この世界に、声がなくても

 こんなに強い雨なのに。ふわり、と雨粒の隙間を縫うように、かすかな香りが鼻の中に広がる。俺は顔を上げた。体はもう雨に打たれることはなくなっていた。俺を責め続けていた声もどこかへ消えていた。
 ただ、新しく別の音が聞こえていた。
 それは、胸の奥に染み入るような潤いに満ちた音だった。

「……」

 濡れたスニーカーと、肌に張り付いた紺色のロングスカート。白いブラウスが息遣いに合わせて静かに上下している。差し出されている細い腕を辿ると、俺のビニール傘が見えた。俺が濡れないよう、わずかに傾けられた傘の向こうに――恋仲が立っていた。
 自分の傘も持っているのに、俺に差す傘を優先していた。そのせいで、彼女の肩と髪はゆっくりと濡れていく。小さな顔から雫が一筋、曲線を描くように滴り落ちた。恋仲から無言で傘を受け取る。すれ違うように、恋仲は自分の傘を差した。

 俺はというと、力加減を間違えてしまい、後ろに傘を逸らしすぎて再び雨に当たるという恥ずかしいことが起きていた。恋仲が微笑んだような気がする。安心しているような、そんな柔らかい眼差しを感じた。僅かな視線の交錯の後、俺は慌てて立ち上がる。

「……あ、ごめっ、ありがとう!」

 言葉には出してみたけど、きっと早口で震えていたと思う。恋仲からの言葉はない。こくりとだけ小さく頷いた。そして、羽織っていたカーディガンのポケットからスマホを取り出すと、俺の顔の前に画面をそっと見せた。

『風邪ひいちゃいます。よかったら家で着替えてください。ついてきてください』

 あらかじめ入力していたのかもしれない。読み終えると、タイミングよくスマホをポケットに戻す。恋仲は、水たまりを避けるように道を選び、家に向かって歩き出した。一歩、二歩、ぴょん、三歩。後ろを振り返り俺を見る。腰のあたりで、小さく控えめに手招きする恋仲。そのささやかな動きに、呼ばれるようにしてあれだけ重かった足が前に軽々と出た。

 彼女の家の中に案内されるのはこれが初めてだった。玄関にいた兄が、俺を見るなり明らかに攻撃的な目つきで顔をしかめたが、恋仲に制されると何も言わず家の奥へと姿を消した。背が高い玄関をくぐるように抜けると、もう別世界に降りた感覚になる。木の匂いと、長い廊下。少し薄暗い照明も、白い壁も、太い柱も、全てが新鮮だった。
 風呂場の前で手渡されたのは、バスタオルと男物の服。Tシャツとジャージのズボンだ。明らかにサイズが大きい。きっと兄のものだろう。洗濯されたばかりの服なのに、袖を通すのにはほんの少しだけ勇気が必要だった。

 * * *

 着替えを済ませた俺が通されたのは、リビングではなかった。さらに奥にある一室に案内される。恋仲の後ろにつき、綺麗に掃除された廊下を歩く。時折軋んだ音を立てる床だが、スリッパ越しにも関わらず、歩くだけで柔らかく感じ、滑らかさが気持ちよかった。
 そうして案内されたのは、恋仲の部屋だった。壁際に慎ましく配置されたシンプルな色合いの机と本棚があって、角の一角、白いフレームのコルクボードには、ポストカードや写真がいくつか貼られていた。パッと見た限り景色の写真が多い。ベッドの上には、間の抜けたおでこが光っているクマのぬいぐるみが一匹座っていた。 
     
 恋仲の部屋は、包み込まれるような優しい匂いで満ちていた。琴音の部屋と比べるなんて、変な話だし失礼だとも思う。だけど、同じ女の子の部屋なのに全然空気が違う。不思議な感覚だ。呼吸するだけで心ごと洗われる、そんな気分になる。
 丸いガラスのテーブルの上には、湯気が立つ二つのマグカップが置いてある。それと、恋仲のノートとスマホが平行に揃えられていた。

 恋仲も着替えていた。淡いグレーのパーカー。長めの袖が手の甲まで隠している。下はベージュのゆったりしたズボンを履いていた。それでも彼女の線の細さがわかる。顔色は良さそうには見えなかったが、背筋を伸ばす姿勢と、凛とした表情は具合が悪そうには見えない。俺に気を遣わせないようにしているのだとしたら申し訳なさで委縮してしまいそうになる。

 すっと彼女の腕が伸び、テーブルの前にあるピンク色のクッションを差す。座れということなのだろう。指し示された通り正座する。向かい合わせで恋仲も座ると、スマホを俺に見せた。

『ココア。冷めないうちに。よかったら、どうぞ』
「あっ、うん! ありがとう……、えっと、いただきます!」

 さっきからありがとうしか言ってない気がする。ココアを一口飲むと、ほどよい温かさと口の中に広がる甘さで体の内側がじんと熱を持つ。
 じろじろ観察していないですぐに本題に入るべきなのだろうが、恋仲の自室に二人きりという状況に想像以上に緊張してしまい、身が引き締まって硬くなる一方だった。手汗は凄いことになってるし、ココアだけがどんどん減っていき飲み干しそうだった。
 空になったマグカップを悟られないように、飲み続ける振りをしながら、騒がしい心臓を押さえつける。ノートとペンが擦れる音がする。恋仲がノートを開き、ペンを走らせていた。ちらちらと俺の頭を見ている。

『すっきりしたんですね。似合ってます』
「あ……あはは。そ、そうかな。すぐ乾くから楽だよ……」

 嘘でも似合ってると言われると、そういうつもりじゃなかったけれど照れくさくなる。

『ノート、ありがとうございます。すごくうれしかったです』
「あ、いや、うん……」

 情けない。用があるのは俺なのに、恋仲からばかり言葉を掛けられている。公園だって来なくてもよかったはずだ。放っておいてもよかったはずなのに、わざわざ外に出てくれて、自分が濡れるのも気にしないで傘を差してくれた。

『ごめんなさい。せっかく来てくれていたのに体調がよくなくて』
 次のページがめくられる。

『寒くないですか? エアコンの温度上げますか?』
 次のページ。

『おかわり、いりますか? たくさんありますよ』

 ……ありがとう。ごめんなさい。平気? 大丈夫?
 俺に掛ける言葉なんかじゃない。俺は恋仲にどこまで言わせ続ける気だ。
 恋仲は、俺が喋りやすくする為に、気遣う文字の言葉と、落ち着いた目線で投げかけている。いつでも俺から喋りかけていいんだと態度で示してくれている。心の中でさえ、うまく発音できない。思い浮かべただけで胸が圧迫されたように苦しくなる。
 ここで言わなかったら一生後悔したままだ。まさか、この期に及んで、気にしないでくださいだとか、許しますなんて、恋仲から言ってくれるのを待つつもりなのか?

 カン、とマグカップを普通に置いたつもりだったが、予想以上に大きな音になった。びくっと、恋仲の肩が震える。俺は、何を恋仲に言わせているんだよ!

「恋仲! 謝るのは俺の方だ!」

 目を合わすことはできなかったけど、意を決し俺は言葉を連ねていく。声量なんて気にしてられなかった。

「お礼なんて言ってもらう資格なんてない! 本当にごめん、ごめんなさい! あのときは、罰ゲームで誰かに告白しろって、それで俺っ! 考えもなしに恋仲を選んじゃって、あのっ、挙句の果てに……、引き留めるために声が好きだなんて……」

 一度吐き出してしまえば、滝のように言葉は口から溢れ出てきた。溜め込んだ気持ちが変な日本語になろうとも、次から次へと感情が声になってせり上がってくる。

「恋仲の気持ちを考えてなかった! どんだけ傷つけちゃったか、俺はっ! 何も……考えてなくて……、自己満とか、本当に救いようのないバカで俺は……いや違う、そうじゃなくて、そうじゃない……。うっ、学校にも来づらくさせて……。俺のせいで! こんなことになってしまって……ううっ」

 苦しい。息ができない。目の奥から熱いものが込み上げてくる。

「あの……、ほんとに……。本当に、ご、ごめんなさい。許して……ください……」

 涙が溢れてきて止まらない。嗚咽が混ざった声になる。恋仲の優しさが辛すぎて、自分が情けなさすぎて。洪水のような感情が止まらない。

 鼻水をすすりながら立ち上がる。恋仲に向かって頭を下げる。みっともない顔をしてるのはわかっている。

「ごめんなさい……!」

 頭を下げたまま、何度もごめんなさいと繰り返す。
 あとは……。あとはどうしたら気持ちを伝えることができるだろうか。恋仲へ届けることができるだろうか。

 とんとん。

 ほんの軽く、小さな力で肩が叩かれた。色んなものが混ざった液体を飲み干して、恋仲の方を見た。顔ではなく、ノートに書かれた文字が真っ先に目に入って来た。

『だめです。許しません』

 ――その瞬間、心臓が鷲掴みされ、息が止まった。

 せき止められた血流が戻るまでの時間が一生分の長さに思えた。恋仲の顔はノートで見えない。たまらず膝から崩れそうになる。
 は……、はは……。そりゃそうだ。当然だ。何を期待していたんだ俺は。

『許しません』

 この言葉が全てを語っている。恋仲に与えてしまった傷は、俺のこんな謝罪程度で消えるわけがない。表面だけじゃない。恋仲の心の中にも、傷をつけてしまったんだ。いくら謝ろうとも……、届かない。
 いや、最初から届くはずなんてなかった。それほどの取り返しのつかない深い傷を負わせてしまったんだ。俺が泣いて叫んで謝ったところで結局は――

 くるり。と、ノートが反転する。動揺する気持ちとは別に目はその動きを追っていた。

『じょうだんです。お返しです』

 恋仲の顔がノートの横から飛び出す。その表情は和らいでいて、優しく微笑んでいた。

「は……は……」

 今度こそ崩れ落ちた。
 それに合わせて恋仲も膝を曲げ、ノートに文字を書き込んで俺に見せる。

『許してほしいですか?』

 血管が脈打つように血を流し始める、全身からどくん、と大きな音が聞こえる。それは文字通り、全身が心臓になったような感じだった。

「う、うん……! その、許してくれるのか……」

 うーん、と考える仕草をして再びノートに文字を起こす。

『それじゃ、お友達になってくれたら許します。どうですか?』

 金槌で殴られた気分だ。恋仲は、俺よりずっと前を歩いていた。
 ごめんなさい、ありがとう、そんなんじゃなかった。思い知らされる。雨が打たれただけで立ち止まってしまうちっぽけな俺なんかより、ずっと恋仲は大人だった。

 許す、許さないなんかじゃないんだ。彼女が示したのは、最初の地点に戻るための提案だった。
 恋仲の顔が歪んで見えない。目を擦ると改めて泣いていることに気付いて熱い息が漏れる。

 俺は今日の事を一生忘れない。

 何度も頷きながら、ぽろぽろと、どんどん涙が溢れてくる。
 それを見て恋仲がまた小さく微笑んだ。
 決意とか、ノートとか、打算とか。そんなんじゃないんだ。

 友達になって、やりなおそう?

 ――ただ、それだけのことだった。