この世界に、声がなくても

 とても長い夢だった。長すぎて、自分が夢の中にいることに気付いた。

――琴音。大事な妹。

 いつだって俺の傍にいてくれた。本当は泣き虫で、寂しがりやで、弱くて、不器用で。でも、琴音の笑顔は、どんな嫌な気分も吹き飛ばしてくれた。その笑顔を守りたかった、泣き顔なんて見たくなかった。
 俺の罪は消えない。
 心の中の声が何度も繰り返す。お前は、裁かれるべきだと。

――生きていていいのか、俺は。

 事故で処理されたことで、終わったことだと思っていた。
 その行為は、一人と母さんの命を奪い、そして娘の人生を狂わせた。
 それが、琴音を守るための理由だったとしても、俺は、許されないことをしたんだ。

――許されることはない。

 このまま夢の中にずっと漂って、深く沈んで戻らなくてもいいと思っていた。

 目を開けようとしても、まぶたが重くて持ち上がらない。落ちてしまいそうな感覚に、誰かが叫ぶ声が遠くに聞こえた。なにやらバタバタと、誰かが慌てている音がして、スマホが落ちた音がした。その喧騒が子守歌になって、また眠くなってくる。

――あのときから、気が緩まると、すぐに俺の世界は点字ブロックだらけになった。

 男と母が並んでいた場所。
 俺と琴音が身を寄せ合っていた場所。
 俺の体は子供に戻って、何度も、何度も両手を突き出すんだ。繰り返される耳を塞ぎたくなる音。一面に広がる地獄のような光景。手の感触はぬるりとしていて、俺も引きずりこまれる。
 電車の音が頭の中で破裂して、割れるくらい痛くなる。どうしようもない衝動が抑えられなくて、人に当たったり、物を壊したりしてしまう。
 目の奥に力をいれて、息を止めていると見えなくなったので、いつもそうしていた。

――バタバタ、ガシャン。

「善吉!!」

 父さんの声が聞こえる。すごく懐かしい感じだ。もっと早く、そんな声で、俺と琴音を呼んでほしかったな……。

「あーあ、また寝ちゃった。せっかくうちがお見舞いにきたってのに」

 起きてるよ。起きてるけど、目が重くて開けられないんだ。そういえばお前、なんであそこに居たんだよ。こんなときにまで茶化しにくるのかよ。やっぱりこいつは意味がわからない。
 でもまあ、声を聞く限り生きてたみたいだな。無事で良かったよ。

 * * *

 足を動かそうとしたけど、ぴくりともしなかった。よく見ると、ギブスでガチガチに固定されている。しかも両脚とも。指はかろうじて動いた。指先だけ。分厚い包帯で巻かれていて、それ以上は動かせない。動かした指先にすべすべとした感触があった。暖かくて、サラサラしていて気持ちいい。撫でてくれている。

 微睡む視界の向こう、恋仲の視線を感じた。目を見開くと、ぽろりと目元から雫が零れた。俺と一緒だな。一度泣いちゃったら、もう我慢してる意味なんてないんだよな。

「こ、い、なか……」

 喉も口の中も張り付いていて上手く声が出せなかったが名前を呼べたと思う。
 サラサラとノートを滑るペンの音が旋律に聞こえる。スッと、真っ白なノートが開かれ、目の前に差し出された。
 震える指で支えられたノートには、たった一言、綺麗な字が刻まれていた。

『おかえりなさい』

 文字は波のように揺れていて、支える細い指も震えていた。「ただいま」って返せたと思う。
 俺の罪は一生消えない。それは事実だ。何もなかったことにも、事故だったことにもしてはいけない。赦されるかどうかは、俺が決めていいことじゃない。でも、背を向けて逃げちゃいけない。
 だからと言って、自分を否定し続けて、自分を犠牲にしてはいけないと思う。
 間違っているかもしれないけど、自分は自分を肯定していないと、背負うことすらできないんじゃないか。
 人はそれを独りよがりだと罵るかもしれない。まともな道は歩けないかもしれない。肯定の先には、後悔しかないかもしれない。

「俺は……、それでも自分の道を歩くよ」

 何も言わず、大きな瞳が潤んでいた。力強く俺を見つめ返してくる。俺は弱いから、また夢に引きずられたり、立ち止まって嘆いたりするだろう。それでも歩ける道があるのなら、生きている限り歩き続ける。自分の罪を背負って。

「──好きです。俺と付き合ってください」

 俺が告白をした理由は――好きだから。彼女は欲しいし、罰ゲームなんかじゃない。本気でそう思ったから。それだけ。
 今しかないと思った。告白しろって言う、俺の本心に一切の嘘はない。
 彼女の目が一瞬だけ見開いた気がした。彼女は黙って俺を見つめていたけど、視線を落とし、ノートに文字を書いていた。
 書き終えたノートはしばらく膝の上から動かず、俺には見せることもなくそっと閉じられた。彼女はスマホもノートも使わなかった。

 代わりに、言葉を超えた返事がそこにあった。

 うん、と頷き揺れる綺麗な黒髪と――、とびきりの可愛い笑顔が、何よりも尊い返事だった。

 * * *

 リハビリは相当きつかった。全然力が入らないし、一歩進むだけで息が切れる。恋仲は毎日学校帰りにお見舞いに来てくれている。たまに面会時間ギリギリに父も来る。琴音は施設で過ごしていることも父から聞いた。

『お兄ちゃんへ』

 そんな題名の手紙が来た。琴音が俺宛てに書いた手紙だ。

『お兄ちゃんが無事だと聞いて、凄くホッとしています。私は毎日、少しずつだけど、落ち着いて過ごしています』

 私なんて他人行儀な言葉を使う必要はないのに。手紙の中の琴音は、どこか緊張していて、それが愛しく感じられた。手紙の内容には、施設のことや治療のこと、斎との経緯や屋上のこと。そして、何度も繰り返す謝罪の言葉が綴られていた。ところどころ砕けた言葉づかいになるのも琴音らしかった。概ね斎が言っていた通りだった。

『助けてくれてありがとう、お兄ちゃん。すごく怖いし不安しかないけど、いつか、ちゃんと謝りたいです。そのために、頑張って毎日を生きていきます。私、頑張るから、だから、またお兄ちゃんに会いたいです。――琴音』

 もちろん。会いに行くよ。琴音がちゃんと立ち上がれるまで、その先だって、ずっと傍にいる。俺たちは兄妹なんだから。
 ずっと抱え込ませたままでごめんな琴音。
 少しだけ開いた窓から、冷たい風が流れてきて顔を撫でる。熱くなった顔を冷ますにはちょうど良かった。

 * * *

 松葉杖で歩けるようになった頃。父の車に乗って、ある場所に向かっていた。相変わらず会話はなし。気まずさはあるけど、お互い剣呑な雰囲気ではなかった。無理して喋る必要もない、流れる景色をぼんやりと眺めているだけ。

 一面に広がる青空。父の手には、花と水を入れた桶があった。先に進んでいるが、時折止まっては俺が追い付くのを待ってまた先へと進んでいく。黙って父の背中を追いかける。段差はちょっと苦労するけど、だいぶ扱いにも慣れてきた。恋仲が見守ってくれていると、なんだか治りが早い気がする。

 父と俺は、母の名前が刻まれた墓石の前に立った。彫られた文字には、うっすらと土埃が積もっていた。父は、柄杓で墓石に水をかけると、桶に掛けていたタオルで丁寧に拭き上げていく。花瓶に残っていた萎れた花を片付けた後、新しい花を手向ける。俺は父の姿をじっと眺めているだけだった。線香の煙が寒空の中に溶けていく。手を合わせる父。俺は軽く頭を下げて目をつむった。

――墓参りに行く。そう切り出したのは俺だ。始めるならここからだと思ったから。母さんがあんなことしたのは寂しかったからだろ、とか同情する気持ちは一切ない。むしろ恨んでいる。父も母も、俺と琴音を真剣に見てくれると感じたことはなかったから。何をしても先にそのイメージが前に出てくる。どんなことがあっても、それは変わることはないだろう。
 でも、今日はそんな恨み言を伝えるために来たわけじゃない。
 今まで来れなくてごめん。
 と、また来る。それだけを伝えに来たんだ。

「ありがとう」

 帰り道、渋滞に巻き込まれていた。腰が痛いなと態勢を変えると、父はぽつりと呟いた。顔を見るも、父の顔は前を向いたまま。片手でハンドル握り、もう片方の手は、行く当てもなく顎を擦っていた。

「……なんだよ、気持ちわりいな」

 父と交わした会話は、その一言だけだったけど、それで十分な気がした。
 不器用だけど、今まで感じなかった温かさがあった。

 * * *

 その日は珍しく大雪だった。
 暖かい病室から、窓の向こうを舞う雪の行方を目で追っていた。琴音からは定期的に手紙は来るし、俺も返してはいた。琴音の調子はよく、順調なようだ。文面からの想像だったが、父もそう言っていた。
 俺もまた、傷も少しずつ癒え、不自由も解消されつつあった。

「善吉はさ、そんな人生で楽しいの?」

 検査のついでに来たといきなり入ってきた凪は、勝手に椅子に座ると開口一番そう聞いてきた。相変わらず人を馬鹿にしているようで、挑発的な顔つきをしている。出会ったころに見た薄暗い瞳ではなくなっていた。今の凪の瞳は、キラキラと彼女が見る世界を反射していた。

 凪もまた重傷だったが、俺より先に退院して既に学校に戻っているらしい。口調もなんだか人懐っこさを超えて刺々しさを感じるようになったが、これが本来の凪の喋り方なのかもしれない。

「楽しいよ。だって恋仲と付き合ってるんだから」

 だから俺も、凪を全力で煽るような返事をする。

「はーキモ。キモすぎて傷口開くわ」

 べえっと舌を出して、大げさにえずく顔。凪も同じ病院に入院していたからかやりとりが増えるようになって、不思議とこういう関係になった。友達、とはいえないのだろうが、知り合い程度ではない。

「羨ましいだろ? お前も作ったら、彼氏」
「居るし何人も。みんなうちのこと可愛い可愛いって、お小遣いだってくれるし。傷跡だって、かわいそうって撫でてくるもん」
「はあ?」

 全くこいつは……。凪は恋仲が放課後、屋上に向かっているのをたまたま見かけて追いかけたらしい。そして琴音との場面に出くわした。危ないと思ったら、体が勝手に動いていて、気付いたらああなっていた。としか凪は言わない。詳しく聞こうとしても、はぐらかすばかりなので、もう触れないようにしている。心の中では感謝しているけど「ありがとう」なんて言ってしまったらどうなることか。

「なんであんなことしちゃったかなあ。ほっとけばよかったのにさ」

 俺のベッドに両足を乗せ、椅子の片脚を浮かせながら器用にバランスをとる凪。

「訴えたらお金もらえんのかな?」
「知るか」

 わざとだと思うけど、ちょいちょい俺の足を蹴ってきて痛い。

「んじゃ、帰る」
「もう来なくていいよ。あと、遊ぶのも、気を付けた方がいいと思うぞ」
「あはは、なにそれ」

 コートを羽織った凪は、手を振りながら病室を出る。

「嘘だよ。遊んでない。やめたんだ、そういうの」

 軽い口調とは裏腹に、凪の瞳にはやっぱり新しい色が浮かび上がっていた。その言葉を残して、凪は帰って行った。
 去り際に見えた凪の横顔は、新たな道を決心したような迷いのない凜とした顔だった。


 そしていつかの春――。

 自分の足で再び歩く世界は違って見えた。
 どこまでも広くて、透き通っている。
 通り過ぎる沢山の人たちを見る。
 みんな、それぞれの人生を背負って生きているんだと感じる。
 大きな波は人を簡単に翻弄して、迷わせたり、連れ去ったりするのだろう。
 俺も、波にさらわれるだけの小石にしか過ぎない。
 でも、その波に逆らいながら、傷ついて欠けたとしても、転がり続けることだけは、絶対にやめたりしない。
 歩幅が小さくても、必死に歩き進み続ける。
 これが、俺がこれから生きる道だ。何度、波に押し戻されたとしても。