に入ったのは暦の姿だった。
真面目な彼らしい、いつもの中央の席。

伊織は、ためらいなく暦に近づいてゆく。
背負っていたリュックを下ろす。

「柴君……わざわざここでなくとも」
「急に何言ってんの」
「席はまだ空いています」
「ここがいいんじゃん」
「……そうですか」

そう言うと、暦は伊織の目の前に一枚の紙を、す、と差し出した。

「何?」
「きょうのレジュメです」
「取ってきてくれてたの?」
「ついでです」

伊織が少し止まる。

「俺、この講義とるって言ってたっけ?」
「……知りません」
「ていうか先輩、単位足りてるんじゃ」
「知りません。全学年履修できる講義です。興味があったのでとりました」

暦はあえて伊織の方を見ない。
伊織はその様子に、なぜか少し笑いが込みあげてきた。

「……っふ、そっか。プリントありがと」

そこではじめて、暦が伊織の顔を見る。
伊織と目が合った。
伊織は口元がにやけるのをこらえた。

「そういえば」

伊織はリュックの中に手を突っ込み、ガサゴソと何かを探す。
出てきたのは、誰が見ても珍妙な形をした人形のキーホルダーだった。

「旅行行ってきた。お土産」
「なんですかこれは」

暦が顔をしかめる。

「なんか、わかんないけど、地元のすごい神様?かなんかっぽい」
「わからないが多いですね……ありがとうございます」

とりあえず受け取っておく。

(わからない何か……土産……私にだけでしょうか?)

暦は土産に対しても、自分に対する伊織の行動についても、疑問符しか頭に浮かんでこなかった。

「あ、先輩、講義はじまる」
「あ、はい」

伊織は暦の隣に着席し直した。
当然のように二人ならんで講義を受けることになった。帰宅するころには、もう日は暮れていた。

(ゼミに顔を出したせいで、思ったより遅くなりました)

暦は、デスクの上にバッグを置いた。
バッグの開いた口から、伊織から貰ったキーホルダーが顔を出している。

(……このキーホルダー)

暦はデスクチェアに腰を下ろすと、キーホルダーを手に取った。

人形の腹を両親指でふにふにと押しながら、考える。

(旅行のお土産に、お返しは必要なのでしょうか?)
(柴君は何故私に?……他の方にも渡してる?)

そんなことを考えて、どうするつもりなのか。

(そもそも、これはどこにつければ……)

机の上に置いて観察してみる。
鍵につける?にしては少し大きすぎる。
持ち上げて更に観察してみる。

(ふふ、珍妙だとは思いましたが、見ていると案外、かわいらしいかもしれません)

暦は、くすりと笑った。
思案した結果、普段持ち歩いているトートバッグにキーホルダーを通した。秋の天気は移ろいやすいようだ。
突然の雨に、傘を持っていない暦は校舎の中でどうしたものかと悩んでいた。
同じように困っている学生が何人か見受けられる。

「伊織、傘入れてー」

暦は、聞いたことのある名前に、思わず声のする方に視線を向けてしまった。
そこには傘を持った伊織と、その友人らしき人物が立っている。

「えー、やだ。自力で帰れよ」
「は?伊織のけち」
「しっしっ」

暦は何故かその様子から目をそらすことができなかった。

伊織がふとこちらを向き、暦の姿を見つける。

「先輩?」

そう言って近づいてくる。

「先輩傘ないの?」
「見てわかりませんか?」
「ないね」
「はい」

伊織は少し考えた。

「俺、駅まで行くから家まで送るよ?」
「え?」

(先ほどはご友人を……いや、そんなことは聞けません)

暦の疑問は他所に、伊織は傘を広げる。

「はい、行くよ。入って」
「……ちょっと」
「?濡れるよ?」

伊織が暦の手を引いて傘に入れようとする。

(手が……いや、近い……)

暦は驚きつつも、伊織にされるがままになっていた。

大人二人が入るには傘は小さすぎた。
片方の肩は傘からはみ出て濡れている、が、全身濡れるよりはマシだった。
暦はバッグを身体の前で抱き締める。

暦は伊織の様子を見た。
何を考えているのか、この男は。
こんな状態なのに、伊織は機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。
暦は動揺した。
やはり聞いといた方がよいのではないか?

「えっと、先ほどのご友人は……」
「ん?」
「どうして」

伊織は、「あー」と、暦が何を言いたいのか納得した様子だった。

「先輩の方が大事だから」
「……え?」
「うん」

ただ、それだけ。といった風に歩を進める。

それから二人は何も言わず、暦のアパートまで歩いた。

歩いているうちに、暦の動揺はどこかへ行ってしまったようだ。
しかし、暦はうつむき加減で、伊織は未だに鼻歌を歌っている。

アパートの前まで来ると暦は伊織に向き直った。

「ありがとうございました」
「うん」

そのとき、伊織の濡れた肩が暦の目に映った。

(やはり、あの傘では狭かった、ですよね)

「あの、温かいものでも……」

少し迷って、暦は、申しわけなさと、傘の礼のつもりで伊織に投げかけた。

「あー、いいの?」
「ええ」

伊織は、軽く「ありがと」と言った。

暦は、ドアを開け、伊織を部屋の中へ招き入れる。
伊織は傘を畳んでドアの脇に立てかけてから玄関へ入った。

暦は洗面所の棚から二枚タオルを取り出し、片方を伊織へ手渡す。

「ありがと」
「インスタントですが、いいですか?」
「いいよ」
「適当にかけていてください」

伊織は、「先輩の部屋か~」と呟きながらぐるりと見渡してから、床に腰を下ろした。
また鼻歌を歌っている。

暦はマグカップをふたつ用意する。
キッチンで湯を沸かしながら、自室に伊織がいることを意識し始めた。

(柴君が私の部屋にいる……妙な感じですね)
(自分で部屋に入れといて、何を考えているのでしょう)

先ほどの動揺がぶり返してきたような気がした。

ケトルのスイッチがカチッと鳴り、湯が沸いたことを知らせる。
ふたつのマグカップにコーヒーを淹れる。

「お待たせしました」

両手にカップを持ってキッチンから出てくると、床に座っていたと思っていた伊織がなぜかベッドに腰かけていた。

(……なぜベッド?)

不思議に思いながら、コーヒーを手渡す。

「うん、ありがと」
「はい」

また少し迷って、暦は伊織の隣に腰かけた。

(部屋に入れたのは私ですが……)
(なぜベッド?)

暦は伊織の様子を見る。
隣に座っておきながら、その謎だけは本人に聞くことができなかった。

「先輩って、地元帰るんだっけ?」

伊織が、前触れもなく話し始めた。

「ええ、その予定です」

暦も「それが何か?」と、当然のように答えた。

「ふーん」
「何かありましたか?」
「いや、ちょっと寂しくなるなって」
「……寂しく?」
「うん」
「そうですか」

二人はそれきり、深く話を掘り下げることはなかった。
無言の二人の間で、コーヒーの湯気がふたつ、立ち上っていた。