この世界に、声がなくても

 そよ風が恋仲の黒髪を撫でる。
 俺の隣を歩く恋仲は、柔らかな春の日差しを受けて、淡く煌めいて見えた。
 からかったこと、後悔したこと、謝ったこと、それでもうまく進めなかったこと。
 母と重ねてしまっていたこと、俺の前に立ってくれたこと、笑顔の返事。
 これまでの記憶が、淡い色を伴ってフィルムのように流れていく。
 その中央にいるのは恋仲。くすぐったそうに風を全身に浴びて、目を細めている。

――恋仲が好きだ。どうしようもないくらい。

 俺は恋仲に救われた。どこへ進めばいいのかもわからなかった俺が、もう一度、自分で道を選ぼうと思えた。
 恋仲と出会えてよかったと心から思っている。
 隣で一緒に歩いてくれる誰かがいるだけで、こんなにも勇気が湧いてくる。

 自分だけが苦しいんじゃない。
 他人からは見えないだけで、誰にだって抱えているものがある。
 琴音にも、斎にも、父さんにも、凪にも、三国にも。恋仲にも。
 俺はそれを、自分の痛みだけで測っていた。
 これから先、そんな誰かに出会ったとき、もう見ないふりはしたくない。
 その人の声はちゃんと聞けるようになりたい。

 恋仲が話したくないことを、俺から無理に聞くつもりはない。
 俺にも、まだ言葉にできないことがある。いつか話したいと思ったときに話せばいい。恋仲だって同じだ。
 そのときは、きっと俺たちは逃げずに真正面から受け止められる。

「恋仲」

 数歩先に進んだ恋仲の足が止まる。
 不意に話しかけられ、振り返った恋仲が小首を傾げた。

「あの……さ、俺のどこが好きなの?」

 この日差しが眩しすぎて、にやけてしまうくらい心がくすぐったかったから、ついこんなことを聞いてみる。
 恋仲は目を丸くして考えたあと、くすりと表情を弛めた。
 バッグからノートを取り出して、何も書かずにその一頁だけをめくって俺に見せた。
 既に文字が書いてある。
 恋仲の文字は、木漏れ日の中で気持ちよさそうに泳いで見えた。

『おでこ』

 そこには可愛らしい文字でそう書いてあった。

「なんだよそれ!」

 二人で笑う。恋仲の笑顔は春の光より弾けている。
 その笑い声は春風に乗って、くるりと空で一回転して、青い空へと吸い込まれていく。
 新しい風が俺たちの背中をそっと押した。
 道は時々大きな壁になって、分岐点にもなって、俺たちの前にまた立ちふさがるだろう。

 伝えることは難しい。
 心の底からわかり合うことなんて、もっと難しい。

 伝えられないから泣くこともある。何かに繋がろうとして、間違えることだってある。

 それでも、自分から道を閉ざしたくはない。
 立ち止まっても、迷っても、また歩けばいい。

 自分ではどうしようもない声だって、いつかきっと誰かの心に届く。

 そう信じている。


――たとえ、この世界に声がなくても。



 (了)