この世界に、声がなくても

 熱がまとわりつく朝だった。冷えた教室に入ると、いつも通りの騒がしさなのはイヤホン越しにも伝わってくる。吸い込まれるみたいに、足が三国たちのもとへ向かう。

 三国たちは教室の隅の席に陣取って、スマホで対戦ゲームをしていた。簡単な挨拶をして輪に入り話に加わる。友人のスマホを覗きながら、視線だけを上げて彼女の姿を探す。ぐるりと見回してから、彼女がどこに座っているかわからないことに気付く。クラスメイトが教室に入るたび、それが彼女なのかを確認する。俺の視線に気付いたのか、三国が椅子を引きずりながら近づいてくる。肩を組んで、スマホの画面を俺に見せた。

「なあ、昨日の動画マジでヤバい。一晩でいいね100! 通知止まんないの、最高」

 目線を動画に向けると、教室の扉の隙間から撮影した俺と、彼女が映っていた。走り去るところまでもカメラを移動させ、ズームしながら追っている動画が流れた。昨日も見たし、朝も見た。乾いた音。戸惑う俺。三国たちのわざとらしく息を呑む声の後の、破裂する笑い声。

「次もこんなネタだそうぜ!」
「いいな! 俺たちのお決まりの挨拶も決めようぜ!」

 調子に乗った友人たちも自分の功績でもあるように興奮し始める。

「……消せよ」
 普段からふざけた動画を撮って、SNSに上げて、反応がなければそれはそれですべったと爆笑する。少しでも反応がよければ、バズったと調子に乗る。

「あ?」

 だから三国のこの反応はいたって普通のことだ。そんなことを口走った俺自身に驚いている。

「消せよ」

 今度は腹の底から声が出た。自分でもなんでこんなにイラついているのか不思議だった。俺の声は静かだったと思う。けれど、クラスのざわめきが急に途絶えたように音を失った。視線を感じる。

「お、おう……まあ、でもよ、こんなにバズることなんてないぞ! これをネタにしてさ、シリーズ化したりしたら、俺らガチで人気でるかもしれないじゃん!」
「消せよ」

 三回目の言葉は三国の目を見て言った。肩を回し、置かれていた腕を払いのける。三国は一瞬たじろぐが、すぐに飄々とした顔に戻って肩をすくめるとスマホをしまった。

「……ちっ。わかったよ、消すって。なんでキレてんだよ、うぜーな」

 三国はもとの席に戻っていく。俺は黙って自分の席についた。
 こんなはずじゃなかった。こんな状況も望んでいない。別に喧嘩をするつもりもないし、今日になったら忘れるだけのどうでもいい出来事のはずだ。
 だけど、「消せよ」と口にしたときだけ、胸の奥に沈んでいた重りが取れたみたいに軽くなった。

 担任が来ると、みんなしぶしぶと席に着いていく。朝の点呼は儀式的に黙々と進められ、何事もなく終わる。先生からは、最後まで恋仲と呼ばれることはなかった。三国のくすりと笑う声が聞こえた。彼女がいないことに誰も興味を持っていない。思えば普段からそうだった。居ても居なくても、どちらでもいい。居たとしても、誰にも気づいてもらえない。
 現に俺は、今になって気にしているだけで、昨日までは出席していようがいまいが気にも留めていなかった。
 休みなのだろうか、遅刻なのだろうか。

 ――俺のせい、なのだろうか。

 ぐっと胸が苦しくなって、机の下でスマホを見て気を紛らわす。とりあえず最初に開くのはSNSだ。通知欄だけを確認して画面を閉じ、グループチャットを開いては閉じる。Webニュース画面に切り替える。さらに別の画面へ。組んだ足のかかとが、せわしなくガタガタと机の脚に当たる。スマホをわざとらしくいじっている自分を俯瞰してしまい胸が痛くなる一方だ。

 もう考えたくないんだよ。さっさと頭の中から出て行ってくれ。
 そう考えれば考えるほど、出口のない迷路を彷徨っているような感じがした。
 結局、彼女が欠席なのかどうかも聞けずじまいのまま時間が過ぎ、昼になっても、午後の授業になっても、彼女をずっと気にしていた。
 午後をどう過ごしたのかもわからないまま、放課後になる。

「善吉、帰ろーぜ」

 三国たちが俺の席に集まってくる。

「そういや恋仲、来てたっけ?」

 わざとらしい声で友人が口を開いた。

「は? 来てねーよ。しばらく来ないんじゃね」

 遠慮もない、ただ心で思ったことをそのまま口にしているのだろうが、嫌味に聞こえてしまう。

「まあなんか善吉、怒ってる感じだし、気晴らししにバッセン行こうぜ」

 三国がそう言うと、「いいね!」と、お互い肩を組み始める。俺も立ち上がり、カバンを肩に掛ける。
 やることは決まっているのに。その一歩を踏み出せないことが凄くもどかしい。
 どうする……。どうしたらいいんだ。
 言い訳がましい言葉を並べるだけで、また答えのないループに陥る。わかっているんだ、俺が悪かったってことくらい。でも、これは罰ゲームなんだ。本意じゃない。だから嫌な気分は今だけだ。罪悪感だって気のせいだ。時間が必要なだけ。
 とりあえず自分を否定してさえいれば、それで自然と許された気分になる。そんなもんだよな、みんなだって、世の中だって。
 ならなんで足が止まる。なんで三国たちに追いつこうとしない。

 ――いちいち喚いてないで行けよ。

 誰かが俺の背中を叩いた気がした。吐き出せなかった感情は、その衝撃で声となって漏れそうになる。躊躇う俺の背中は、しまいには蹴り飛ばされた。何もないのに前につんのめる。

 ――ビビってんなよ! 行け!

「三国、俺、用事あったの思い出したわ」

 前を歩く三国たちが、首だけ回してこっちを見る。

「……ふーん。あっそ。じゃあなー、善吉!」

 三国の言い方は冷たく、引っかかるものを感じた。俺は視線を合わせず、そのまま背を向ける。階段を降りる。向かう先は職員室だ。
 ……謝ろう。ちゃんと。俺の口で。

 職員室に入ると、真っ先に担任の元へ向かった。何回か呼び出されたことがあるので席は覚えている。自分から職員室に行くなんて初めてだ。それに、俺の口からこんなお願いをしようとしているなんて実感が湧かない。
 担任は俺を見ると、パソコンを打つ手を止める。背もたれに重心を預けながら俺を見上げた。

「どうした、蔦森」
 欠伸を堪えているような顔だった。

「あの、すみません。その……、恋仲のことなんですけど。連絡が取れなくて……」

 どうにか絞り出した。今まで避けてきた、『恋仲』という名を口から言うだけで、胸がズキンと痛む。名前を呼ぶと、昨日のことが鮮烈に蘇ってくる。あの、涙目の顔。

「昨日、恋仲にちょっとひどいこと言っちゃって……、もしかしたらそれで休んじゃったのかな、なんて気になって。だから、直接、その、謝りたくて。……住所とか教えてもらえませんか」

 俺の独白に先生は腕を組み、訝しそうに目を細めた。考える素振りを見せてから手で口を隠す。欠伸をしたのがわかった。「ふう」と息を吐いて、大げさに首を横に振った。

「蔦森。それは個人情報だから教えるわけにはいかないんだ。学校に来たときに、ちゃんと謝りなさい」

 当然の返答だった。こんな簡単に人の住所なんてわかってたまるか。わかってたよ。だけど、今の俺には、先生に聞くことしか思いつかなかった。

「どうしても恋仲と話さなきゃいけないんです。お願いします、先生」

 声が震えている。また学校に来た時という言葉に『そっちの方が楽だ』と心が傾く。先生は腕を組み、口を真横に閉じたままだった。何かを言いたげで少し口が開いたがすぐに閉じた。「あのなあ」と指先でもみあげのあたりをボリボリと掻いている。もう一度お願いします、と言いかけたそのときだった。

「恋仲、ですか」

 すぐ近くから聞こえたその声に、俺はハッとして振り返った。そこにいたのは一人の男子生徒だった。制服を着ていたけれど、顔立ちが大人に見え、俺よりも背が高い。ラグビーか格闘技で鍛えているんじゃないかと思うくらい体格がよかった。「ありがとうございました」と、話していた先生に頭を下げると、こっちに近づいてくる。

「恋仲ひな緒は僕の妹ですが。ひな緒のこと、ですか?」

 彼の目が鋭く光ったように見えた。思わず心臓が飛び出しそうになる。
 兄? 俺の口が何かを言う前に、彼はすっと近づいてきた。

「ちょっと外で話そうか。先生、失礼します」

 先生が何か言いかけたが、彼は軽く手を挙げて制した後一礼した。促されている圧力を感じ、俺もしぶしぶ頭を下げる。その後はただついていくしかなかった。職員室を出ると、さっきと同じように謝りたいことを説明していた。威圧感に耐えられなかった。

「ついてこい」

 低く、短いその一言は、有無を言わせない迫力があった。昇降口に出ると、「靴を履き替えろ」と指示される。俺は何も言えずただ従うだけだった。無言のまま並んで歩く。会話は一切ない。空気だけが張り詰めていた。尋常じゃないくらい体が熱い。下校時の騒がしい校門を横切る。……喋ることは禁じられているような、そんな重苦しさで窒息しそうだった。

 バスに乗り見知らぬ場所で降りた。数時間経ったんじゃないかと思うくらい長い時間だった。今も歩いている実感すらない。感覚は学校に置いてきたままだった。閑静な住宅街、その一角、大きく圧倒される門の前で、兄と名乗った男の足が止まる。

「直接、謝るといい」

 俺の背中が押され、拍子で敷居を跨ぐ。『恋仲』と彫られた重々しい表札が視界の端にちらりと見えた。無骨な石畳の地面。その隙間に足が引っかかって躓きそうになる。その咄嗟の反応で少しずつ感覚が戻ってくる。
 ようやく、怒りのような感情が込み上げてくると、男の態度に理不尽なものを感じて余計に腹が立った。何か文句でも言ってやろうかと振り向いて――。

 そのまま時間が止まった。
 俺の体は硬直してしまった。

「……」
「……」

 洗濯物を抱え、庭先でしゃがみ込んだまま動かない人影が見える。教室でノートを差し出した姿と重なる。吸い込む酸素がなくなったみたいに、肺がしぼみ呼吸が止まる。

 ――恋仲が、そこにいた。

 曇天だった空から晴れ間が少し出てきて、俺たちを照らしていく。色彩が戻る。光に当てられた場所だけが鮮やかになっていく。恋仲は制服ではなく、薄手のカーディガンにジーンズ姿だった。細い体がより強調され、目の奥に焼き付くほど鮮明だった。思考ごと止められてしまったようだった。風が吹いて、彼女のおろした長い黒髪が流れ、同じように洗濯物も揺れた。

 どちらも動かない……ただ、目が合い止まっている。
 何も言えなかった。声も出せなかった。
 けれど、ここから何かがきっと始まる。

 ……そんな予感だけが独りでに駆け回っていた。