この世界に、声がなくても

「あれは不思議なことに、事故、なんですよねえ」

 斎は、手に持った刃物をちらつかせながら、ゆっくりと、わざとらしい足取りで横に移動する。

「その事故に巻き込まれた、先輩のお母さんも。お気の毒でしたね」

 数歩歩いて足を止める。踵を返し、また同じ位置に戻る。くるくると回る切っ先は、常に俺の喉を狙っているような感じがした。

「何がしたい……。俺か!? 俺が目的ならさっさとそうしろ! 恋仲も凪も関係ない。琴音だって関係ない!」

 ほとんど理性なんて残っていなかった。恋仲が俺のシャツを強く握ってくれているから、それでギリギリ保っていられた。スマホをタップして警察に連絡しようとする。

「だめですよう。少しでも変な気を起こしたら、誰かが来る前に、もっと酷いことになっちゃいます。それでもいいのなら構いませんが、私としてはお勧めしません」

 斎は、自分のポケットからスマホを取り出すと動画を再生した。映像は遠くてよく見えなかったが、大音量の音声だけで、ここで何が起きたのかは嫌でも伝わった。

『お兄ちゃんは琴音のなんだ! 琴音のお兄ちゃんを奪わないで! お前がお兄ちゃんを変にさせてる! 停学したのもお前のせいだ、お兄ちゃんが琴音を見なくなったのも、お前のせいだ。全部ぜんぶ、お前のせいだ!』

 生々しい琴音の絶叫だった。

「あ……あぁ……!」

 乾いた悲鳴を上げる琴音はその場に崩れ落ちる。動画はまだ止まらない。琴音の絶叫の後、凪が恋仲の名前を呼び、体同士がぶつかる音。

「誰かを呼んだ時点でこの動画をネットに晒します。そして、誰かが来る前に、このナイフで、誰かを傷つけます」
「わかった、わかったから……」

 斎に見えるようにスマホをポケットにしまう。斎は鼻を鳴らすと、ここからは私の番だ、と言わんばかりに、鈍色の視線を俺に戻した。

 柊斎。
 思い出さないようにしていた。記憶の中に封じ込めていた名前。
 柊誠の娘。
 柊誠は、母の不倫相手。

 小さい頃、狭い部屋の中、三人でゲームをして遊んでいた記憶が蘇る。俺が勝って琴音が笑って、斎が悔しくて泣いていた。なんでこうなったのかは当時の俺はわからない。父と違う男の家で、知らない女の子と遊んでいたんだ。当時は楽しかったからそれで良かった。
 「痛っ」と声を上げる凪。凪の額には脂汗が浮かんでいて、苦悶の表情で時折ぎゅっと目を強く閉じている。俺の視線に気づいた凪は片方の口角だけを上げ、

「大したことないし、気にしないでよ。それよりさ。ぜんきちなら、なんとかできるでしょ……? 見せてよ、うちに」

 と、明らかに辛そうな声で、いつもの感じで強がって見せた。
 上塗りするような大きな斎のため息が空気を冷やす。

「はあ。この女は。せっかくの場面にいきなりしゃしゃり出てきて、口無し女を庇ったんです。せっかく、琴音がお兄ちゃんを奪った女に、恨みを晴らせるところだったのに。お陰で琴音は未練たらたらです」

 何度目かの往復の後、斎は泥のような髪を顔から剥がし、垂れ下がっていた腕のまま、切っ先を俺に向けた。琴音はしゃがんだまま両耳を抑えていて、しきりに首を振り、体を丸めながら震えている。

「でもまあ。どうでもいいです。私の目的は変わりません。せっかくですから、そこの女も、口の無い女も聞いて下さい。教えてあげます。この兄妹の罪。隠そうとする世界に代わって、この私が」

 シャツを握る恋仲の力が強くなった気がした。

「この男はヒトゴロシです。私の父は、この男のきまぐれでこの世を去りました。世間では事故として処理されて、この兄妹は、のうのうと罪を負うこともなく、今の今まで過ごしてきました」

 明らかな敵意が剥き出しになる。斎の顔がみるみると鬼のような形相になっていく。

「私は亡くなった父を偲び、それでも生きていこうと、辛い日々を重ねてきました。でも忘れられる訳がありません。少しでも思い出さないように、一つでも考えないように、それこそ自分を殺して、中学時代を静かに過ごしてきました。いつか、時間が、痛みを取り除いてくれることを信じて」

 言葉を飲み込むように、斎は立ち止まり息を整える。彼女の独白を俺はただ聞いているしかできなかった。
 彼女が言葉を発するたび、俺にはモノクロの映像になって目の前に流れている。

「この高校に入学したとき。偶然です。琴音と再会したのです。……琴音は、私のことなんて忘れていました。それは当然だったかもしれません。だってあのときから、琴音はもう壊れていましたからね。ですが、信じられますか? この男は、人の親を殺しておいて、笑顔で! 過ごしていたんです! くだらない遊びで人を馬鹿にして、ネットに上げて笑って、自分がしたことなんて、最初からなかったみたいに!」

 気づけば屋上の床一面が点字ブロックで埋め尽くされていた。
 小学生の琴音が、俺の隣で涙を流している。三人で遊んでいるときは笑っていたのに、男に呼ばれるようになってから、琴音は俺に泣きついてきた。

 必死で訴えていた。もう会いたくない、もういやだ、と。
 でも、そんな子供の言葉は、「大丈夫だから」っていう大人の理不尽な都合で簡単にもみ消される。男と琴音は、二人だけで遊びにいくことが多くなった。何をしているかはわからないけど、帰ってくるたび、琴音は泣きじゃくった。俺は抱きしめることしかできず、どうすることもできなかった。

「私は前に進もうとしてた! 少しずつ笑えるようにもなってた! 忘れたふりだって出来るようになってた! 事故だったんだ、仕方がなかったんだって、自分に言い聞かせられるようにもなってた! それなのに、どうして、あなたたちは、何もなかったみたいに笑ってるの!?」

 一言一言が、深々と俺の心に突き刺さる。抉られる。違う、なんて言えない。斎の言いたいことは、理解、している……。

「世間は許したからもう終わったと? 終わりなんてない! 自分はもう関係ないって顔してる。ふざけないでよ、この人殺しが! 人殺しが許されることなんてないんだよ! 返してよ、お父さんを返して!」

 激高し、甲高い声を上げる斎。渦を巻くような黒い瞳の中に、意識ごと吸い込まれそうになる。
 斎があの日からどう生きてきたのかを考えると、何も、言い返せなかった。
 不幸。裁き。返して。
 俺だって苦しんだ。そう反論する立場に、俺はいるのだろうか。


 ――琴音は泣くんだ。助けてお兄ちゃんって。頑張って反抗したよ。でも、すぐに強い力で跳ね返されちゃうんだ。琴音を泣かせるこの男は許せなかった。この男の家も、ここで遊ぶことも、全部気持ちが悪くなった。
 お兄ちゃんしか琴音を守れない。目の前には男の背中があった。男は、点字ブロックの上に立っていた。電車が来る。前には誰もいない。

「お兄ちゃんが守るから」

 俺の声は高かった。まだ声変わり途中のそんな声。体も細くなっていて目線も低い。きっと弱い力しか出ない。それでも、ありったけの力で背中を押した。男の体は、俺たちの世界から押し出されていった。
 けど男は、お母さんの腕を引っ張っていって、音と光と誰かの悲鳴の中、一緒に消えてしまったんだ――。


「ここで会えたのは、父が許すなと、導いてくれたお陰なのかもしれません。幸いにも、琴音は昔と変わらず、お兄ちゃんお兄ちゃんで周りが見えていませんでした。私のことを思い出さなくても、操るのは簡単でした。私に言われるがまま、口無し女を階段から突き落としました」
「いやあ! 言わないで! 内緒にしてくれるって言ったのに!」

 琴音の悲痛の叫びを聞いても、斎の表情は微塵も変わらなかった。

「流石にもう来ないだろうと思っていたのに、次の日に学校に来るんですから、驚きました。だったらもう、完全に消えてもらうしかない。そう琴音に言ったんです。そうしないと、お兄ちゃんはもう、琴音のことなんか見なくなっちゃうよって」
「あああああ!!」

 琴音の悲鳴はただ空を切るだけで、斎の耳には届いていない。何事もないように、斎は表情を変えずに淡々と語り続ける。聞いてもらえる。そう思ったからなのか、斎の口からは堰を切ったように言葉が溢れ続ける。

「うううううう……!!」
「こんなんですから琴音は。後はそのオニイチャンを呼び出して、この現場を見せるだけ。私は鍵を閉める、ただそれだけで舞台は完成しました。さあ? どうしよっか、琴音? 琴音がしちゃったこと、全部バレちゃったね?」

 斎の言葉にぴくりと反応を示す琴音。

「琴音が、琴音が今度は守りたかった、お兄ちゃんを苦しめる女。今度は琴音がお兄ちゃんを守るんだ、まもっ、守らないと」
「琴音、聞くな! ほら、こっちにこい!」

 振り子のように揺れながら立ち上がる琴音。泳ぐ目は、俺と斎を行ったり来たりしていて方向が定まらない。
 斎の言葉が耳から離れない。否定したい。否定できない。ぐちゃぐちゃになる。

「ねえ琴音? もうあなたは取り返しのつかないことをしちゃったよ? 口無し女を階段から落として、関係ない女を刺しちゃって、こうやって動画まで撮られちゃって。言い逃れなんてできないよ。警察に捕まって、一生施設か檻の中で過ごすの。琴音はひどいから、もっと狭い場所に閉じ込められてしまうかも。そうなったら、二度とお兄ちゃんと会えなくなる」
「ああ……あうああ……!」
「琴音! こっちを見ろ!」

 俺の体は相変わらず、小さくなったり元に戻ったりを繰り返している。小学生の琴音が隣に居たり消えたり。地面が赤く染まる。点字ブロックの壁で閉じ込められ、酸素が無くなり呼吸ができなくなる。まだもがいていられるのは、傍に恋仲が居てくれるからだ。それだけで非現実と現実を繋ぎ合わせてくれている。
 肺に残った空気を声に換え、二つの声を重ねながら琴音の名を呼ぶ。

「お兄ちゃん……。琴音……、お兄ちゃんを守りたくて……」
「ああ。ああ! わかってる、わかってるよ!」
「琴音! お前はもう終わりなんだよ! 二度とオニイチャンと喋ることはできない! お前が喋るのは、汚い壁だけだ! そんなのって生きてるって言える!? 言えないよねえ? 琴音はもう誰にも愛されない、ずっと独り、壁の中。きっとオニイチャンは、そんな琴音すら忘れて、楽しく口無し女と過ごすんだよ!」
「うるせえな! 黙れよ!」

 色々な感情が空から降ってきて、混沌としてくる。恋仲を見る勇気もない。凪の乾いた笑いが、クラスの笑い声のように聞こえる。

「ほら、琴音。偶然だね。ここは高い場所だよ。飛んで逃げちゃえばいい。そうしたら捕まることもないし、琴音は自由になって、いつでも好きなときに、オニイチャンに会いに行ける」
 
「……ほんとう?」
「うん。本当だよ。さっきは馬鹿って言ってごめんね? 琴音は空に羽ばたいて、今は逃げるの。そして、誰もいなくなった夜に、ベランダから静かに家に戻って、オニイチャンに沢山ぎゅってしてもらうの」

 琴音はふらふらと、おぼつかない足取りで斎が指差す方へ歩き出す。
 そこには何もない。フェンスがあって、その先の道は僅かしかない。

 斎は片手で口を押えて肩を揺らしている。手のひらからはみ出すほど、口元が大きく歪んでいた。

 だが、それは笑みではなかった。押し殺していた憎しみが決壊した顔。
 一人の少女が長い時間の末に辿り着いた、憎悪の形だった。