「琴音!」
俺が呼び止めると、それが合図になったように琴音は走り出した。
「あとでお家かえるからっ!」
両手を不規則に泳がせながら駆けていく琴音。俺は、閉じ込められた赤い世界を突き破ろうと一歩踏み出す。
「動くな! 動いた瞬間、これでそこの口無し女を刺す! 黙って見てろ! そうしたらわかるはず! 私がどんな気持ちだったか! どんな思いでこれまで生きてきたか!」
シャツを握っていた恋仲の指が解かれる。震えていた俺の手が、恋仲の暖かい手のひらの中に包まれる。ぐっと力が込められる。赤と黄色い世界の中で、真っ白な姿の恋仲と目が合った。
言葉を発する前に恋仲は手を離し、俺の前に立つ。ふわりと舞う黒髪がひたすらに世界を浄化しているようだった。恋仲から放たれる体温、視線、匂いがこう伝えてきた。
――大丈夫ですよ。
――だから、行ってください。
琴音はフェンスにしがみついていて、金属の網に指を掛ける。普段の琴音とは思えないうめき声をあげながら、腕を伸ばしている。
「あっははは! わかりました先輩、選んでください。さっき言った通り、琴音を追いかけたら、私はこの口無し女を刺します。でも、追いかけずここにいたら、私は何もしません。ただ琴音が飛ぶだけ。どうしますか!? 妹か女か、選んでいいですよ!」
琴音は笑顔の裏でずっと泣いていた。俺を安心させるために自分を偽ってまで。琴音はあのときからずっと、俺が壊れないように守ってくれていたんだ。その居心地の良さに甘えて、忘れて、勝手に救ったやった気になって逃げていた。
俺の目的はなんだった? 琴音を守ることだっただろ? 今も守れているのか? 助けてって、俺を求めている琴音を、俺は助けてやれたのか?
「そんなガシャガシャやってちゃ、ただの虫だよ、あはははは!!」
「うるせえな! ドブ女が! 虫はお前だよ、さっきからカサカサ耳障りなんだよ!」
腹の底から声を出した。歪な空気が音を立てて割れるように、白い光が漏れてくる。斎の注意を俺に引き付けるにはこうするしかない。斎の淀んだ感情は計り知れない。だからって、人を傷つけて良い理由にはならないんだ。
「……あぁ?」
「もう喋んなよ。こっからでも臭うんだよ。前のドブみたいな口臭がよ! 自分の臭いに気づかないのか? 汚物みたいな涎まき散らしてんじゃねえよ。斎、お前こそ動くなよ。動いてみろ。わかってるな? 今度はお前の番だぞ」
それ以上の敵意で睨み返す。こうやってふりをするのは、得意だった。
「なに……、なに!?」
斎が俺の怒声にたじろぐ。畳みかけるように俺は言葉を吐き続ける。その怒声に琴音の動きも止まったように見えた。
「お前だけが苦しんでると思ってるのか? 全部わかってるみたいな顔してんじゃねえよ 勝手に人のこと暴露して、いい気分になってんじゃねえよ! お前の自慰を見ているこっちの身にもなれよ。マジでキモいんだよ」
斎の顔が見る見るうちに上気していく。敵意がヒリヒリと伝わってくる。
「私はお前たちの罪を暴いて、この女たちに教えてやってるだけだ! 隠し通せるとでも思ってた? そうよね? 言えないよね!? 卑劣で、醜悪で、卑怯者のお前たちの過去なんて! だから代わりに私が教えてあげてるの!」
俺と斎の言葉の殴り合いは会話になってはいなかった。俺の内に溜まっていた感情と、斎の主張がぶつかりあい、せめぎ合うだけ。
それでも俺の体は熱くなり、感情が表情に現れ、おかしな視界を塗り替えていく。斎も身振りが大きくなり、刃物を向け、再び赤い世界に戻そうとしてくる。
「馬鹿かよ。お前の言ってることなんて、誰が信じるんだ? 証拠を見せてみろよ。どこの情報? 無いだろ? 作り話なんだよ! お前の狂った妄想に琴音を巻き込むなよ。頼むから、そういうのは便所で一人でやってくれ」
「嘘じゃない! 作り話なんかじゃない!! お前が一番わかってるだろおお!」
もちろんそうだ。けど、お前以外にはわかるわけがない。
「てか、お前、だれだよ?」
作り上げたふりを貫くために姿勢は変えられない。
「わたっ、私はっ、あああっ!」
――ごめん、斎。こんな言葉なんて、それこそ自己満足で、意味もないだろうけど。
「あはっ、はははっ」
そう決めたなら最後まで。黙る斎に代わって笑ったのは凪だった。嘲笑うみたいに可笑しく笑う声に、斎は、狂ったような低い悲鳴を上げた。
「琴音え! いいから、はやく登れ! さっさと飛べええ!」
動きが止まっていた琴音は、言われるがままよじ登りはじめる。逆上させ、俺に向かって来るようにするつもりだったが、上手くはいかなかったみたいだ。「くそ」と吐き捨てる。
大事な妹を守れないで、何がお兄ちゃんだ。
誓ったはずだ! もう琴音を泣かせたりしないって!
「動くなあっ! 動くな動くな! 黙って見てろ! 私が苦しんだ絶望を与えなくちゃ、お父さんが味わった屈辱を晴らさなくちゃ、私は……、私は救われない! 救われないんだ!」
動くな、選べ、また動くなと、斎の言葉も不安定で一貫性がない。恋仲がまた一歩、前に進んでいた。一瞬だけ振り向いて、緊張した顔のまま震えた体のまま微笑んで、俺の心を落ち着かせようとゆっくりと頷いた。
言葉が無くても、恋仲が言いたいことが伝わって、上書きするように新しい力が体中を巡っていく。
「琴音!!」
喉が焼き切れたっていい。それで琴音が止まるなら、燃え尽きるまで出してやる。
なりふり構わず、俺は琴音を追いかけるために走り出す。
もはや声にもならない絶叫を轟かせながら、斎は恋仲に向かって駆け出した。
思わず足が止まる。
俺の選択で恋仲を失ってしまうのか。
一瞬の躊躇が杭を打たれたように、脚を貫き、コンクリートに固定される。
―って!
恋仲の背中から綺麗な音が聞こえた気がした。
その高音は容易く杭を抜き、俺の脚はいつでも走り出せる状態に戻っていた。
それでもきっと迷うだろうから、俺の躊躇いなんかよりも速く、恋仲はこう叫んだんだ。
「行って――!!」
その力強い言葉に背中を押される。
全身に信じられないくらいの力が入る。今度こそ、琴音を救う為に走り出していた。
恋仲の声が聞こえた。
気のせいだったかもしれない、
俺がそう感じただけかもしれない。でも、確かに、恋仲の声が聞こえたんだ。
「琴音っ!」
何度目かの呼びかけに、ようやく琴音の動きが止まる。俺が近づいてくるのを見て、あがきながら再び登り始める。琴音の足はもうフェンスを乗り越えそうだった。俺は名前を呼び続けて、無我夢中でフェンスにしがみつき、金属の網を握りしめていた。
「わああああ、いやっ! いやいや! 来ないで! 琴音が会いにいくから、空を飛んで、琴音から会いにいくから! 来ないでっ!!」
登り詰めた琴音は、両手を離し向こう側の狭いコンクリートの通路に両手から倒れ込んだ。両腕を強く打ったのか、「痛いいい」と苦痛の表情を浮かべる。
その先はもう、何もない。
何かの配管があるだけで、ほんの数メートル分のコンクリートしか残っていない。俺はフェンスに飛びつき、琴音の後を追うが、反り返った傾斜で失速し、思うように登れなかった。
「琴音! 俺が今行くから、そこで待ってろ! 俺が迎えにいくから!」
「ううん、だめなんだよ。もう戻れない。琴音は頑張ったけど、やっぱりだめだったんだよ!」
うつ伏せになりながら、琴音は泣き声を滲ませ叫ぶ。
「だめなんかじゃない! 俺が琴音を見てなかっただけなんだ!」
記憶を封印して、「今」だけをふざけて楽しむようになって、俺は治った気でいた。琴音は自分と向き合いながら、俺の「今」をもっと楽しめるように空気を作ってくれていたのに。薬を飲む琴音を見て、まだそんなものに頼ってるのか、なんてひどいことを思ったことも――。
俺が間違っていた。琴音は常に戦っていたんだ。
這いつくばるように先へ進んでいく琴音。配管にしがみ付き、両足を震わせたまま立ち上がる。
「だって、だってだって、もう終わりだよ。琴音、もう戻れない、恋仲さんにしたこと、あの女の人にしちゃったこと……もう、お家に帰れない。知ってるよ、飛べないことなんて。でも、こうするしかないの。もう……何も考えたくないの……」
琴音の目に微かな光が宿ったように見えた。しかし、屋上の際まで進む歩みは変わらない。俺はようやく返しを登り、そのまま飛び降りて両手をつきながら着地する。
もう少しで手が届く!
「大丈夫、俺がそばに居るから! もう離れたりなんかしない、見てるふりなんてしない! 俺が琴音を守るから! だから、だから、俺を独りにしないでくれ! 離れないでくれ!」
唾も涙も鼻水もまき散らしながら俺は力の限り叫んでいた。
屋上の際に立つ琴音は、振り返って俺を見る。屋上を見上げた学生が悲鳴を上げていた。ゆっくりと近づいて手を伸ばす。
「ほら、琴音。俺の手を握って。もう離さないから、絶対に!」
「お兄ちゃん……」
琴音の瞳から涙が零れる。乾ききった琴音の肌にすぐに吸い取られ、落ちることはなかったけど、琴音の顔に生気が宿っていくように表情が変わっていく。琴音の手が、少しだけ上がった。
「ありがとう。お兄ちゃん。……ごめんね」
その手は俺を掴むためじゃなかった。ばいばいと手のひらを揺らし、そのまま後ろへ体重を預けていく。琴音は最後に、泣き笑いの顔で俺を見た。伸ばしたその手は、別れの挨拶のように小さく揺れたまま、静かに宙へと溶けていく。
「うわあああ!」
俺の体は反射的に跳ね上がっていた。どうなったかわからないけど、俺の腕は想像以上に伸びていて、体も宙に浮かび上がっていた。
琴音の腕を掴んだ。
時間が止まったかのように、その瞬間だけ時間の流れがゆっくりになる。
「琴音! 絶対離さない!」
落ちていく琴音。涙は軌跡となって空中に漂っている。
驚いた顔。小さい頃から今までの琴音の笑顔が、泣き顔が何重にも重なって見えた。
必死で腕を引き上げる。その瞬間、世界が時間を取り戻し、琴音の表情が鮮明に蘇った。
持てる力全てを出し切って、屋上へと引き戻した。俺の体温を琴音に。安心できるよう、精一杯の笑顔を琴音の瞳に送る。
「いやあああっ! お兄ちゃああん――」
大丈夫だから。俺はもう、絶対に逃げない。
だから琴音。また笑ってくれないか。
お互い作り笑いなんかじゃなくて、小学生のときみたいに本気で笑って……。
また、一緒に遊ぼう。
琴音の声が遠くなって、俺の体を支えるものが何もなくなって、景色が線になり、誰かの涙が夕焼けの空に弾けて、そのまま、何も見えなくなった――。
俺が呼び止めると、それが合図になったように琴音は走り出した。
「あとでお家かえるからっ!」
両手を不規則に泳がせながら駆けていく琴音。俺は、閉じ込められた赤い世界を突き破ろうと一歩踏み出す。
「動くな! 動いた瞬間、これでそこの口無し女を刺す! 黙って見てろ! そうしたらわかるはず! 私がどんな気持ちだったか! どんな思いでこれまで生きてきたか!」
シャツを握っていた恋仲の指が解かれる。震えていた俺の手が、恋仲の暖かい手のひらの中に包まれる。ぐっと力が込められる。赤と黄色い世界の中で、真っ白な姿の恋仲と目が合った。
言葉を発する前に恋仲は手を離し、俺の前に立つ。ふわりと舞う黒髪がひたすらに世界を浄化しているようだった。恋仲から放たれる体温、視線、匂いがこう伝えてきた。
――大丈夫ですよ。
――だから、行ってください。
琴音はフェンスにしがみついていて、金属の網に指を掛ける。普段の琴音とは思えないうめき声をあげながら、腕を伸ばしている。
「あっははは! わかりました先輩、選んでください。さっき言った通り、琴音を追いかけたら、私はこの口無し女を刺します。でも、追いかけずここにいたら、私は何もしません。ただ琴音が飛ぶだけ。どうしますか!? 妹か女か、選んでいいですよ!」
琴音は笑顔の裏でずっと泣いていた。俺を安心させるために自分を偽ってまで。琴音はあのときからずっと、俺が壊れないように守ってくれていたんだ。その居心地の良さに甘えて、忘れて、勝手に救ったやった気になって逃げていた。
俺の目的はなんだった? 琴音を守ることだっただろ? 今も守れているのか? 助けてって、俺を求めている琴音を、俺は助けてやれたのか?
「そんなガシャガシャやってちゃ、ただの虫だよ、あはははは!!」
「うるせえな! ドブ女が! 虫はお前だよ、さっきからカサカサ耳障りなんだよ!」
腹の底から声を出した。歪な空気が音を立てて割れるように、白い光が漏れてくる。斎の注意を俺に引き付けるにはこうするしかない。斎の淀んだ感情は計り知れない。だからって、人を傷つけて良い理由にはならないんだ。
「……あぁ?」
「もう喋んなよ。こっからでも臭うんだよ。前のドブみたいな口臭がよ! 自分の臭いに気づかないのか? 汚物みたいな涎まき散らしてんじゃねえよ。斎、お前こそ動くなよ。動いてみろ。わかってるな? 今度はお前の番だぞ」
それ以上の敵意で睨み返す。こうやってふりをするのは、得意だった。
「なに……、なに!?」
斎が俺の怒声にたじろぐ。畳みかけるように俺は言葉を吐き続ける。その怒声に琴音の動きも止まったように見えた。
「お前だけが苦しんでると思ってるのか? 全部わかってるみたいな顔してんじゃねえよ 勝手に人のこと暴露して、いい気分になってんじゃねえよ! お前の自慰を見ているこっちの身にもなれよ。マジでキモいんだよ」
斎の顔が見る見るうちに上気していく。敵意がヒリヒリと伝わってくる。
「私はお前たちの罪を暴いて、この女たちに教えてやってるだけだ! 隠し通せるとでも思ってた? そうよね? 言えないよね!? 卑劣で、醜悪で、卑怯者のお前たちの過去なんて! だから代わりに私が教えてあげてるの!」
俺と斎の言葉の殴り合いは会話になってはいなかった。俺の内に溜まっていた感情と、斎の主張がぶつかりあい、せめぎ合うだけ。
それでも俺の体は熱くなり、感情が表情に現れ、おかしな視界を塗り替えていく。斎も身振りが大きくなり、刃物を向け、再び赤い世界に戻そうとしてくる。
「馬鹿かよ。お前の言ってることなんて、誰が信じるんだ? 証拠を見せてみろよ。どこの情報? 無いだろ? 作り話なんだよ! お前の狂った妄想に琴音を巻き込むなよ。頼むから、そういうのは便所で一人でやってくれ」
「嘘じゃない! 作り話なんかじゃない!! お前が一番わかってるだろおお!」
もちろんそうだ。けど、お前以外にはわかるわけがない。
「てか、お前、だれだよ?」
作り上げたふりを貫くために姿勢は変えられない。
「わたっ、私はっ、あああっ!」
――ごめん、斎。こんな言葉なんて、それこそ自己満足で、意味もないだろうけど。
「あはっ、はははっ」
そう決めたなら最後まで。黙る斎に代わって笑ったのは凪だった。嘲笑うみたいに可笑しく笑う声に、斎は、狂ったような低い悲鳴を上げた。
「琴音え! いいから、はやく登れ! さっさと飛べええ!」
動きが止まっていた琴音は、言われるがままよじ登りはじめる。逆上させ、俺に向かって来るようにするつもりだったが、上手くはいかなかったみたいだ。「くそ」と吐き捨てる。
大事な妹を守れないで、何がお兄ちゃんだ。
誓ったはずだ! もう琴音を泣かせたりしないって!
「動くなあっ! 動くな動くな! 黙って見てろ! 私が苦しんだ絶望を与えなくちゃ、お父さんが味わった屈辱を晴らさなくちゃ、私は……、私は救われない! 救われないんだ!」
動くな、選べ、また動くなと、斎の言葉も不安定で一貫性がない。恋仲がまた一歩、前に進んでいた。一瞬だけ振り向いて、緊張した顔のまま震えた体のまま微笑んで、俺の心を落ち着かせようとゆっくりと頷いた。
言葉が無くても、恋仲が言いたいことが伝わって、上書きするように新しい力が体中を巡っていく。
「琴音!!」
喉が焼き切れたっていい。それで琴音が止まるなら、燃え尽きるまで出してやる。
なりふり構わず、俺は琴音を追いかけるために走り出す。
もはや声にもならない絶叫を轟かせながら、斎は恋仲に向かって駆け出した。
思わず足が止まる。
俺の選択で恋仲を失ってしまうのか。
一瞬の躊躇が杭を打たれたように、脚を貫き、コンクリートに固定される。
―って!
恋仲の背中から綺麗な音が聞こえた気がした。
その高音は容易く杭を抜き、俺の脚はいつでも走り出せる状態に戻っていた。
それでもきっと迷うだろうから、俺の躊躇いなんかよりも速く、恋仲はこう叫んだんだ。
「行って――!!」
その力強い言葉に背中を押される。
全身に信じられないくらいの力が入る。今度こそ、琴音を救う為に走り出していた。
恋仲の声が聞こえた。
気のせいだったかもしれない、
俺がそう感じただけかもしれない。でも、確かに、恋仲の声が聞こえたんだ。
「琴音っ!」
何度目かの呼びかけに、ようやく琴音の動きが止まる。俺が近づいてくるのを見て、あがきながら再び登り始める。琴音の足はもうフェンスを乗り越えそうだった。俺は名前を呼び続けて、無我夢中でフェンスにしがみつき、金属の網を握りしめていた。
「わああああ、いやっ! いやいや! 来ないで! 琴音が会いにいくから、空を飛んで、琴音から会いにいくから! 来ないでっ!!」
登り詰めた琴音は、両手を離し向こう側の狭いコンクリートの通路に両手から倒れ込んだ。両腕を強く打ったのか、「痛いいい」と苦痛の表情を浮かべる。
その先はもう、何もない。
何かの配管があるだけで、ほんの数メートル分のコンクリートしか残っていない。俺はフェンスに飛びつき、琴音の後を追うが、反り返った傾斜で失速し、思うように登れなかった。
「琴音! 俺が今行くから、そこで待ってろ! 俺が迎えにいくから!」
「ううん、だめなんだよ。もう戻れない。琴音は頑張ったけど、やっぱりだめだったんだよ!」
うつ伏せになりながら、琴音は泣き声を滲ませ叫ぶ。
「だめなんかじゃない! 俺が琴音を見てなかっただけなんだ!」
記憶を封印して、「今」だけをふざけて楽しむようになって、俺は治った気でいた。琴音は自分と向き合いながら、俺の「今」をもっと楽しめるように空気を作ってくれていたのに。薬を飲む琴音を見て、まだそんなものに頼ってるのか、なんてひどいことを思ったことも――。
俺が間違っていた。琴音は常に戦っていたんだ。
這いつくばるように先へ進んでいく琴音。配管にしがみ付き、両足を震わせたまま立ち上がる。
「だって、だってだって、もう終わりだよ。琴音、もう戻れない、恋仲さんにしたこと、あの女の人にしちゃったこと……もう、お家に帰れない。知ってるよ、飛べないことなんて。でも、こうするしかないの。もう……何も考えたくないの……」
琴音の目に微かな光が宿ったように見えた。しかし、屋上の際まで進む歩みは変わらない。俺はようやく返しを登り、そのまま飛び降りて両手をつきながら着地する。
もう少しで手が届く!
「大丈夫、俺がそばに居るから! もう離れたりなんかしない、見てるふりなんてしない! 俺が琴音を守るから! だから、だから、俺を独りにしないでくれ! 離れないでくれ!」
唾も涙も鼻水もまき散らしながら俺は力の限り叫んでいた。
屋上の際に立つ琴音は、振り返って俺を見る。屋上を見上げた学生が悲鳴を上げていた。ゆっくりと近づいて手を伸ばす。
「ほら、琴音。俺の手を握って。もう離さないから、絶対に!」
「お兄ちゃん……」
琴音の瞳から涙が零れる。乾ききった琴音の肌にすぐに吸い取られ、落ちることはなかったけど、琴音の顔に生気が宿っていくように表情が変わっていく。琴音の手が、少しだけ上がった。
「ありがとう。お兄ちゃん。……ごめんね」
その手は俺を掴むためじゃなかった。ばいばいと手のひらを揺らし、そのまま後ろへ体重を預けていく。琴音は最後に、泣き笑いの顔で俺を見た。伸ばしたその手は、別れの挨拶のように小さく揺れたまま、静かに宙へと溶けていく。
「うわあああ!」
俺の体は反射的に跳ね上がっていた。どうなったかわからないけど、俺の腕は想像以上に伸びていて、体も宙に浮かび上がっていた。
琴音の腕を掴んだ。
時間が止まったかのように、その瞬間だけ時間の流れがゆっくりになる。
「琴音! 絶対離さない!」
落ちていく琴音。涙は軌跡となって空中に漂っている。
驚いた顔。小さい頃から今までの琴音の笑顔が、泣き顔が何重にも重なって見えた。
必死で腕を引き上げる。その瞬間、世界が時間を取り戻し、琴音の表情が鮮明に蘇った。
持てる力全てを出し切って、屋上へと引き戻した。俺の体温を琴音に。安心できるよう、精一杯の笑顔を琴音の瞳に送る。
「いやあああっ! お兄ちゃああん――」
大丈夫だから。俺はもう、絶対に逃げない。
だから琴音。また笑ってくれないか。
お互い作り笑いなんかじゃなくて、小学生のときみたいに本気で笑って……。
また、一緒に遊ぼう。
琴音の声が遠くなって、俺の体を支えるものが何もなくなって、景色が線になり、誰かの涙が夕焼けの空に弾けて、そのまま、何も見えなくなった――。
