この世界に、声がなくても

「……っ」

 パチンと外れそうになっていた洗濯バサミが弾けた音で、俺の呼吸は再開した。
 たぶん、彼女もそうだったのだと思う。息を吸い込むように目をパチパチさせた後、洗濯カゴを持ち上げながら立ち上がる。途中で横に倒れそうになるが、片足で耐え一息ついた。そして大きな瞳で俺を見る。

 水色のカーディガンに白のブラウス。ブラウスの袖はめくられて、白く細い両腕があらわになっている。足首が見えるジーンズ、少し子供みたいな柄の靴下に、つっかけのようなサンダルを履いていた。長い黒髪は、彼女の動作に合わせて揺れ、片方の耳が見えていた。
 呼吸は再開できたが、彼女の私服姿に、瞼はまだ閉じることを忘れていた。彼女の一挙一動を見つめていた。口は動かないくせに、目だけは彼女を懸命に追っている。

「あ、こ、こいな、か……恋仲! 俺!」

 やっとの思いで出た声は、情けないほど裏返っていて頼りなかった。その声に反応したのか小さく肩を上げる。洗濯カゴを抱きしめながら、彼女の瞳だけが揺れている。彼女の視線は、兄、俺と何度も目まぐるしく動いている。
 俺の前にぬっと大きな影が現れる。兄と名乗る男が通り過ぎ、大きな扉の前に鎮座する。彼女は顔を伏せながら、パタパタと小さな歩幅でその男の背の後に潜り込んだ。その足取りはどこか不器用で、でも本気で俺から逃げているのがわかった。

 待って──。

 声が喉で引っかかって出ない。せっかく冷静になってきたところだったのに、これは想像していなかった。どう反応したらいいかパニクっている。やるべきことは決めたはずだ、わかっているはずなのに動けない。
 男は、彼女だけに聞こえるように顔を向け何かを囁いた。すると彼女は、洗濯カゴを置き、洗濯物の中に紛れていたスマホを取り出す。何かを打ち込むと、その画面を見ていた兄は鋭い目つきで俺を睨んだ。眉根が上がり、俺を断罪しているような、そんな目つきだった。

「何の用だ」
「……えっ?」

 男の声に反射的に聞き返してしまう。男の後ろに隠れている彼女は、少し目線を上げ、俺を覗き見ている。

「何の用だ、と聞いている」

 男は続ける。それって、スマホの内容、彼女の言葉を代弁しているのか?
 職員室とか、いや、職員室前の廊下で俺は説明した。お前はわかっているだろ、代わりに伝えろよと、及び腰の俺が反論する。

「え、えっと……」

 うまく話せない自分がもどかしい。俺はスマホを取り出し、適当なメモアプリを起動していた。何をしている俺は。馬鹿か? 俺がアプリを使ってどうすんだよ。喋るんだよ、俺は。自分の行動が理解できない。

「妹は聞こえる」短く男が言う。「今、何をしようとした? 誰かに連絡するのか?」
「ああっ、その……」

 言い淀む返事しかできない。衝動的に逃走したい気持ちが体に「帰ろう」と急かしてくる。そんな気持ちを飲み込み、無理やり奥へ押し込めていく。
 落ち着け。少しだけでもいいから、落ち着いてくれ。これは俺が望んでいた状況だ、予定とは違うけど、このチャンスを逃しちゃいけない。兄は異物だが、目の前に彼女がいる。直接会えている。今言わないで何が決意だ?

 謝れよ。
 謝ってスッキリして、何もなかったことにして、一昨日の自分に戻るんだろ?
 今度は三国に罰ゲームやらせて、誰かに告白させて、それを動画に撮ってネットに上げて笑う。お返しだって言いながらいじり倒して、馬鹿みたいに騒ぐ日々に戻るつもりだったんだろ。
 俺の表情、言いづらそうにしている仕草や沈黙が、謝罪したい雰囲気を出しているから、もう謝ったことにしてくれ、空気を読んでくれと、訴えているみたいで一向に動けない自分に、我ながら吐き気がした。

 見かねたのだろう、彼女は玄関の引き戸を開け、洗濯カゴを持ち直して中へ入ろうとする。行ってしまう。それは駄目だ。まだ何も、始まってない。
 俺は自分の腹に拳を叩きつけて、無理やり言葉をねじ込むように腹から声を上げた。

「恋仲! ごめん! あれは……、あれは冗談だったんだ!」

 本当は声が好きとか、そんなこと思ってないから。
 ただ引き留めたかっただけだから。
 あと、好きとかでもないからさ、忘れてくれない?
 悪いけど、なかったことにしてくんない? 俺も忘れるからさ。

 ──本物のバカだな、お前は。

 ごめんと振り絞ったその先に立っているのは、自己満足して勝手に安堵している俺の姿だった。早く楽になりたくて、スッキリしたかっただけの自分が胸を撫でおろしている。そこに彼女の意思とか、どう感じたとか、彼女を気遣う考慮は一切なかった。
 ぐい、と胸ぐらを掴まれる。急に襟が捻り上げられて息が詰まる。ゆっくりと体がつま先立ちになって、地面から離れていく。

「冗談? お前が言いたかった事はそれか? 反吐が出る」

 低く押し殺した男の声。その目は氷のように冷え切っていて、針のように鋭利で、俺の顔を躊躇なく突き刺していく。肩に力が込められ、顔の距離が近づくにつれ、身も心も凍りついてしまいそうだった。

 そんな俺の全てを見通したかのように凝視する兄の表情は、ことごとく俺の本性を晒し、丸裸にしていく。
 俺の返答を待っている。次の言葉はよく選べよ、と、更に襟元に力が入り呼吸がままならない。苦しい。喋る以前に、息ができない。
 
「は、は……。ははは」

 拳が顔面に飛んできた。そして吹き飛んだと思う。殴られたとすぐに理解する。視界が赤くなり、全身が揺れる。真っ白な閃光で目が眩む。衝撃とか痛みとか。そんなことよりも、──俺は、今、笑ったのか?

「二度と妹に近づくな」

 地面に膝をつき、息を吸うたびに、じんじんと顔に痺れが帯びてくる。痛みも遅れてやってきた。

「お前は何様だ? 自分が特別だとでも思っているのか? 勘違いするなよ。お前は、どこにでもいる、低俗な自己欺瞞で生きているだけのただの、塊だ」

 言葉を区切り、蔑むように唾棄される。「くそ」と思うも、あまりに惨め過ぎて喉の手前で消えて無くなる。代わりに歯を食いしばっていると、少しずつ眩しさがなくなり、視界が元に戻ってきた。
 ぼんやりと二人が家の中に入って行く姿が見える。ガシャンと勢いよく締められた引き戸の音が耳鳴りのように響いた。俺は座り込んで地面を見つめていた。
 これ、あざになるやつじゃん。などと、冷静に自分を分析しているのは、そうしないとさっきの兄の言葉に押し潰されて、本当に消えてしまいそうだったからだ。

「何やってんだ、俺」

 座り込んでいても、迷惑だろうし、西日に照らされて熱くなるだけだったので、立ち上がろうとするが、思ったより足に力が入らない。もう一度座って息を整える。ジメジメとした空気も俺をからかっているようで鬱陶しい。
 カラカラと、引き戸が開く音がした。直後、ふわりと僅かに甘い香りが鼻先を掠めた。

「……」

 俺の手に柔らかい感触が残る。視線を落とすと、白いハンドタオルが置かれていた。堪らず顔を上げると、恋仲がしゃがんで俺の顔を見つめていた。俺と同じくらいの目線に、彼女の顔があった。俺の目に見えるように、細い人差し指で下を差す。手元に置かれたハンドタオルを示しているようだ。

『これ、使ってください。血が出ています。兄がごめんなさい』

 今度はスマホを取り出し、テキスト文が書かれている画面を見せる。スマホの横から覗くように小首を傾げた。白い肌の上に浮かぶ小ぶりな鼻と、大きな瞳に釘付けになる。小舟のように曲線を描く口元は、微笑んでいるように見えた。
 そこに救いがある気がした。そうであって欲しいと縋る自分がいた。指先が、タオルの感触にひくひくと反応する。助けを求めているように蠢いて痙攣しているようだった。

 ハンドタオルを握ると頷いて、俺を立たせようと手を差し伸べた。咄嗟に痛みも忘れ、俺は自力で立ち上がる。こういうプライドだけはあるんだなって笑いたくなる。
 しばらく俺の顔を見ていたが、彼女は音も立てずに足早に家の中に入っていった。

「……ごめん」

 俺だけが残った玄関の前、引き留めようとした手をおろす。掴もうだなんて。するつもりもないくせに。
 自分が許されればそれで終わると、そう思っていた結果がこれだ。

 たとえ許されたとしても、彼女の痛みは消えるのか? 俺を許すことで、彼女もまた癒えるとでも?
 ……そんなわけがない。

 彼女の優しい残り香は、落ちる陽よりも早く、瞬く間に風にさらわれるように消えていった。