「ね、綺麗に抱きしめてほしいな」
「えっ、急になに? いいよ、いくらでも抱きしめちゃうよ。ほら、綺麗だよ、凪ちゃん」
「……あは、ありがと」
その夜、いつもの男と会って二人きりになったとき、どうしても再現してみたくて頼んでみた。ぎゅっと体がまさぐられるように抱きしめられる。服が擦れる音と、男の荒い息が耳元を舐めるように音を立てて身の毛がよだつ。
違う。そんなんじゃない。うちは綺麗とか、そんなの求めてない。うちはただ、生きるためにやってるんだ。あんな家を一秒でも早く出て行って一人暮らしするために。
きっと一人で暮らせば自分らしく生きていける。うちはあんな母親になんてならないし、負けないくらい男を手駒にとって、今よりもっといい生活をして、見せつけてやるんだ。そうなんだけど……。んんー、楽しくないし、よくもないな。そもそもなに、綺麗に抱きしめるって。意味不明。
あの後、あの子が動いたからとっさに逃げたけど、絶対放課後にどっかで続きやってるでしょ。声が出ないのに、どうやって興奮するんだろうな。まあ、あんな親の声でも興奮するんだろうし、なんだっていいのかもしれない。それじゃつまんないと思うけどな。うちならこうやって、いくらでも声出せるし――。
ふと、揺れる体が鏡に映る。自分の姿が見えた。
自分が出している声が聞こえてしまった。
え、――誰、こいつ……!
「ううっ!!」
男を突き飛ばしてトイレに駆け込む。便座にしがみ付いて、胃の中のものを全部吐き出した。気持ち悪い笑顔で上下に揺れていて、棒読みの声はまるで……。
一緒だ……。母親と。一緒だ!!
「ううっ――」
そう見えてしまったら吐き気が止まらない。涙を流しながら、みっともない声を出して嗚咽を繰り返す。トイレの向こうから「大丈夫?」と、聞こえるがバカにしているような笑い声が混ざっていた。違う、一緒なんかじゃない。
うちは、うちだ。同じなんかじゃない!
思い浮かぶのは、屋上の踊り場で抱きしめ合っていた二人の姿。
便座に抱きついているのは、うち。
はははっ、あははは。
* * *
ぜんきちの家なんて、金髪の男子に聞けば一発だ。信じたくないけど、ぜんきちのことが気になってる。その感情が何なのか確かめたくて、上手く誘って家に連れていくことができた。簡単だ。ちょっとソレっぽくすればすぐ付いてくる。
ううん、ここは正直に言うけど、家に来てくれたのはちょっと嬉しかった。
うちのことをやっぱり気にしてるんだってその時は思った。
「俺は恋仲が好きだ。お前を見ることはない」
ああ……。
「知ってるか? それは、自分だけが傷つくやり方なんだよ……」
なんて真っすぐな瞳なんだろう。
「……凪」
名前を呼ばれて呼吸が止まった。
すごく静かで、柔らかくて、純粋で、綺麗な声だった。
「名前で呼ばないでよ……。うち、嫌いなんだよね。自分の名前」
ほんとはもっと呼んでほしかった。呼んでもらうたび、何かが吸い込まれて、その場所が綺麗になっていく感じがしたから。
でも、そんなことはみっともなくて言えなかった。
* * *
その夜、ぼーっと過ごしていると母親が一人で帰ってきた。ハイヒールを脱ぎ捨て、冷蔵庫からチューハイを取り出して居間にふんぞり返ってあぐらをかく。顔を見ると、化粧が崩れていた。目元が腫れていて赤いし、涙の跡もついていた。
「また捨てられたの?」
「は? 嘘ばかりつくから、あたしから捨ててやったんだよ」
「あっそ。ボロクソ泣いてるのバレバレだよ」
「ふん。代わりなんていくらでもいるわ。あんたこそ、なんで泣いてるのよ」
「え……?」
自分の目元に触れると、濡れていた。なんで、泣いているんだろう。
「うちも捨てられた。一緒だよ」
実際はちょっと違うけど、自分を切り替えたくてこんなことを言ってみた。
「一緒って。そりゃまあ、母娘だからね。……飲む?」
「うん」
「あーあ、どっかにいい男いないかな。ねえ凪?」
「ねえ凪、じゃないよ。一緒にすんな。……やっぱマズ。これ」
久しぶりに二人で笑った。ほんとにバカみたいで、どこが面白いのか謎だったけど、こんなのも悪くないかなってちょっとだけ思えた。
* * *
その翌日。たまたま早く学校に着いて花に水やりした日、善吉が停学になった。あの金髪の男子をぶん殴ったらしい。動画も回ってきた。ぜんきちの顔をキモいとバカにする声、学校に来るなとコメントは好き放題言われてた。うちは、カッコよく見えたけどな。
その次の日かな、たまたま早く学校に着いたら、あの子が一人で登校していたのを見かけた。今にも消えそうなくらい背中が小さく見えたから声を掛けた。驚いたように大きな目でうちを見ていた。うわ、よく見るとお人形みたいに可愛い顔してんじゃん。
「はい、これ。あげる」
無理やりあの子の手の中に飴を押し込む。すぐにスマホを取り出して、何かを伝えようとしてきたので腕を押さえて止めた。
「別にお喋りしに来たんじゃないよ。ただ、その、ごめん……。そのお詫び。じゃあね、ばいばい!」
まともに顔を見てられなくて逃げちゃった。別に投げ捨ててくれても良かったのに、ぺこってして、鞄にしまうんだもん。
はあ……、なんだこれ。変になっちゃってるな、うち。
これもぜんぶ、ぜんきちのせいだよ。
* * *
『凪ちゃん、今夜も一緒にいたいな』
『ごめんね! 今日はあの日でちょっと具合悪いんだ~。それでもいい?』
『あ、そうなんだ。じゃあまた今度連絡するよ』
スマホを見ると相変わらず溢れかえるお誘いのメッセージ。結局、返ってくるのはこんな感じで、やり目的ばっか。どれにしようかな、なんて選んでたうちだけど、なんかつまんなんなくなっちゃったな。……どうしようかな、これから。
お母さんなんて久々に呼ぶけど、男にフられた腹いせに部屋の大掃除なんて始めちゃって、家の中が倍くらい広くなった。問答無用でうちまで手伝わされてるし。新しい生活だとかなんとか言ってるし。うちも巻き込まないでほしい。普段ほったらかしにするくせに、距離は離れてないと思って、気分でづかづか入ってくるのほんとウザい。
でもお母さんのすっぴんの笑顔。悪くないじゃんなんて思ったりして。よし、決めた。お母さんがそうやって笑うんだったら、うちも負けてられない。それ以上のとびきり可愛い笑顔、できるようになってやる。うちだけ辛気臭い顔してたら、お母さんより先に老けちゃいそうだし。そんなの最悪だ。
次の日の放課後、あの子が心配だったから、後ろでバレないように隠れながら見守ってた。階段から落ちたってのに、健気に学校に来るんだもん。頭おかしいんじゃない? ったく、気になって仕方がない。
一年生かな? 女の子に声を掛けられてた。そうしたら人目を気にしながら一緒に階段を上っていった。
鍵が閉まって入れないはずなのに、屋上の鍵がなぜか開いていて、二人は外に出ていった。
顔を少しだけ出して様子を伺う。扉は開けっ放しだ。あの子と、一年生の子の二人。喋っているけど、ここからじゃよく聞こえない。
「全部ぜんぶ、お前のせいだ!!」
鬼気迫った叫びのように聞こえた瞬間、体が勝手に動いていた。
「恋仲っち!」
名前を呼びながら走ってたら、どん、とお腹に衝撃が走った。
――刺されるってこんな感じなんだ。なんて、笑顔と怒りと嫉妬で、顔がぐちゃぐちゃになってる女の子見ながらそう思った。
全身の力がふっと抜けていって、支える力も出ないまま倒れる。めちゃくちゃ痛いし、いつでも意識は飛びそうだったけど、ぜんきちが来てからは最高に楽しかったから、見届けるまで寝るわけにはいかなかった。
向こうに隠れているもう一人の女のこともやけに気になったし。
「えっ、急になに? いいよ、いくらでも抱きしめちゃうよ。ほら、綺麗だよ、凪ちゃん」
「……あは、ありがと」
その夜、いつもの男と会って二人きりになったとき、どうしても再現してみたくて頼んでみた。ぎゅっと体がまさぐられるように抱きしめられる。服が擦れる音と、男の荒い息が耳元を舐めるように音を立てて身の毛がよだつ。
違う。そんなんじゃない。うちは綺麗とか、そんなの求めてない。うちはただ、生きるためにやってるんだ。あんな家を一秒でも早く出て行って一人暮らしするために。
きっと一人で暮らせば自分らしく生きていける。うちはあんな母親になんてならないし、負けないくらい男を手駒にとって、今よりもっといい生活をして、見せつけてやるんだ。そうなんだけど……。んんー、楽しくないし、よくもないな。そもそもなに、綺麗に抱きしめるって。意味不明。
あの後、あの子が動いたからとっさに逃げたけど、絶対放課後にどっかで続きやってるでしょ。声が出ないのに、どうやって興奮するんだろうな。まあ、あんな親の声でも興奮するんだろうし、なんだっていいのかもしれない。それじゃつまんないと思うけどな。うちならこうやって、いくらでも声出せるし――。
ふと、揺れる体が鏡に映る。自分の姿が見えた。
自分が出している声が聞こえてしまった。
え、――誰、こいつ……!
「ううっ!!」
男を突き飛ばしてトイレに駆け込む。便座にしがみ付いて、胃の中のものを全部吐き出した。気持ち悪い笑顔で上下に揺れていて、棒読みの声はまるで……。
一緒だ……。母親と。一緒だ!!
「ううっ――」
そう見えてしまったら吐き気が止まらない。涙を流しながら、みっともない声を出して嗚咽を繰り返す。トイレの向こうから「大丈夫?」と、聞こえるがバカにしているような笑い声が混ざっていた。違う、一緒なんかじゃない。
うちは、うちだ。同じなんかじゃない!
思い浮かぶのは、屋上の踊り場で抱きしめ合っていた二人の姿。
便座に抱きついているのは、うち。
はははっ、あははは。
* * *
ぜんきちの家なんて、金髪の男子に聞けば一発だ。信じたくないけど、ぜんきちのことが気になってる。その感情が何なのか確かめたくて、上手く誘って家に連れていくことができた。簡単だ。ちょっとソレっぽくすればすぐ付いてくる。
ううん、ここは正直に言うけど、家に来てくれたのはちょっと嬉しかった。
うちのことをやっぱり気にしてるんだってその時は思った。
「俺は恋仲が好きだ。お前を見ることはない」
ああ……。
「知ってるか? それは、自分だけが傷つくやり方なんだよ……」
なんて真っすぐな瞳なんだろう。
「……凪」
名前を呼ばれて呼吸が止まった。
すごく静かで、柔らかくて、純粋で、綺麗な声だった。
「名前で呼ばないでよ……。うち、嫌いなんだよね。自分の名前」
ほんとはもっと呼んでほしかった。呼んでもらうたび、何かが吸い込まれて、その場所が綺麗になっていく感じがしたから。
でも、そんなことはみっともなくて言えなかった。
* * *
その夜、ぼーっと過ごしていると母親が一人で帰ってきた。ハイヒールを脱ぎ捨て、冷蔵庫からチューハイを取り出して居間にふんぞり返ってあぐらをかく。顔を見ると、化粧が崩れていた。目元が腫れていて赤いし、涙の跡もついていた。
「また捨てられたの?」
「は? 嘘ばかりつくから、あたしから捨ててやったんだよ」
「あっそ。ボロクソ泣いてるのバレバレだよ」
「ふん。代わりなんていくらでもいるわ。あんたこそ、なんで泣いてるのよ」
「え……?」
自分の目元に触れると、濡れていた。なんで、泣いているんだろう。
「うちも捨てられた。一緒だよ」
実際はちょっと違うけど、自分を切り替えたくてこんなことを言ってみた。
「一緒って。そりゃまあ、母娘だからね。……飲む?」
「うん」
「あーあ、どっかにいい男いないかな。ねえ凪?」
「ねえ凪、じゃないよ。一緒にすんな。……やっぱマズ。これ」
久しぶりに二人で笑った。ほんとにバカみたいで、どこが面白いのか謎だったけど、こんなのも悪くないかなってちょっとだけ思えた。
* * *
その翌日。たまたま早く学校に着いて花に水やりした日、善吉が停学になった。あの金髪の男子をぶん殴ったらしい。動画も回ってきた。ぜんきちの顔をキモいとバカにする声、学校に来るなとコメントは好き放題言われてた。うちは、カッコよく見えたけどな。
その次の日かな、たまたま早く学校に着いたら、あの子が一人で登校していたのを見かけた。今にも消えそうなくらい背中が小さく見えたから声を掛けた。驚いたように大きな目でうちを見ていた。うわ、よく見るとお人形みたいに可愛い顔してんじゃん。
「はい、これ。あげる」
無理やりあの子の手の中に飴を押し込む。すぐにスマホを取り出して、何かを伝えようとしてきたので腕を押さえて止めた。
「別にお喋りしに来たんじゃないよ。ただ、その、ごめん……。そのお詫び。じゃあね、ばいばい!」
まともに顔を見てられなくて逃げちゃった。別に投げ捨ててくれても良かったのに、ぺこってして、鞄にしまうんだもん。
はあ……、なんだこれ。変になっちゃってるな、うち。
これもぜんぶ、ぜんきちのせいだよ。
* * *
『凪ちゃん、今夜も一緒にいたいな』
『ごめんね! 今日はあの日でちょっと具合悪いんだ~。それでもいい?』
『あ、そうなんだ。じゃあまた今度連絡するよ』
スマホを見ると相変わらず溢れかえるお誘いのメッセージ。結局、返ってくるのはこんな感じで、やり目的ばっか。どれにしようかな、なんて選んでたうちだけど、なんかつまんなんなくなっちゃったな。……どうしようかな、これから。
お母さんなんて久々に呼ぶけど、男にフられた腹いせに部屋の大掃除なんて始めちゃって、家の中が倍くらい広くなった。問答無用でうちまで手伝わされてるし。新しい生活だとかなんとか言ってるし。うちも巻き込まないでほしい。普段ほったらかしにするくせに、距離は離れてないと思って、気分でづかづか入ってくるのほんとウザい。
でもお母さんのすっぴんの笑顔。悪くないじゃんなんて思ったりして。よし、決めた。お母さんがそうやって笑うんだったら、うちも負けてられない。それ以上のとびきり可愛い笑顔、できるようになってやる。うちだけ辛気臭い顔してたら、お母さんより先に老けちゃいそうだし。そんなの最悪だ。
次の日の放課後、あの子が心配だったから、後ろでバレないように隠れながら見守ってた。階段から落ちたってのに、健気に学校に来るんだもん。頭おかしいんじゃない? ったく、気になって仕方がない。
一年生かな? 女の子に声を掛けられてた。そうしたら人目を気にしながら一緒に階段を上っていった。
鍵が閉まって入れないはずなのに、屋上の鍵がなぜか開いていて、二人は外に出ていった。
顔を少しだけ出して様子を伺う。扉は開けっ放しだ。あの子と、一年生の子の二人。喋っているけど、ここからじゃよく聞こえない。
「全部ぜんぶ、お前のせいだ!!」
鬼気迫った叫びのように聞こえた瞬間、体が勝手に動いていた。
「恋仲っち!」
名前を呼びながら走ってたら、どん、とお腹に衝撃が走った。
――刺されるってこんな感じなんだ。なんて、笑顔と怒りと嫉妬で、顔がぐちゃぐちゃになってる女の子見ながらそう思った。
全身の力がふっと抜けていって、支える力も出ないまま倒れる。めちゃくちゃ痛いし、いつでも意識は飛びそうだったけど、ぜんきちが来てからは最高に楽しかったから、見届けるまで寝るわけにはいかなかった。
向こうに隠れているもう一人の女のこともやけに気になったし。
