『来ないと口無し女を地獄に落とす。屋上だ。急げ』
口無し女……。恋仲のことを言っているのか? 一体、恋仲が何をしたっていうんだ!
『ハヤク、オニイチャン。オクジョウダヨ』
こんなふざけた入れ替わりの芝居は見苦しいだけだ。そもそも恋仲は、自分を変えたくて、頑張って生きているだけだ!
校門は閉まっていた。迷わず裏門に回る。ちらほらと部活終わりの生徒とすれ違う。グラウンドを経由して渡り廊下へ。人気の少ない裏口から土足のまま校内に入る。琴音なのか、クラスの誰かなのか、三国なのか、凪なのか、兄なのか、父なのか、俺なのか。
ありえない正体と形容しがたい歪な思考が、迷路のように入り組んでゴールに霧をかけて隠しているようだ。先が見えない。行き止まりにぶつかるたび、目から火花が出るくらい熱くなる。
屋上へ向かう。
廊下を滑るように走り、壁を駆け上るように階段を駆け上がる。
屋上へ――!
ガチャン!
扉は鍵が掛かっており、無慈悲に俺を拒絶した。
「なんだよ!!」
捻っても引いても押しても開かない。
「恋仲! いるのか!」
さっきから恋仲にメッセージも電話も飛ばしているが反応がない。来るのは、狂ったように笑うメッセージだけ。
ここまで来て俺は騙されたのか? こいつの適当な嘘に振り回されただけ? それこそ意味不明だ。俺を呼び出そうとしてどうする。生徒か先生に見つかって、学校に戻れなくさせることが目的なのか?
もう一度ドアノブを捻ろうとした時、カチャと鍵が開く音がした。息を呑んでドアノブを回す。錆び付いた金属音。外の光が踊り場に入ってくる。四角い朱色の光が床を切り取っていく。
空が赤い。充血しているような空模様が広がっている。太陽が地平の縁にしがみついて俺を凝視している。燃えるような赤い背景に、三つの影が、ぐにゃりと歪んで伸びていた。
「恋仲!」と叫んだが、異様な空気に飲み込まれ声が掻き消された。人影は揺らめいていて、現れた俺に、空洞の瞳が向けられている。どれもが一様に驚いた顔をしている。
温い風に乗って鉄の臭いが鼻についた。銀色の光沢を放つ何かが見える。息が荒い。自分の呼吸だけが、やけに鮮明に耳に届いている。
世界の終わり。引き返すことが出来ない現実に戦慄するしかない。
「お兄ちゃん、なんで……? なんで!?」
琴音が目を大きく見開いたまま怯えきっている。聞いたこともない低い声を響かせると、異質だった世界が現実の色に戻っていく。
琴音は自分の体を抱きしめており、片方の手には鋭利な刃が握られていた。
カン、と滑り落ちたその刃物は、屋上のコンクリートを削り取りながら、乾いた音を立てた。赤い液体のようなものが、絵の具のように飛び散った。
「――え、ぜん、きち……?」
琴音の前、屋上の中央には寝転ぶように倒れている凪がいた。屋上以外の雑音は一切遮断されており、凪の小さな声もはっきりと耳に届いた。お腹を押さえている手は赤く濡れていて、制服も染みのようにじんわりと赤く広がっていた。
はあ……、はあ……。
俺の息も別人の声のように聞こえる。頭の裏からうなじあたりに、拡声器を押し当てられたように体の中に声が浸透していく。倒れている凪の隣にもう一人の影がある。
「……」
沈む夕日を背景に、恋仲の黒い髪がさらさらと流れていた。凛とした表情は、俺がそう見えるよう歪ませているだけなのか、凪を庇うような位置で立っていた。
――三人。ナイフを持っていた琴音、倒れている凪、その隣に立つ恋仲。どこか遠くで笑い声が聞こえる。それは風なのか、透明な観衆のざわめきなのか。
「どうして、どうして!? なんで、なんでなんで!?」
琴音の絶叫が屋上の静寂を破り続けている。手に持っていた赤く濡れていた刃物、倒れている凪。目まぐるしく状況が変わる毎日に、脳が焼き切れそうだ。現実に目を背けたい。こんな状況耐えられない。一刻も早く恋仲と凪の傍に駆け寄りたい、だが、最初に駆け寄るべきは琴音なんじゃないか。ぐるぐるぐるぐると逡巡するだけで答えなんか出ず、結果、ただ立ち尽くしてしまっている。
「……琴音、落ち着け、落ち着いて……」
ひび割れていた境界線が幾重にも分岐し、無数の亀裂になって広がっていく。ここから先は、どんな言葉を選んでも地獄しかない。地獄の中にいるのに、落ち着け、なんて言葉で冷静になるわけがない。もがき苦しむだけだ。琴音への言葉は無意味だってわかっていても、それしか出てこない。
琴音が呼んだんだろ? 違うのか……?
「なんでえ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!? 来ないって、来ないって、言ったよねえええっ!?」
琴音の口は引き裂かれるくらい真横に広がって、そこからたどたどしい声が響く。両手で髪をかき上げ、別の場所を見ている。あのときの比じゃない。
はあ……、はあ……。
顔がひしゃげるくらい表情を歪ませている琴音と、小学生だったあの日の泣き顔が重なる。感情に吞み込まれないように、俺は自分のふとももを強くつねった。痛みが過去の記憶と衝突し、なんとか踏み留まれる。
琴音は、さっきから明後日の方向を向き叫んでいる。俺は足音を立てないように、少しずつ恋仲の方へ近づいていく。恋仲の顔は緊張で強張っていた。けれど、俺への視線は外さなかった。凪は額に脂汗を浮かばせ、両手で脇腹を押さえつけている。
「恋仲、大丈夫か? 怪我はないか?」
こくん、と大きく頷く恋仲。
パッと見る限り問題はなさそうに見える。しかし、恋仲の顔は血の気が引いたように青ざめていて、強がっているのは一目でわかった。
くそ、こんな顔をもう恋仲にさせてたまるかって、心に決めたのに。
「凪も……、平気か?」
「ついでみたいに言わないでよ。……なんだか、おもしろいことおきそうじゃん」
依然として状況が把握できない。それよりも先に、警察と救急車を……。
「ねええええ!? 聞いてるのっ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!」
両手で髪をくしゃくしゃにした琴音が俺の気配に気づき振り向く。俺の動きを制するかのように、同じことを繰り返している。
「違うの、違うのチガウ! 恋仲さんがやったの、そこの倒れてる人! 刺したの! 琴音は止めようとしたんだよ? そう、そう! 琴音は止めようとした!」
恋仲が静かに首を振り、凪は面白そうに笑っている。琴音はまた別の方向を見ている。屋上の出入り口に向かって、何度も「どうして」と繰り返している。
俺のシャツの裾が、恋仲にそっと触れられる。ぐっと強く引き止められる。恋仲は何も言わず、じっと出入り口を見つめていた。
「……」
琴音が向ける視線の先もまた、屋上の出入り口を指している。その先に何か、動くものがあった。
「ねえ!? 斎ちゃん! 答えてよ!!」
いつき、ちゃん――。
誰かいるのか……?
出入り口の扉の後ろから黒い輪郭が現れる。
夕日の逆光で影だけが陽炎のように揺れていた。
鋭く光る何かだけが、手元で瞬いた気がする。扉が閉まり、鍵が閉まった音がした。
「……琴音ちゃん」
闇の中に溶け込むような声で、一歩ずつ、ゆっくりとした歩幅で現れるもう一つの影。琴音と呼んだ声には、人の温かみなんて一切感じられなかった。
斎、と呼ばれたその影は、すらりとした背丈で、ろうそくのように細かった。ろうそくとは違うのは、風でゆらゆら揺れる火ではないこと。彼女の髪はろうのように垂れ下がって体に貼り付いていた。泥のように艶のない髪は、湿気を吸ったように顔にへばりつき、不気味にそのシルエットを歪めている。
「斎ちゃん! 話がちがうよ……斎ちゃんっ!」
琴音の呼びかけに微笑む女。
「黙れよ。バカ琴音。さっきからうるさい」
谷底から突き落とすような、冷たく蔑むような声。その笑顔は一瞬にして、鬼気迫った悪意のある顔に変化していた。
「――ひっ!? えっ……、えっ……」
琴音が短い悲鳴を上げる。体が小刻みに震えている。
「お久しぶりです。蔦森先輩」
泥の顔は、口元に不気味な半円の笑みを浮かべながら俺を見た。
「忘れましたか? たこ焼きパーティのとき、お邪魔していましたよ。面白かったですよね。そこの女が急に現れるんですから。面白くって、笑いを堪えるのに必死でしたよ」
……言われて思い出す。あのとき、琴音の隣に座っていたかもしれない。ハッキリとは覚えていないが、琴音がいつも友達だって俺に話すとき、よくその名前を出していた。そう、斎って名前だった気がする。
「まあ、そんなことはどうでもいいんです。蔦森先輩がこうして来てくれたんですから」
女はスカートの右脇に手を差し入れて、スマホを取り出した。無造作に俺めがけて投げつける。カラカラと、軽い音で足元に転がってきたのは、破壊されていたスマホだった。デコグマのカバー。恋仲のスマホだ。
「……お前か」
この女が恋仲にすり替わっていたのか?
俺を恋仲の病院に誘導させたのもこいつ。屋上に呼び出したのもこいつ。なんの為に?
疑問は残るが、間違いないのは、こいつは紛れもなく悪意に満ちていて、琴音がさっき落とした物と同じような刃物を手にしている。
そして、屋上の出入り口の鍵は掛けられた。それだけで味方ではないことは明白だ。
こいつは壊す気だと本能的に感じる。想像もつかないような、残酷で卑劣なやり方で。
「ああ、やっぱり。斎だけじゃ思い出しませんか? 先輩の家にお邪魔したときだって、思い出してくれませんでしたからね。まあ、思い出すわけがないと思っていましたので驚きはありませんでしたが。――では、改めて、自己紹介させてもらいますね」
くっくっと、抑えた声で笑う女。仰々しくスカートの片端をつまみ、膝を曲げる。
「柊斎、です。思い出しましたか、ぜんきちお兄ちゃん?」
大地と空が反転したようだった。柊、ひいらぎ、ヒイラギ……。
名前が浮かんだだけで胃液が逆流し、口の中にじわりと酸味が広がる。
また蘇ってくる。点字ブロック、赤い世界、琴音の泣き顔、あの背中。掴んだ母の腕が。
「思い出しましたか、ぜんきちお兄ちゃん。柊誠。あなたの、お母さんが不倫していた相手の娘ですよ。昔、一緒に遊んだでしょう?」
気づけば俺の体は小さくなっていて、中学生の体になっていた。隣には一つ下の琴音。無感情な瞳で、じっと俺に身を寄せたまま動かない。
「まだ反応できませんか? あなたが、突き落としたじゃないですか」
全身の力が抜け、あらゆる関節が折れ曲がって崩れていきそうだった。
原型を無くし、積み上げることができなくなった積み木のように。
角も、端面も、変形していく――。
口無し女……。恋仲のことを言っているのか? 一体、恋仲が何をしたっていうんだ!
『ハヤク、オニイチャン。オクジョウダヨ』
こんなふざけた入れ替わりの芝居は見苦しいだけだ。そもそも恋仲は、自分を変えたくて、頑張って生きているだけだ!
校門は閉まっていた。迷わず裏門に回る。ちらほらと部活終わりの生徒とすれ違う。グラウンドを経由して渡り廊下へ。人気の少ない裏口から土足のまま校内に入る。琴音なのか、クラスの誰かなのか、三国なのか、凪なのか、兄なのか、父なのか、俺なのか。
ありえない正体と形容しがたい歪な思考が、迷路のように入り組んでゴールに霧をかけて隠しているようだ。先が見えない。行き止まりにぶつかるたび、目から火花が出るくらい熱くなる。
屋上へ向かう。
廊下を滑るように走り、壁を駆け上るように階段を駆け上がる。
屋上へ――!
ガチャン!
扉は鍵が掛かっており、無慈悲に俺を拒絶した。
「なんだよ!!」
捻っても引いても押しても開かない。
「恋仲! いるのか!」
さっきから恋仲にメッセージも電話も飛ばしているが反応がない。来るのは、狂ったように笑うメッセージだけ。
ここまで来て俺は騙されたのか? こいつの適当な嘘に振り回されただけ? それこそ意味不明だ。俺を呼び出そうとしてどうする。生徒か先生に見つかって、学校に戻れなくさせることが目的なのか?
もう一度ドアノブを捻ろうとした時、カチャと鍵が開く音がした。息を呑んでドアノブを回す。錆び付いた金属音。外の光が踊り場に入ってくる。四角い朱色の光が床を切り取っていく。
空が赤い。充血しているような空模様が広がっている。太陽が地平の縁にしがみついて俺を凝視している。燃えるような赤い背景に、三つの影が、ぐにゃりと歪んで伸びていた。
「恋仲!」と叫んだが、異様な空気に飲み込まれ声が掻き消された。人影は揺らめいていて、現れた俺に、空洞の瞳が向けられている。どれもが一様に驚いた顔をしている。
温い風に乗って鉄の臭いが鼻についた。銀色の光沢を放つ何かが見える。息が荒い。自分の呼吸だけが、やけに鮮明に耳に届いている。
世界の終わり。引き返すことが出来ない現実に戦慄するしかない。
「お兄ちゃん、なんで……? なんで!?」
琴音が目を大きく見開いたまま怯えきっている。聞いたこともない低い声を響かせると、異質だった世界が現実の色に戻っていく。
琴音は自分の体を抱きしめており、片方の手には鋭利な刃が握られていた。
カン、と滑り落ちたその刃物は、屋上のコンクリートを削り取りながら、乾いた音を立てた。赤い液体のようなものが、絵の具のように飛び散った。
「――え、ぜん、きち……?」
琴音の前、屋上の中央には寝転ぶように倒れている凪がいた。屋上以外の雑音は一切遮断されており、凪の小さな声もはっきりと耳に届いた。お腹を押さえている手は赤く濡れていて、制服も染みのようにじんわりと赤く広がっていた。
はあ……、はあ……。
俺の息も別人の声のように聞こえる。頭の裏からうなじあたりに、拡声器を押し当てられたように体の中に声が浸透していく。倒れている凪の隣にもう一人の影がある。
「……」
沈む夕日を背景に、恋仲の黒い髪がさらさらと流れていた。凛とした表情は、俺がそう見えるよう歪ませているだけなのか、凪を庇うような位置で立っていた。
――三人。ナイフを持っていた琴音、倒れている凪、その隣に立つ恋仲。どこか遠くで笑い声が聞こえる。それは風なのか、透明な観衆のざわめきなのか。
「どうして、どうして!? なんで、なんでなんで!?」
琴音の絶叫が屋上の静寂を破り続けている。手に持っていた赤く濡れていた刃物、倒れている凪。目まぐるしく状況が変わる毎日に、脳が焼き切れそうだ。現実に目を背けたい。こんな状況耐えられない。一刻も早く恋仲と凪の傍に駆け寄りたい、だが、最初に駆け寄るべきは琴音なんじゃないか。ぐるぐるぐるぐると逡巡するだけで答えなんか出ず、結果、ただ立ち尽くしてしまっている。
「……琴音、落ち着け、落ち着いて……」
ひび割れていた境界線が幾重にも分岐し、無数の亀裂になって広がっていく。ここから先は、どんな言葉を選んでも地獄しかない。地獄の中にいるのに、落ち着け、なんて言葉で冷静になるわけがない。もがき苦しむだけだ。琴音への言葉は無意味だってわかっていても、それしか出てこない。
琴音が呼んだんだろ? 違うのか……?
「なんでえ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!? 来ないって、来ないって、言ったよねえええっ!?」
琴音の口は引き裂かれるくらい真横に広がって、そこからたどたどしい声が響く。両手で髪をかき上げ、別の場所を見ている。あのときの比じゃない。
はあ……、はあ……。
顔がひしゃげるくらい表情を歪ませている琴音と、小学生だったあの日の泣き顔が重なる。感情に吞み込まれないように、俺は自分のふとももを強くつねった。痛みが過去の記憶と衝突し、なんとか踏み留まれる。
琴音は、さっきから明後日の方向を向き叫んでいる。俺は足音を立てないように、少しずつ恋仲の方へ近づいていく。恋仲の顔は緊張で強張っていた。けれど、俺への視線は外さなかった。凪は額に脂汗を浮かばせ、両手で脇腹を押さえつけている。
「恋仲、大丈夫か? 怪我はないか?」
こくん、と大きく頷く恋仲。
パッと見る限り問題はなさそうに見える。しかし、恋仲の顔は血の気が引いたように青ざめていて、強がっているのは一目でわかった。
くそ、こんな顔をもう恋仲にさせてたまるかって、心に決めたのに。
「凪も……、平気か?」
「ついでみたいに言わないでよ。……なんだか、おもしろいことおきそうじゃん」
依然として状況が把握できない。それよりも先に、警察と救急車を……。
「ねええええ!? 聞いてるのっ!? なんでお兄ちゃんがここにいるの!」
両手で髪をくしゃくしゃにした琴音が俺の気配に気づき振り向く。俺の動きを制するかのように、同じことを繰り返している。
「違うの、違うのチガウ! 恋仲さんがやったの、そこの倒れてる人! 刺したの! 琴音は止めようとしたんだよ? そう、そう! 琴音は止めようとした!」
恋仲が静かに首を振り、凪は面白そうに笑っている。琴音はまた別の方向を見ている。屋上の出入り口に向かって、何度も「どうして」と繰り返している。
俺のシャツの裾が、恋仲にそっと触れられる。ぐっと強く引き止められる。恋仲は何も言わず、じっと出入り口を見つめていた。
「……」
琴音が向ける視線の先もまた、屋上の出入り口を指している。その先に何か、動くものがあった。
「ねえ!? 斎ちゃん! 答えてよ!!」
いつき、ちゃん――。
誰かいるのか……?
出入り口の扉の後ろから黒い輪郭が現れる。
夕日の逆光で影だけが陽炎のように揺れていた。
鋭く光る何かだけが、手元で瞬いた気がする。扉が閉まり、鍵が閉まった音がした。
「……琴音ちゃん」
闇の中に溶け込むような声で、一歩ずつ、ゆっくりとした歩幅で現れるもう一つの影。琴音と呼んだ声には、人の温かみなんて一切感じられなかった。
斎、と呼ばれたその影は、すらりとした背丈で、ろうそくのように細かった。ろうそくとは違うのは、風でゆらゆら揺れる火ではないこと。彼女の髪はろうのように垂れ下がって体に貼り付いていた。泥のように艶のない髪は、湿気を吸ったように顔にへばりつき、不気味にそのシルエットを歪めている。
「斎ちゃん! 話がちがうよ……斎ちゃんっ!」
琴音の呼びかけに微笑む女。
「黙れよ。バカ琴音。さっきからうるさい」
谷底から突き落とすような、冷たく蔑むような声。その笑顔は一瞬にして、鬼気迫った悪意のある顔に変化していた。
「――ひっ!? えっ……、えっ……」
琴音が短い悲鳴を上げる。体が小刻みに震えている。
「お久しぶりです。蔦森先輩」
泥の顔は、口元に不気味な半円の笑みを浮かべながら俺を見た。
「忘れましたか? たこ焼きパーティのとき、お邪魔していましたよ。面白かったですよね。そこの女が急に現れるんですから。面白くって、笑いを堪えるのに必死でしたよ」
……言われて思い出す。あのとき、琴音の隣に座っていたかもしれない。ハッキリとは覚えていないが、琴音がいつも友達だって俺に話すとき、よくその名前を出していた。そう、斎って名前だった気がする。
「まあ、そんなことはどうでもいいんです。蔦森先輩がこうして来てくれたんですから」
女はスカートの右脇に手を差し入れて、スマホを取り出した。無造作に俺めがけて投げつける。カラカラと、軽い音で足元に転がってきたのは、破壊されていたスマホだった。デコグマのカバー。恋仲のスマホだ。
「……お前か」
この女が恋仲にすり替わっていたのか?
俺を恋仲の病院に誘導させたのもこいつ。屋上に呼び出したのもこいつ。なんの為に?
疑問は残るが、間違いないのは、こいつは紛れもなく悪意に満ちていて、琴音がさっき落とした物と同じような刃物を手にしている。
そして、屋上の出入り口の鍵は掛けられた。それだけで味方ではないことは明白だ。
こいつは壊す気だと本能的に感じる。想像もつかないような、残酷で卑劣なやり方で。
「ああ、やっぱり。斎だけじゃ思い出しませんか? 先輩の家にお邪魔したときだって、思い出してくれませんでしたからね。まあ、思い出すわけがないと思っていましたので驚きはありませんでしたが。――では、改めて、自己紹介させてもらいますね」
くっくっと、抑えた声で笑う女。仰々しくスカートの片端をつまみ、膝を曲げる。
「柊斎、です。思い出しましたか、ぜんきちお兄ちゃん?」
大地と空が反転したようだった。柊、ひいらぎ、ヒイラギ……。
名前が浮かんだだけで胃液が逆流し、口の中にじわりと酸味が広がる。
また蘇ってくる。点字ブロック、赤い世界、琴音の泣き顔、あの背中。掴んだ母の腕が。
「思い出しましたか、ぜんきちお兄ちゃん。柊誠。あなたの、お母さんが不倫していた相手の娘ですよ。昔、一緒に遊んだでしょう?」
気づけば俺の体は小さくなっていて、中学生の体になっていた。隣には一つ下の琴音。無感情な瞳で、じっと俺に身を寄せたまま動かない。
「まだ反応できませんか? あなたが、突き落としたじゃないですか」
全身の力が抜け、あらゆる関節が折れ曲がって崩れていきそうだった。
原型を無くし、積み上げることができなくなった積み木のように。
角も、端面も、変形していく――。
