この世界に、声がなくても

 湿気を閉じ込める灰色の空が広がっていた。その向こうには僅かな晴れ間が見えたので、この街だけ他の世界と隔離されているみたいだった。吸い込む空気も、肌に張り付くシャツも何もかも気持ちが悪い。
 俺は昨日と同じ時間に、校門の前に立っている。イヤホンもしない、スマホを見るのも封印だ。校門を通る生徒たちの顔をチェックし、視線が泳がないように意識しつつ、近づいてくる人影にも気を配る。
 朝早く登校し、教室に居ないことを確認したら校門で待つ。それが今のルーティンだ。目的は恋仲を見つけること。教室より学校に入る前の恋仲と会えるのが望ましい。教室の中ではどうしても目立ってしまう。

「……来ないな」

 ざらりとする後頭部を擦る。二、三回繰り返すと心なしか落ち着く。今日も来る気配がない。恋仲の席の近くにいる女子に聞いた話だと、普段から休みが多いみたいだった。

「どんな子なのかって気になるじゃん? だから聞いてみたんだけど。体弱いんだって。ノートに書いて返事くれたの覚えてるよ。やっぱり話すの面倒だから、それきり話してないけど。なになに、あの子のこと気にしてるの? それってやっぱり――」

 別の興味を持たれ、質問攻めに合いそうだったので話を切り上げた。他の誰かに聞こうにも、あの『動画』のことに触れられてしまうのは当然だろう。
 周りを見回したり、背伸びをして歩道の向こうを眺めたりする。今日は来るかもしれないって、どこかで期待している。通りすがりの女子グループが俺を見て小さく笑った。スマホのシャッター音が鳴った気がして移動する。
 坊主にした次の日は、三国を中心にクラス中に笑われながら写真を撮られた。それには何も言わず受け入れた。まあ、俺だって自分を見て笑ったし覚悟はしていた。動画のときもそうだったけど、実際にやられるとこんな気分になるんだな。二割ノリ、八割悪意でからかわれるのって、思ったよりきつかった。

「善吉よぉ、お前最近なにしてんの?」

 と、登校してきた三国たちが絡んでくる。愛想笑いでごまかす俺。お互いに距離が離れてしまっているように感じる。つまらなそうに、言葉もすれ違わないまま、三国たちは去っていった。
 校門脇には、日替わりで見回りの先生が巡回している。門衛の存在にも初めて気づいた。たまに目が合う。始業前には戻るので特に何も言われることはなかったが、ただ面倒なので常に距離は離すようにしている。しばらくすると背中で予鈴がなる。……戻る時間だ。

「ふう……」

 肺の奥に溜まった緊張感が抜ける。戻ろうとすると、真横を猛スピードで自転車が横切っていく。もう覚えていた。昨日もギリギリの時間に全速力で登校してきた女子だ。下着が見えていても、おかまいなしに立ちこぎなんてするから忘れたくても忘れられなくなった。それに、なぜか俺の視界を通っている気がする。

 * * *

 インターホンの音が、静かな住宅街に吸い込まれていく。少し間をおいて、引き戸が開いた。

「……あら善吉君。また来てくれたのね」

 優しげな声と一緒に出てきたのは、恋仲の母親だった。この人の笑顔は、どこか困ったように見える。それは今日も変わらない。

「すみません……あの」
「ごめんなさいね。あの子、まだ体調がすぐれないみたいで、今は寝ているの」

 どこか遠回しな言い方をする。言い方は丁寧だけど、何か含んでいるような。まあ、別に俺がどうこういうことでもないけど。

「あ、いえ! これ……今日の分のノートです。よかったら」
「ふふ、いつもありがとう」

 俺は今日一日分の授業のノートを手渡す。そしてすぐに頭を下げその場を後にする。誰かに見せるためのノートなんて書いたのは初めてだ。黒板の文字を書き写しただけだけど。それでも、何か俺が出来ることって考えたら、恋仲の家まで持っていくことだった。
 恋仲は本当に具合が悪いようだった。ずっと寝込んでしまっているらしい。無理をさせたくないという遠慮の中、それでも自分の足が勝手に向かっていることに、少し戸惑いを覚える。
 だから、ここでは会う目的で来ていないと意識するようにしている。いや、ほんの少し、もしかしてとは思っている。毎日押しかけられるのは、ウザい行動だっていうのは捨て置いて。

 * * *

 次の日の朝。予鈴が鳴ると全速力女子が横切る。下着見えてますけど、と心の中で声を掛け教室に戻る。授業中は、出来るだけ綺麗な字を心がけてノートに書き込んでいく。そしてまた放課後になれば恋仲の家へ向かう。これ、ストーカーになってないか? 大丈夫だよな?

 インターホンを鳴らすと、出て来たのは恋仲の兄だった。敵意丸出しの鋭い眼光が深く突き刺さる。地面にくし刺しにされ動けなくなる前にノートだけ置く。もう一礼も中途半端に、ダッシュで逃げた。最初の出会いが最悪だったせいで、どうにも恋仲の兄には苦手意識がある。嫌悪感丸出しの目つきは、まるで虫でも見ているようだった。

 * * *

 そんな繰り返しが一週間続いた。土日は遊びに行く気もせず、琴音と家でゲームしたり、琴音と仲が良い友達の話を聞いたりして過ごした。俺に気を遣ってくれていたのか、ずっと家にいた。
 週明けの月曜。俺の朝は早い。いつものように校門で恋仲を待っている。ずっと天気は曇り空で、今日は小雨がパラついていたので、透明のビニール傘を広げ待機している。

「あのさ。そんなにうちのパンツ見たいわけ?」

 予鈴が鳴るより早く、背中から声が聞こえた。

「今日は何色だと思う? 気になるでしょ?」
「……はい?」
「へへっ、雨降ってるし、チャリで来るわけないじゃん。期待して待ってた?」

 振り返ると、小雨なんて気にせず、傘も差さずに立っている女子がいた。少し日焼けした肌に短いスカート。茶髪の跳ねた髪に、どこか馴染みのある人懐っこそうな雰囲気はギャルっぽい。

 誰? と思うのは一瞬で、すぐに誰か思い出す。もう覚えてしまっているのだから仕方ない。

「どうしてもって言うなら、ちょっとだけ見せてあげよっか?」

 顔を下げ、挑発するように上目遣いで見てきた。立ちこぎ姿が脳内再生されてしまった。

「お前なんか待ってねぇし! べっ、別に見てねぇし!」

 思い出してしまっているのがバレているのか、にやりと煽るような顔で見られる。急に恥ずかしくなり、その日はそのまま走って教室に戻った。

 * * *

 放課後、しぶとい雨は降り続けており、俺はバスを経由していつものように恋仲の家へ向かう。もう慣れたもんだ。そう思った自分がキモい。そして信じられないことに、あの茶髪の女子も同じバスに乗っていた。こっちを見ては笑ったり視線でからかってくる。気になってチラチラ見てしまう俺も俺だ。話しかけてくることはなく、途中で降りて行ったときは、本当に気が抜けた。

 恋仲の家を視界に入れながら歩いていく。雨空だからか気分も一層重くなる。気分を入れ替えようとしても、明るい話題なんかもなく、三国たちとの馬鹿騒ぎを思い出しても、そのときの俺がどんな顔をしていたのかを考えてしまって、紛らわすことはできなかった。

 雨空そのもののような、どんよりとしたオーラを放つ兄が出てくると、尚更気が滅入った。
 俺を見据える視線はやっぱり冷たく、当然歓迎なんてされない。門前払いされないだけマシなのだろうけど。俺の今の気持ちを説明するべきなのはわかっていたが、どうにも話しかける勇気がなかった。殴られる恐怖はない。喋ることで拒否されてしまう恐怖が余計に尻込みさせた。
 兄のがっちりとした体は不気味なくらい威圧感があった。ノートを渡し、頭を下げ早々に立ち去る。

「恋仲……。大丈夫なのかな」

 距離が離れた公園で振り返り、恋仲宅の方を見る。他の家と趣きというか、存在感そのものが違う。離れていても見えるくらい恋仲の家は大きくて、周りの高い塀に囲まれて屋敷のようだ。ちょうどいい位置に一息つける公園があって、俺は今その中心に立っている。公園と言っても、小さな滑り台一つに、ベンチが一つ。申し訳程度に植木がある小さなものだ。

 ぽつぽつと、肌に冷たい感触が当たる。傘をさそうとするが手元になかった。恋仲の兄の圧力に負けて、玄関の前に置いてきたままだった。取りに行こうと思ったけど、意に反して足は動かなかった。

 あれから一週間、か……。
 きっと役に立つんじゃないかって思って始めたけど、受け取っているのかもわからない。別にそれは恋仲の意思だからノートをどうしようと自由だ。俺だって、恩を売るためじゃない。けど……。
 雨は勢いを増してきてあっという間に土砂降りになる。雨宿りをする間もなく、びしょ濡れになった。体に打ち付ける強い雨の感触と雨音が、俺を問いただしているように感じた。
 バチバチと、顔に当たる感触に混ざり、耳に入り込んできた雨粒が意思を持って、語りかけてきた。

(お前の汚いノート、持ってこられても処分に困るんだけど?)
(ただの自己満足の延長線じゃないの?)

 それは男の声でもあったし、女の声でもあった。早送りにも巻き戻しのような声にも聞こえてくる。

「……そうだとしても、やるって決めた」

 誰に向かって言うでもなく、自分の決意を確かめるように呟いた。
 俺の決意を笑うように雨が強くなる。容赦のない雨音が、俺の意思を揺らそうと、全方向から責め続けてくる。
 その勢いに押されるがまま、俺はベンチに腰を下ろす。両手で顔から頭まで水滴をかき上げても、同じくらい顔が濡れ意味がなかった。

(都合よく進むと思ってた?)
(自分が変われば世界も変わる、って?)
(そういうの、なんて言うか知ってる?)

 頭に直接囁かれているようだった。耳を塞いでも聞こえてくる。

「言うなよ……言うな。わかってる……」
(教えてあげようか、そういうの)
「うるさい。黙ってろ」
(――って言うんだよ?)
「わかってんだよ! そんなこと!」

 叫び声は虚しく掻き消されるだけだった。雨音にすら負ける俺の力の無い声。このままだと、いやな感情に流されてしまう。

(もう、頑張った。そういった何かが欲しいだけだろう?)
(せっかく毎日来てやっているのに、出てこないあいつが悪い)

 ここで納得しとけばいい。やれるだけはやった。もう十分だ。非難が誘惑に変わる。甘い囁きに、心が揺れてしまう。
 うるさい……うるさい!
 叫んでも何も届かない無力感に、押し潰されそうになる。

「俺は、俺のためにやってるんじゃない!」

 そう声を張り上げた瞬間、

 ――世界から忽然と音が消え、聞こえるはずのない音が一つだけ残った。

 そこには最初から何もなかったかのように、音も、感覚も、シャツの気持ち悪さも、なにもかもが消失した。顔を伝い、垂れ落ちた雨粒が一つ。水溜まりに沈むと、輪になって広がった。返せてないハンドタオルと同じ香りが漂い、鼻先を撫でる。

 ほんの一瞬の後――身震いするような轟音が身体を上から下に貫いた。
 そこで現実に引き戻された。濡れた体の感覚も、靴下の気持ち悪さも引き連れて戻ってくる。雨音が頭上で弾けている。体を打ち付ける音ではない、別の何かを叩く音だ。

 これは……傘?
 感覚は戻ってきたけれど、雨の匂いだけはなぜか戻ってこなかった。その優しい香りだけが、夢と現実の間で残っていた。