その害虫のような汚いソレを。無心で踏みつけ、爪先でねじり、拾い上げ、更にくしゃくしゃにしてポケットの奥に突っ込む。周りを見る。誰か見ている奴はいないか、視線を感じたらすぐに睨み返して捕まえてやる。
けど、見当たらない。朝早い登校のせいか生徒も少ない。だから俺の爆発しそうな心臓の音も、殴りかかりそうなこの衝動も焦りも、誰にも届いていないはず。
紙を握った手をポケットに突っ込んだまま教室に向かう。なんのいたずらだ、きっと誰かと間違えている。それしか考えられない。
教室に入るまですれ違う生徒、先生、全員の目を見た。睨みつけた。誰でもいいから責めたかった。じゃないと、自分を保つことができなくなりそうだった。
教室に入って自分の席に座る。ポケットから手が離せない。ひたすらにくしゃくしゃにしている。教室内を見渡す。誰か俺を見て笑っていないか。そんな疑心とは裏腹に、教室はいつも通り我関せずの生徒たちしかいない。自分たちのエリアからは決して離れることはない。人と繋がりたいくせに、表面では繋がろうとしないいつもの風景だ。
無反応な空気を浴びて少しずつ気持ちが落ち着いてくる。俺は……誰に、震えている?
深呼吸しようと大きく息を吸うと、一瞬、クラスがどっと沸いた。教室全体が割れるような歓声が上がった後、すぐに収束し静まる。その声は、教室の出入り口に向かっていた。
「……あ……」
全身の汗が引いて、間の抜けた声が出た。吸い込んだ息が、吐き出せずに止まる。
恋仲がいた。学校に、来た。
目立たぬよう入ってきたのだろう、俺は全く気づけなかった。しかしクラスの反応は違う。簡単に素通りさせることは許さなかった。みんなが恋仲に視線を送っている。俺はこんなゴミみたいな紙切れのせいで、自分に課していた校門に立って待つって行為を忘れてしまった。そんな日に、恋仲はきっと、無理をしながら学校に来たのだ。
席に着くまでの間、恋仲は俯いたままだったが、俺と視線が合うと目元だけ控えめに笑ってみせた。クラスのどよめきは大きいが、声は小さくて何を喋っているかは聞こえない。恋仲の話をしている空気だけは伝わってくる。ビンタの真似をして笑う男子グループもいる。いずれにせよ、登校してきたことを歓迎している空気じゃない。この空気は、俺が生み出してしまった結果だ。俺がしてしまったことは、恋仲の学校生活を狂わせてしまうくらいの出来事だった。
……全部、俺のせいだ。
汗ばんだポケットから手を抜く。みんなに聞こえるようにワザと大きな音を出して立ち上がる。足を床に擦り付けた。勢いが強すぎて後ろの席の机にぶつかり、その音でクラス中の視線が集まった。
―それでいい。なら、俺がクラスの空気を変えればいい。俺の後悔? そんなもの、恋仲と比べたらちっぽけすぎる。
「恋仲、おはよう!」
だからこそ俺は、俺の今の全てを使って前に進む。こんな雰囲気、俺が変えてやる。恋仲の居場所を作ってみせる。それが俺にできる償いでもあり、友達になった俺がするべき役割でもあると思う。
俺が動くと、「おお!」とクラスがもう一度沸いた。そうだ、俺を見ろ。笑うなら俺を見て笑え。恋仲を笑うな。
恋仲の席は窓辺の一番前。恋仲への視線を遮断するように移動して後ろに立つ。背中に気持ちの悪い視線を感じる。朝の喧噪は、俺と恋仲を中心に回っているようだった。
『ごめんなさい』
俯いた恋仲の机で、開いていたテキストアプリにはそれだけの文字が残っていた。
「……おはよ、恋仲」
もう一度、今度は恋仲にだけ聞こえる声で挨拶する。こんな日々を、恋仲はこれから過ごしていくのか。一か月、半年、ずっと耐えて待つ。下手に反応なんてしない。そのうち、他の話題で興味もなくなる。それまで黙って静かにしていれば、きっと忘れてくれる。
でも、そんなの全然楽しくない。だから、一日でもそんな重苦しい雰囲気をなくして楽しく過ごす。これが普通なんだって、そう思ってもらいたい。その間の文句は俺が受ける。それが俺のやることだ。
『おはようございます。……その、びっくりさせたくて来ちゃったんです。タイミング、間違えちゃいましたよね』
「そんなことないよ、それより体調は大丈夫? 無理しちゃだめだよ」
こくん。笑みを浮かべながら恋仲は頷いた。
『元気です』の文字に安堵する。なら、少しでも学校に来てよかったって思わせないと。だから絶対に後ろの視線に反応してはだめだ。恋仲が開いてくれた世界を、俺自身で閉じちゃいけない。
それから休み時間、昼休み、放課後になるまで、時間がある時には恋仲の傍に行き、会話した。会話がない時間もあったけど、それでも近くにいた。
* * *
夕焼けに染まるマンション。気持ち涼しくなってきたとはいえ、生ぬるい風が頭をすり抜ける。頭上の木々が乾いた音で反応する。子供の遊ぶ声、堂々と走行中の車の前を通るママチャリ軍団は、クラクションなんて気にもしない。その度胸がちょっと羨ましいなって思った。
「ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん! 今日は早かったね、今日のご飯はデリバリー頼んじゃって、もうちょっとかかっちゃうよ」
「うん、いいよ、ありがとう」
さすがに学校が終わって、そのまま恋仲と出かけるとか、家に行くとかは図々しすぎて言えなかった。恋仲だってゆっくりしたいだろうから、校門の前で別れた。でもその間、出来るだけ近くにいたつもりだ。
『よろしくおねがいします』
『こちらこそ!』
恋仲から来たチャットメッセージを見つめたまま、スマホをぐっと握りしめる。なんで友達登録しただけでこんなに心臓がバクバクしてるんだか。そういうことなのかもしれないと過るが、けど、それは今考えることじゃないとかぶりを振る。
「お兄ちゃん、最近笑顔が多くて元気。雰囲気、変わったね。……すごくいいと思うよ」
近くのファミレスから届いた、中華料理の匂いに食欲をそそられる。琴音のそんな一言でまた、救われる気持ちにもなる。
「……恋仲さんのおかげだね」
その通りだった。こんな前を向いて歩こうって思う気持ち、初めてのことだった。俺の口からは恋仲のおかげ、だなんて言えるはずもないけれど。
けど、見当たらない。朝早い登校のせいか生徒も少ない。だから俺の爆発しそうな心臓の音も、殴りかかりそうなこの衝動も焦りも、誰にも届いていないはず。
紙を握った手をポケットに突っ込んだまま教室に向かう。なんのいたずらだ、きっと誰かと間違えている。それしか考えられない。
教室に入るまですれ違う生徒、先生、全員の目を見た。睨みつけた。誰でもいいから責めたかった。じゃないと、自分を保つことができなくなりそうだった。
教室に入って自分の席に座る。ポケットから手が離せない。ひたすらにくしゃくしゃにしている。教室内を見渡す。誰か俺を見て笑っていないか。そんな疑心とは裏腹に、教室はいつも通り我関せずの生徒たちしかいない。自分たちのエリアからは決して離れることはない。人と繋がりたいくせに、表面では繋がろうとしないいつもの風景だ。
無反応な空気を浴びて少しずつ気持ちが落ち着いてくる。俺は……誰に、震えている?
深呼吸しようと大きく息を吸うと、一瞬、クラスがどっと沸いた。教室全体が割れるような歓声が上がった後、すぐに収束し静まる。その声は、教室の出入り口に向かっていた。
「……あ……」
全身の汗が引いて、間の抜けた声が出た。吸い込んだ息が、吐き出せずに止まる。
恋仲がいた。学校に、来た。
目立たぬよう入ってきたのだろう、俺は全く気づけなかった。しかしクラスの反応は違う。簡単に素通りさせることは許さなかった。みんなが恋仲に視線を送っている。俺はこんなゴミみたいな紙切れのせいで、自分に課していた校門に立って待つって行為を忘れてしまった。そんな日に、恋仲はきっと、無理をしながら学校に来たのだ。
席に着くまでの間、恋仲は俯いたままだったが、俺と視線が合うと目元だけ控えめに笑ってみせた。クラスのどよめきは大きいが、声は小さくて何を喋っているかは聞こえない。恋仲の話をしている空気だけは伝わってくる。ビンタの真似をして笑う男子グループもいる。いずれにせよ、登校してきたことを歓迎している空気じゃない。この空気は、俺が生み出してしまった結果だ。俺がしてしまったことは、恋仲の学校生活を狂わせてしまうくらいの出来事だった。
……全部、俺のせいだ。
汗ばんだポケットから手を抜く。みんなに聞こえるようにワザと大きな音を出して立ち上がる。足を床に擦り付けた。勢いが強すぎて後ろの席の机にぶつかり、その音でクラス中の視線が集まった。
―それでいい。なら、俺がクラスの空気を変えればいい。俺の後悔? そんなもの、恋仲と比べたらちっぽけすぎる。
「恋仲、おはよう!」
だからこそ俺は、俺の今の全てを使って前に進む。こんな雰囲気、俺が変えてやる。恋仲の居場所を作ってみせる。それが俺にできる償いでもあり、友達になった俺がするべき役割でもあると思う。
俺が動くと、「おお!」とクラスがもう一度沸いた。そうだ、俺を見ろ。笑うなら俺を見て笑え。恋仲を笑うな。
恋仲の席は窓辺の一番前。恋仲への視線を遮断するように移動して後ろに立つ。背中に気持ちの悪い視線を感じる。朝の喧噪は、俺と恋仲を中心に回っているようだった。
『ごめんなさい』
俯いた恋仲の机で、開いていたテキストアプリにはそれだけの文字が残っていた。
「……おはよ、恋仲」
もう一度、今度は恋仲にだけ聞こえる声で挨拶する。こんな日々を、恋仲はこれから過ごしていくのか。一か月、半年、ずっと耐えて待つ。下手に反応なんてしない。そのうち、他の話題で興味もなくなる。それまで黙って静かにしていれば、きっと忘れてくれる。
でも、そんなの全然楽しくない。だから、一日でもそんな重苦しい雰囲気をなくして楽しく過ごす。これが普通なんだって、そう思ってもらいたい。その間の文句は俺が受ける。それが俺のやることだ。
『おはようございます。……その、びっくりさせたくて来ちゃったんです。タイミング、間違えちゃいましたよね』
「そんなことないよ、それより体調は大丈夫? 無理しちゃだめだよ」
こくん。笑みを浮かべながら恋仲は頷いた。
『元気です』の文字に安堵する。なら、少しでも学校に来てよかったって思わせないと。だから絶対に後ろの視線に反応してはだめだ。恋仲が開いてくれた世界を、俺自身で閉じちゃいけない。
それから休み時間、昼休み、放課後になるまで、時間がある時には恋仲の傍に行き、会話した。会話がない時間もあったけど、それでも近くにいた。
* * *
夕焼けに染まるマンション。気持ち涼しくなってきたとはいえ、生ぬるい風が頭をすり抜ける。頭上の木々が乾いた音で反応する。子供の遊ぶ声、堂々と走行中の車の前を通るママチャリ軍団は、クラクションなんて気にもしない。その度胸がちょっと羨ましいなって思った。
「ただいま」
「おかえり、お兄ちゃん! 今日は早かったね、今日のご飯はデリバリー頼んじゃって、もうちょっとかかっちゃうよ」
「うん、いいよ、ありがとう」
さすがに学校が終わって、そのまま恋仲と出かけるとか、家に行くとかは図々しすぎて言えなかった。恋仲だってゆっくりしたいだろうから、校門の前で別れた。でもその間、出来るだけ近くにいたつもりだ。
『よろしくおねがいします』
『こちらこそ!』
恋仲から来たチャットメッセージを見つめたまま、スマホをぐっと握りしめる。なんで友達登録しただけでこんなに心臓がバクバクしてるんだか。そういうことなのかもしれないと過るが、けど、それは今考えることじゃないとかぶりを振る。
「お兄ちゃん、最近笑顔が多くて元気。雰囲気、変わったね。……すごくいいと思うよ」
近くのファミレスから届いた、中華料理の匂いに食欲をそそられる。琴音のそんな一言でまた、救われる気持ちにもなる。
「……恋仲さんのおかげだね」
その通りだった。こんな前を向いて歩こうって思う気持ち、初めてのことだった。俺の口からは恋仲のおかげ、だなんて言えるはずもないけれど。
