この世界に、声がなくても

「ただいま!」

 世界の輪郭が瞬く間に明るくなった。よく体が軽くなったって言うけど、これ、本当にあるんだな。俺の歩く道は、雨も残暑も湿気も何も残らない。歩くだけでこんなにも歩幅が広がるなんて思ってもみなかった。勢いよく帰宅すると、開けっ放しのリビングで、琴音がちょうど髪を後ろに束ねようとしていたところだった。俺は自分でも分かるくらい満面の笑みだ。

「どなたですかー」

 琴音は何やら呆れた顔をしていて、棒読みの反応だった。俺はそんな琴音を意に介さず、小躍りしながらソファにカバンを投げる。そのまま動きの止まった琴音を横目に置いて、冷蔵庫を漁る。炭酸飲料を取り出してキャップを開ける。飛沫が跳ねるだけでなんか嬉しい。

 それにしても恋仲の部屋、いい匂いしたよな。琴音の部屋は生活臭。いや、別に悪い意味じゃなくて、やっぱどこか家族の匂いなんだよなぁ。女の子の部屋ってなんか違う。俺は借りた兄の私服のまま帰ってきた。濡れた制服は乾燥機で乾かしてくれて、畳んでくれて紙袋に入っている。カバンは投げても紙袋だけは手放さなかった。靴はどうしようもなかったけど、小さな問題だ。おっと、ハンドタオルまた返しそこねたな。まあいいか、明日も会えるし!

「せ、生活臭ってなに!」

 琴音が真っ赤になって突っ込んだ気がしたが、俺の心の声なんて聞こえるはずがない。

 * * *

 翌朝。

「……よし」

 靴を履きながら、小さく息を吐いた。今日は晴天。当たり前だろ。兄の服は、思い切り叩きつけるようにして洗濯機に放り込んだが、ちゃんと琴音に畳んでもらった。紙袋に入っている。

「お兄ちゃん、一緒にいこ!」

 家を出るとすぐに琴音に声を掛けられ、久しぶりに一緒に登校した。陽の光を浴び、肺の空気を入れ替える。空気も乾燥していて清々しい。それに、琴音の笑顔も遠くに感じられない。すごく気持ちがいい朝だ。こんな朝、生まれて初めてかもしれない。
 途中、琴音がプチバズっている間抜けなクマのアニメ動画見せてくれて、二人で笑った。なんだか、小学生の頃に戻った気分だった。行きも帰りも登下校していた。手を繋いで、今みたいに笑い合って。

「今日も行くの? 恋仲さんのお家」

 言葉の裏に、心配しているような陰りを感じる。

「うん、学校に来なかったら行くよ」

 ふと、「ふうん」と琴音の笑顔が止み、影が落ちたように見えた。雲が太陽を隠したのでそう見えただけだと思う。

「……そっか。じゃあね、お兄ちゃん!」

 昇降口で別れ、琴音の背中を見送ってから教室へ向かう。早いから数人しかいない。早朝組は基本、机に突っ伏して寝ている。恋仲がいないのを確認してから、校門へ引き返す。昨日の雨で悪化していなければいいが。


「善吉。お前また居るのかよ。奉仕活動でもしてんの?」

 登校してきた三国らと鉢合わせる。

「ん? いや、人待ってるだけだよ。最近つれなくてごめんな! 今度バッセン行こうぜ!」

 三国たちは眉をひそめながら顔を見合わせ、

「……気が向いたらな。じゃーな、おじぞうさん」

 と、イヤミったらしく語尾を上げ、友人らと校内に入っていった。しばらくすると、全速力で自転車を漕ぐ少女が通り過ぎて行った。無視すればよかったけど、目が合ってしまった。なぜか勝ち誇ったみたいな顔をしていた。 

 * * *

 予鈴が鳴って教室に戻ると、ざわめきがいつも通りに響いていた。無防備な座り方で喋りこむ女子グループ。それを意識する男子グループ。スマホを見て笑うやつ。音楽を聴いてノリノリで首を振るやつ。いいね、俺も聞こうかな。席に着いてイヤホンをつけようとすると、隣に座る女子の机の上から、プリントが落ちるのが見えた。何も考えずに体が反応し、キャッチ。渡してあげる。

「あ……ありがと」
「おう」

 他のクラスメイトの顔もよく見たことがなかった。そうだったな。俺はネットの繋がりしか気にしてなくて、現実の世界なんて、何にも見てこなかった。……さて、何を聞こうか。うっかり鼻歌が出ないようにだけ注意しないと。

 昼休み。久しぶりに三国たちと飯を食べた。向こうも普通に話しかけてくれて、俺も作り笑いで返す。距離が元通りになった気がした。でも、それはたぶん気がしただけかもしれない。今の俺は完全には受け入れられていない、そんな空気を感じる。
 飲み終えた紙パックを捨てようとすると、気の弱そうな男子がつまずいて、ごみ箱に足を引っかけて、中身をバラまいてしまった。片付けるのを手伝うと、後ろから笑い声が聞こえる。

「ご、ごめん……」

 と、消え入りそうな声だった。昨日の俺が一瞬よぎる。

「全然! 気にすんなよ!」

 くすくすと笑う声にも負けない声量で返した。──そんなささいなやりとり。ちょっとしたことの気遣い。こういうのがきっと大事なんだと思う。三国たちの所へ戻ると、三国の顔が真顔になっていた。どうにも腑に落ちない、面白くないそんな不満を帯びた顔つきに変化する。

「お前、ほんとになにしてんの?」

「手伝っただけだけど」と返すと、「そうかよ」だけで会話が終わる。周りの友人たちも肩をすくめていた。そのままの空気の中、みんなスマホに目を戻した。
 みんな俺と一緒だ。相手の顔なんてまともに見やしない。画面越しのアイコンの方が実際より見られてるかもしれない。俺たちの世界は、画面の向こう側にあるのだから。

 あっという間に放課後になった。書き終えたノートをカバンにしまい、意気揚々と飛び出す。バス停で待っていると、隣に見知った茶髪の気配がした。

「せっかくお気にのやつ、履いてきたのになあ」

 近くまで寄ってこないが、耳元で囁かれたように首筋がぞくりとした。

「あ、今、喉ごくんってなった? あはっ」

 茶髪の女子が楽しそうに肩を弾ませる。

「なんなんだよ、お前っ、自転車じゃなかったのかよ。なんで隣にいんだよ……」
「えっ、自転車で来てたの見てたの? わ、うれしー。バスでかえろって思っただけだよ。隣は、たまたまじゃん。だって、他に並んでないもん、へんなの」
「変なのはそっちだろ……」

 一歩離れる。その分だけ、こいつもぴたりと寄ってくる。肩まで内巻きになった茶髪に、漫画キャラみたいな横顔。弾力のありそうな唇が妙に目を引く。どこか大人びた雰囲気だった。なんでだろう、視線が女の瞳に吸い寄せられてしまう。俺の混乱を見透かすような笑みが、余計に首のあたりを寒くする。視線に気付くと髪を耳に掛けてニヤっとする。

「ううん。へんなのは、ぜんきちだよ。あの子の家いくんでしょー?」

 電源が入っていないスマホを振って見せる。しれっと名前を呼ばれたが、動画を見たってことで理由はわかった。それより今なんて言った?

「あっ、その反応。あたっちゃった」

 カマをかけられたみたいだ。返事はしなかったが表情だけで悟られてしまう。

「毎日校門であの子を待って、放課後になったらお見舞い、行くんでしょ? なんかさ、そういうのって、とくべつ、だよねー? どうしてそこまでするの?」
「お前に関係ないだろ」
「実はぜんきちの告白、覗いてたんだよね、うち。アレ、マジでおもしろかった。うちも映ってたの知ってた? 最後のほう」

 知り合い以下のはずなのに。この慣れ慣れしさと無造作に詰めてくる距離感、友達みたいな話し方は何かを早とちりさせる。ペースに吞まれてしまったら、知らないうちに深い仲になっていそうな危うい錯覚を覚える。近づくな、関わるなと、頭が警鐘を鳴らしている。

「ねえ、どーしてそこまでするの? うち、すっごい気になるんだよね」

 警戒した通り、何かヤバい気配を感じる。とにかく、土足で踏み込んでくるこいつの距離感に戸惑う。

「……なんか、いいなぁ。そういうの」

 距離を離しても同じだけ詰めてくる。今度は目線に合わせるように顔を落とし、上目遣いで見つめてくる。

「ねえ。うち、本田凪(ほんだなぎ)っていうの、キミは、つたもり、ぜんきち。名前は聞かなくてもわかってるんだ。だって、ほら。ぜんきち、有名人だし! うちのこと、なぎって呼んでいいよ?」
「近づいてくるなよ……」

 しっしと手で追い払おうとするが、意図を介さない羽虫のようにまとわりついてくる。

「向き合うってさ、どんな気分なの?」

 急にトーン落とし、視線は外さないままつぶやいた。俺は聞こえないふりをして時間を確認する。

「ぜんきちは、うちのことも、見てくれる?」

 心臓の大きな鼓動が聞こえた。直感が逃げろと命じた。呼応するように俺は走り出していた。ああもう! バスに乗っていられるか! 道は覚えている、走っていくしかない。

「くそっ、自転車で帰れよ! あいつ!」

 あの女、ちょっとおかしいぞ。言っている意味がわからない。最後の、あのぎこちない引きつった笑顔はなんだ。本人はそんな顔のつもりはないのかもしれないが、俺には不気味な違和感しか覚えられなかった。心をかき乱すのは、どこかで見た顔でもあったからだ。

 俺みたいな、そんな顔……。いや、何を言っているんだ。そんな訳がない。俺はあんな風に笑わない。でも、あの瞬間、自分の過去を鏡越しに見たような悪寒が走ったのは事実だった。



 時間をスマホで確認すると、いつもよりだいぶ遅い。相変わらずのキモさは置いといて、アプリで登録しているから、道も間違えずに恋仲の家に到着できた。玄関の前で呼吸を整える。
 どっと、忘れていた大量の汗が垂れてくる。シャツの中を嗅いで汗の臭いを気にしてしまう。家から持参したタオルで顔から頭まで、ついでに背中と胸も脇もタオルを突っ込み、手が届くとこだけ汗を拭う。深呼吸して、息を整えてからインターホンを押す。息切れしている姿なんて見せられない。

「こんにちは善吉君。……ちょっと待っててね」

 恋仲の母に確認してもらい、恋仲の調子も良さそうだってことで、お邪魔することができた。
 そしてこうして、今度は緊張の汗でだらだらと顔を濡らしながら、恋仲と会っている。

『汗、すごいです。そんなに暑かったですか?』

 目線で大丈夫? と聞いてくるのが伝わる。

「ちょっと走ってきただけ、大丈夫」

 と、苦し紛れに笑う。またタオルを差し出され、慌てて返しそびれたハンドタオルを返す。都合、交換しただけ。そんなやりとりをした後、口元に丸めた手を当て少しだけ笑う恋仲。

『今日もノートうれしいです。でも無理しなくていいんですよ?』

 恋仲の文字はとても綺麗だ。角は少し丸みを帯びていて、それでいて可愛い。単純な感想しか出てこないが、女の子の文字。そんな感じだ。

「いやっ、俺がしたいだけだから! 迷惑じゃなければ、また持ってくる! ……その、字は汚いけど、もっとこう書いてほしいとことかあったら言って!」

 冷静に考えてはいるが、声に出してみると想像以上にちぐはぐだ。ノートを受け取った恋仲は、笑みを作った後、視線を下ろす。見ると、ぎゅっとノートの角を握る手に力が入っていた。
 その握り方が、あの放課後の恋仲と同じに見え、思わず声を飲み込む。俺の声、大きすぎたかもしれない。

 友達になってくれるなら許す。あの言葉は、恋仲にとってきっと、すごく勇気のいる言葉だった。自分より他人を優先して、俺を苦しませない優しさを選んだのかもしれない。だとしたら、俺はまた勝手に喜んで、調子に乗って近づいて……それでいいのか? 恋仲の気持ちを、ちゃんと考えなきゃいけないのに。

「ご、ごめん。体調悪いのに、えっと……無理させちゃってるよな」

 口ごもる俺。テーブルの上に置いていた手の甲にとん、とノートの感触がする。ううん、と小さく首を振る恋仲。もう一度、ううん、とゆっくりと首を左右にひねる。

『線はまっすぐ、引いてくれるとうれしいです』

 その言葉に胸も顔も更に熱くなるのを感じた。恋仲に受け入れてもらえた気がして、顔が自然にだらしないくらいに緩む。

「あぁっ、ごめん! 定規なくて! ……ははっ」

 そんなのは杞憂だ。ただ、ちょっと怖いだけだ。変に受けるな。きっと俺と同じ気持ちのはず。もっと喋りたい、けど、どうやったらいいのかな、って距離感を計っているだけなんだ。

 ──きっと俺と同じで、友達ってやつに慣れてないだけなんだ。

 そこから他愛のない話をした。友達の話、バズっているクマの動画を見せると、ベッドにあるぬいぐるみだよ、と教えてくれて盛り上がる。
 またと別れる際、目を細めながら小さく手を振る恋仲の姿に見とれてしまった。儚げな印象も受けたが、それは俺が病弱だと思っているからそう見えたのだろう。日は暮れ、あたりは暗くなってきたけど、俺の視界はいつにもなく良好だった。

 明日も、これからも恋仲と喋りたい。もっと恋仲のことを知りたいなって、ずっと考えながら帰る。あの日は最低で最悪でクソな俺だったけど、今は反省してる。後先をろくに考えず、今が楽しければいいって適当に生きてきた俺を少しでも変えていきたい。
 俺。変われるかな? うん……、きっと変われるはずだ!

 * * *

 そう思って、今日も一日が始まる。靴を履き替える為、靴箱を開ける。靴箱の取手に手をかけた瞬間、わずかに引っかかるような違和感があった。半開きになっているような、普段使っている俺にしかわからない違和感。誰かが触ったような痕跡がある。
 ……気のせいか? 
 ひらり、と何かが落ちた。メモか何か、紙切れのようだ。後を追うように目が動いていく。

≪ゴロシ≫
 そう読めた。

 ……ゴロシ? 違う、まだ何か書いてある。

 目を凝らそうとすると、それ以上見るなと、内側の俺が頭痛を伴って視界を赤くした。なぜか体が拒否反応を起こしている。なんだ、こんな紙き、れ……。

≪ヒトゴロシ≫

 その太く乱雑に書かれた文字を見た瞬間。視界が大きく歪み、色んな景色が矢継ぎ早に再生され、そして目まぐるしく暗転する。世界が端からじわじわと赤く染まっていく。文字を認識した瞬間、目玉の奥に力を込めていた。脳が拒絶しているのに、どうしても目だけは離せなかった。

 ……奥歯が、ガチガチと震えている。
 その音だけが、遠くの方で鳴っていた。