文字が表示されるだけなのに、頭の中では加工された音声のような笑い声が木霊している。
誰だ、こいつは。
『恋仲を突き落としたのはお前か』
『ハハハハアハハハハ』
何を聞こうとも、意味不明な笑い声が返ってくるだけだ。
俺はいつから、こいつと、会話していた?
いつから『恋仲』だと勘違いしていた?
両腕にくっきりと鳥肌が立つ。おぞましく不気味で苛立ちより恐怖が勝る。
どこまでが『恋仲』で、どこからが『こいつ』だったんだ?
とん、と恋仲の手が肩に触れる。思わず「わっ」と、声を上げてしまった。恋仲が眉を下げ、心配そうに俺の表情を覗いている。会話の内容を言うべきか、黙っておくべきか。どちらの選択も最悪だ。かといって、このまま放っておくのも論外だ。
「恋仲、スマホを止めよう。誰かに盗まれた」
携帯を利用停止にしよう。必要だったら警察に連絡したっていい。青ざめた表情になった恋仲は、慌ててタブレットに文字を打ち込み、画面を見せる。携帯番号だった。
『ハハハハ、オマエハ、赦サレルトデモ?』
メッセージ内容が具体的になってきた。あの紙切れの記憶と繋がっていく。嫌な思考を振り切り、恋仲が示した番号へ電話する。数コールの後、「はい」と男の声がした。聞き覚えがある。恋仲の兄だ。
「蔦森です! 恋仲、妹さんのスマホが紛失しているの知ってますか! 誰かに盗まれているみたいです! 利用停止にしてもらえませんか!」
「……蔦森?」
低い声で俺の名前を繰り返す。ちんたらやってる場合じゃないんだって!
「今、恋仲が入院している病院に居ます。できるなら早く来てください! その前に携帯を止めて下さい! 悪用されてからでは遅いんです! 全部説明しますから、早く携帯だけでも!」
「病院だと? お前、何をしている」
「いいから早くやれって! 後で説明するって言ってんだろ!」
大声を出してしまい恋仲を見ると案の定驚いた顔をしていた。しまった……、くそ。
お願いします。いたずらでも冗談でもないんです。恋仲が階段から落ちたときに、誰かに盗まれたんです。今もスマホの中身をいじられてるんです」
電話の向こうで兄が嘆息した。数秒経って、「……わかった。向かう。携帯も止める」そう言って電話は切れた。俺の大声が響きすぎたのだろう、扉がノックされ看護師が入ってきた。
「どうかされましたか?」
険しい顔つきで看護師は俺を見る。そこからはもう説明するだけだった。途中で兄が駆け付け、また同じことを説明する。無断で入ったことは、恋仲と兄が助け舟を出してくれ、今回だけと見逃してもらえたが厳重注意を受けた。
部屋から追い出され一階の出入り口前で兄と二人きりになる。そこで簡単に恋仲の状況も説明してもらえた。腕と膝を擦りむき、肩と腰も打ったが、骨にも頭にも異常はないらしい。念のため一晩様子を見て、問題がなければ明日の朝には退院できるという。
学校での状況についても教えてもらえた。兄が恋仲のもとに駆け付けたとき、誰かが先生たちより早く救急車を呼んでいたらしい。
外はすっかり夜になっていた。病室から出る際、気付かれないように手を振ってくれた恋仲が忘れられない。
「お前は意味不明な男だな」
一通り説明を終えた兄の次の言葉がこれだった。適度な距離を保ちながら、長めのベンチに腰を掛ける。
なぜ電話先が親ではなく兄だったのか。それを聞くのは野暮だと思って聞けないが、なんとなくそんな気がしていて、恋仲のことを思うと胸が苦しくなる。
見てほしい、友達だってできる、普通になりたい。
それが恋仲の願いだった。それはつまり、恋仲にとっての日常は、全て反対のことだったのではと思う。
「最初にお前に言った言葉。撤回する」
恋仲の兄は前を向いたまま続けた。
「お前は、ちゃんとした人間だった」
それだけ言うと、立ち上がって背を向けた。
ちゃんとなんかしていない。でも、ちゃんとしようと、しなくちゃいけないと心に決めた。だから、そう言ってくれたことは素直に嬉しかった。
「ひな緒は一人だ。家でも。学校でも。そして、強がりで、泣き虫だ。俺は出来る限り、ひな緒の傍にいるつもりだが、それでも限界がある。母さんからは……」
兄の言葉が一瞬途切れる。大事なことを言おうとしている空気を感じたが、その隙間を遮るように兄の背中に向かって言った。
「いえ、言わなくても大丈夫です。恋仲が自分で話したいときに聞きます」
俺だって、俺の全てを恋仲に話しているわけじゃない。話す必要があるのか、それもわからないけど、今じゃない気がした。ましてや、兄から聞くなんて違う気もする。自分のことはやはり自分から喋りたいし、恋仲だってそうだろうと思った。
「そうか」
大きな体は再びこちらに向き、ベンチに座ったままの俺に視線を投げた。兄の鋭い目つきは、いつもの威圧感が弱まっているように感じた。
「良ければ、これからもひな緒とよくしてやってくれ。ただ、調子にだけは乗るなよ」
踵を返して、風を切るように兄は病院の中へ入っていった。
* * *
コオロギかスズムシが草むらに隠れて鳴いているのを聞きながら帰った。寂し気な音色は、俺の心を撫でてくれているようだった。なるべく人気のない道を選ぶ。学生らしき人影を見かけるとつい角を曲がってしまい、かなり遠回りになってしまった。暗いしバレることはないだろうけど念には念を入れた。
考えるのは病院でのこと。恋仲の感触、唇の弾力。そして、あのメッセージ。恋仲はただ足を滑らせたんじゃない。誰かの悪意があったんじゃないか。
恋仲のスマホは利用停止にできた。代わりに連絡が手段はなくなったのは痛いが、連絡できたとしても、恋仲になりすましていた誰か、だったわけだけど。正体はわからないままだ。
兄の連絡先はわかった。万が一の際は、兄を通じて恋仲に連絡することはできるだろう。警察に相談するとも兄は言っていた。出来る限りの対応はできたと思う。
足取りは重い。足枷が嵌められているように膝が思った以上に上がらない。本音は家に帰りたくはなかったけどそうはいかない。
真正面からぶつからないと、恋仲に言った言葉が嘘になる。
「ただいま」
聞こえなくたっていい。自分からこう言うことで、気持ちを切り替える。しんとした家の中。リビングの明かりが点いている。玄関には、父と琴音の靴が並んでいた。
「琴音なら休んでる」
リビングに入ると父の声がした。
「そっか……」
父は老眼鏡を掛けてビールを飲み読書をしていた。ほとんど見るのはスーツ姿だったから、部屋着の父は別人のようだった。冷蔵庫を開け炭酸水を飲む。口の中で弾ける刺激は、瞬く間に俺の体の中に染み込んでいった。頭がスッキリしてくる。
父には迷惑をかけた。これはちゃんと謝らなくちゃいけない。嫌いとかそういう問題じゃない。最低限の言葉は伝えるべきだろう。果たして面と向かって言えるのかどうかだが。どうしても、顔を見てしまうと拒否反応を起こしたみたいに感情的になってしまう。
「父さん」
「善吉」
振り向いて声を掛けると、父も俺の名前を呼んで目が合った。
「なんだよ」
「どうした」
再び声が重なる。声が二回合わさっただけで、リビングに漂っていたヒリヒリとした緊張感が解されていく。
「色々迷惑かけてごめん……。停学も、今日のことも」
さすがに目を見ながら言えなかった。視線はテレビの方に向け、暗い画面にぼんやりと反射する父の姿を見つめる。恥ずかしさも悔しさもなく、素直に言えたことに驚いた。
「こっちに来て座りなさい」
テーブルに座るように指示される。言われるがまま父の目の前に座った。ビールを飲み干すと、ゆっくりとした口調で喋り出した。
「恋仲さんか?」
俺の反応を見て、父は呆れた顔をした。空になった缶を手のひらでくるくると回している。
「先生から聞いてる。恋仲さんに謝ろうと掛け合ったことも、お前が友達に手を上げたとき、恋仲さんを庇おうとしていたとも。琴音も何度も言っていたよ。恋仲さんが階段から滑って怪我したって。病院に行ってたんだろう?」
違う。本当は庇うなんかじゃなかった。三国に煽られてカッとなってしまっただけだ。殴ったときの感触と、嫌な昔の記憶が流れたが、目の奥に力をいれなくても、軽く目を閉じるだけで遮断できた。
父はいつの間にかもう一缶、冷蔵庫からビールを取り出し戻ってきていた。プルタブが開く音。炭酸が泡立つ音を黙って聞いていた。
「そうだよ。全部俺が悪い。俺が原因で今こうなってる! さっき謝っただろ……」
黙って酒を飲むだけだったから、つい口調を強めて反応してしまう。皺が入った目が何を見ているのか、正直わからない。
「……ああ。すまなかったな」
父のしわがれた声は初めて聞いた音だった。すぐにビールを流し込む、喉の音にかき消されたけど、俺の耳には確かに届いていた。
「母さんのことだ。俺はお前たちを見て大丈夫だと思い込んだ。誤解していた。隠していた気持ちに気付いてやれずにいた。みんなで母さんの墓石の前に立つことで、本当に吹っ切れる機会になるんじゃないか。勝手にそう思っていたんだ」
からん、ともう空になった缶がテーブルに置かれ、他の空き缶と並ぶ。
「お前たちを理由にしてしまった。一人で行く勇気がなかっただけだ」
自分の部屋に戻ろうとしていた俺は、父の言葉に椅子に縛りつけられたように動けなくなる。父は伏し目がちに俺を見ては照明を見上げると、ゆっくり目を閉じた。
「善吉の言う通りだ。お前たちは前に進んでる。進んでないのは……俺の方だ。自分で納得したかっただけだった。今更気付いたよ。お前たちの気持ちを第一に、なによりも尊重すべきだったのに。善吉と琴音、本当に大切なのは、二人がどうしたいか、それだけだったはずなのに。お前たちに向き合うのが、いつの間にか怖くなってしまっていたんだ」
「酔っぱらいすぎだろ……」
明らかに顔が赤い。きっと酔いに頼らないと言えなかったのだと思う。そう考えると、お酒って便利なものだなって興味は湧く。
「俺も、あの時は言いすぎたよ。……じゃあ、風呂入って寝るから」
「ああ」
おやすみと言い合えるにはまだ遠い。でもなんだか心が軽くなった気がする。どこの口がとか、言いたいことは山ほどあるけど、『今更気づいた』って言葉は、俺も同じだったから。
自室に戻ってベッドに寝転がる。父の言葉を反芻しているとポケットの中のスマホが震える。それが何か予想はついていた。
『別に悪い事なんてしてないよ。ちょっとだけ借りてお話してただけ。終わったら、ちゃんと返すつもりだったのに』
知らないアカウントからメッセージが届いている。
『お前は誰なんだ? 恋仲を落としたのはお前か? はっきりしろよ卑怯者が』
アカウント名は蔦森善吉だった。俺のアイコン画像もそのままだった。気持ちが悪い。聞くまでもなく、恋仲のスマホを盗んだ奴だってわかった。
『アッハハハハ! オトシタノハ、オマエダロ?』
――本当に狂っている。
『あの紙切れもお前か? くだらないカタカナ遊びする前に、言いたいことがあるなら言えよ』
通話ボタンを押す。こんなやり取りするだけ無駄だ。直ぐに繋がったが同時に切られる。
もう一度掛けるが、今度は一向に出なくなる。舌を打つとメッセージが来た。
『ス翫℃ス抵ス翫°スス縺励≠ス具ス鯉ス奇スス翫′ス具ス鯉ス翫オス難ス奇ス具ススス搾スス縺ゑスス厄ス阪jス後=』
画面を埋め尽くすほど、文字化けした文字列が延々と届き続ける。文字が俺を嘲笑うかのように暴れ続け、画面を見つめているだけで吐き気がする。
こいが誰か見当もつかない。一人なのか複数なのか、クラスの誰かなのか。
画面が意味を成さない文字でどんどん埋まっていく。まともに見てられなくなる。
『黙れよ! 恥ずかしくて名乗れないのか? だったら、穴倉にでも引っ込んで二度と出てくるな。お前はもう通報されてる。せいぜい捕まるまで汚いとこで隠れてろよ!』
恐怖と怒り。せめてメッセージだけは冷静に見せようと思っても、どうしても攻撃的になってしまう。挑発すれば逆効果になるとわかっているのに。
『恋仲に何かしてみろ、絶対に許さないからな』
その気持ちは確かだったけど、恋仲だと思い込んで会話していた自分が、なにより悔しかった。
おそらく、恋仲と恋愛小説の話をした後、そこから何者かにすり替わっていたんだと思う。病院を告げたことも、寂しいと呟いたことも。
明日からでも動きたい。けど、自分の状況を思い知り絶望し続けるしかなかった。こんな状況だっていうのに、外に出られないなんて。
迂闊に手を出してしまった結果、事態はおさまるどころか余計に悪化している。
誰だ、こいつは。
『恋仲を突き落としたのはお前か』
『ハハハハアハハハハ』
何を聞こうとも、意味不明な笑い声が返ってくるだけだ。
俺はいつから、こいつと、会話していた?
いつから『恋仲』だと勘違いしていた?
両腕にくっきりと鳥肌が立つ。おぞましく不気味で苛立ちより恐怖が勝る。
どこまでが『恋仲』で、どこからが『こいつ』だったんだ?
とん、と恋仲の手が肩に触れる。思わず「わっ」と、声を上げてしまった。恋仲が眉を下げ、心配そうに俺の表情を覗いている。会話の内容を言うべきか、黙っておくべきか。どちらの選択も最悪だ。かといって、このまま放っておくのも論外だ。
「恋仲、スマホを止めよう。誰かに盗まれた」
携帯を利用停止にしよう。必要だったら警察に連絡したっていい。青ざめた表情になった恋仲は、慌ててタブレットに文字を打ち込み、画面を見せる。携帯番号だった。
『ハハハハ、オマエハ、赦サレルトデモ?』
メッセージ内容が具体的になってきた。あの紙切れの記憶と繋がっていく。嫌な思考を振り切り、恋仲が示した番号へ電話する。数コールの後、「はい」と男の声がした。聞き覚えがある。恋仲の兄だ。
「蔦森です! 恋仲、妹さんのスマホが紛失しているの知ってますか! 誰かに盗まれているみたいです! 利用停止にしてもらえませんか!」
「……蔦森?」
低い声で俺の名前を繰り返す。ちんたらやってる場合じゃないんだって!
「今、恋仲が入院している病院に居ます。できるなら早く来てください! その前に携帯を止めて下さい! 悪用されてからでは遅いんです! 全部説明しますから、早く携帯だけでも!」
「病院だと? お前、何をしている」
「いいから早くやれって! 後で説明するって言ってんだろ!」
大声を出してしまい恋仲を見ると案の定驚いた顔をしていた。しまった……、くそ。
お願いします。いたずらでも冗談でもないんです。恋仲が階段から落ちたときに、誰かに盗まれたんです。今もスマホの中身をいじられてるんです」
電話の向こうで兄が嘆息した。数秒経って、「……わかった。向かう。携帯も止める」そう言って電話は切れた。俺の大声が響きすぎたのだろう、扉がノックされ看護師が入ってきた。
「どうかされましたか?」
険しい顔つきで看護師は俺を見る。そこからはもう説明するだけだった。途中で兄が駆け付け、また同じことを説明する。無断で入ったことは、恋仲と兄が助け舟を出してくれ、今回だけと見逃してもらえたが厳重注意を受けた。
部屋から追い出され一階の出入り口前で兄と二人きりになる。そこで簡単に恋仲の状況も説明してもらえた。腕と膝を擦りむき、肩と腰も打ったが、骨にも頭にも異常はないらしい。念のため一晩様子を見て、問題がなければ明日の朝には退院できるという。
学校での状況についても教えてもらえた。兄が恋仲のもとに駆け付けたとき、誰かが先生たちより早く救急車を呼んでいたらしい。
外はすっかり夜になっていた。病室から出る際、気付かれないように手を振ってくれた恋仲が忘れられない。
「お前は意味不明な男だな」
一通り説明を終えた兄の次の言葉がこれだった。適度な距離を保ちながら、長めのベンチに腰を掛ける。
なぜ電話先が親ではなく兄だったのか。それを聞くのは野暮だと思って聞けないが、なんとなくそんな気がしていて、恋仲のことを思うと胸が苦しくなる。
見てほしい、友達だってできる、普通になりたい。
それが恋仲の願いだった。それはつまり、恋仲にとっての日常は、全て反対のことだったのではと思う。
「最初にお前に言った言葉。撤回する」
恋仲の兄は前を向いたまま続けた。
「お前は、ちゃんとした人間だった」
それだけ言うと、立ち上がって背を向けた。
ちゃんとなんかしていない。でも、ちゃんとしようと、しなくちゃいけないと心に決めた。だから、そう言ってくれたことは素直に嬉しかった。
「ひな緒は一人だ。家でも。学校でも。そして、強がりで、泣き虫だ。俺は出来る限り、ひな緒の傍にいるつもりだが、それでも限界がある。母さんからは……」
兄の言葉が一瞬途切れる。大事なことを言おうとしている空気を感じたが、その隙間を遮るように兄の背中に向かって言った。
「いえ、言わなくても大丈夫です。恋仲が自分で話したいときに聞きます」
俺だって、俺の全てを恋仲に話しているわけじゃない。話す必要があるのか、それもわからないけど、今じゃない気がした。ましてや、兄から聞くなんて違う気もする。自分のことはやはり自分から喋りたいし、恋仲だってそうだろうと思った。
「そうか」
大きな体は再びこちらに向き、ベンチに座ったままの俺に視線を投げた。兄の鋭い目つきは、いつもの威圧感が弱まっているように感じた。
「良ければ、これからもひな緒とよくしてやってくれ。ただ、調子にだけは乗るなよ」
踵を返して、風を切るように兄は病院の中へ入っていった。
* * *
コオロギかスズムシが草むらに隠れて鳴いているのを聞きながら帰った。寂し気な音色は、俺の心を撫でてくれているようだった。なるべく人気のない道を選ぶ。学生らしき人影を見かけるとつい角を曲がってしまい、かなり遠回りになってしまった。暗いしバレることはないだろうけど念には念を入れた。
考えるのは病院でのこと。恋仲の感触、唇の弾力。そして、あのメッセージ。恋仲はただ足を滑らせたんじゃない。誰かの悪意があったんじゃないか。
恋仲のスマホは利用停止にできた。代わりに連絡が手段はなくなったのは痛いが、連絡できたとしても、恋仲になりすましていた誰か、だったわけだけど。正体はわからないままだ。
兄の連絡先はわかった。万が一の際は、兄を通じて恋仲に連絡することはできるだろう。警察に相談するとも兄は言っていた。出来る限りの対応はできたと思う。
足取りは重い。足枷が嵌められているように膝が思った以上に上がらない。本音は家に帰りたくはなかったけどそうはいかない。
真正面からぶつからないと、恋仲に言った言葉が嘘になる。
「ただいま」
聞こえなくたっていい。自分からこう言うことで、気持ちを切り替える。しんとした家の中。リビングの明かりが点いている。玄関には、父と琴音の靴が並んでいた。
「琴音なら休んでる」
リビングに入ると父の声がした。
「そっか……」
父は老眼鏡を掛けてビールを飲み読書をしていた。ほとんど見るのはスーツ姿だったから、部屋着の父は別人のようだった。冷蔵庫を開け炭酸水を飲む。口の中で弾ける刺激は、瞬く間に俺の体の中に染み込んでいった。頭がスッキリしてくる。
父には迷惑をかけた。これはちゃんと謝らなくちゃいけない。嫌いとかそういう問題じゃない。最低限の言葉は伝えるべきだろう。果たして面と向かって言えるのかどうかだが。どうしても、顔を見てしまうと拒否反応を起こしたみたいに感情的になってしまう。
「父さん」
「善吉」
振り向いて声を掛けると、父も俺の名前を呼んで目が合った。
「なんだよ」
「どうした」
再び声が重なる。声が二回合わさっただけで、リビングに漂っていたヒリヒリとした緊張感が解されていく。
「色々迷惑かけてごめん……。停学も、今日のことも」
さすがに目を見ながら言えなかった。視線はテレビの方に向け、暗い画面にぼんやりと反射する父の姿を見つめる。恥ずかしさも悔しさもなく、素直に言えたことに驚いた。
「こっちに来て座りなさい」
テーブルに座るように指示される。言われるがまま父の目の前に座った。ビールを飲み干すと、ゆっくりとした口調で喋り出した。
「恋仲さんか?」
俺の反応を見て、父は呆れた顔をした。空になった缶を手のひらでくるくると回している。
「先生から聞いてる。恋仲さんに謝ろうと掛け合ったことも、お前が友達に手を上げたとき、恋仲さんを庇おうとしていたとも。琴音も何度も言っていたよ。恋仲さんが階段から滑って怪我したって。病院に行ってたんだろう?」
違う。本当は庇うなんかじゃなかった。三国に煽られてカッとなってしまっただけだ。殴ったときの感触と、嫌な昔の記憶が流れたが、目の奥に力をいれなくても、軽く目を閉じるだけで遮断できた。
父はいつの間にかもう一缶、冷蔵庫からビールを取り出し戻ってきていた。プルタブが開く音。炭酸が泡立つ音を黙って聞いていた。
「そうだよ。全部俺が悪い。俺が原因で今こうなってる! さっき謝っただろ……」
黙って酒を飲むだけだったから、つい口調を強めて反応してしまう。皺が入った目が何を見ているのか、正直わからない。
「……ああ。すまなかったな」
父のしわがれた声は初めて聞いた音だった。すぐにビールを流し込む、喉の音にかき消されたけど、俺の耳には確かに届いていた。
「母さんのことだ。俺はお前たちを見て大丈夫だと思い込んだ。誤解していた。隠していた気持ちに気付いてやれずにいた。みんなで母さんの墓石の前に立つことで、本当に吹っ切れる機会になるんじゃないか。勝手にそう思っていたんだ」
からん、ともう空になった缶がテーブルに置かれ、他の空き缶と並ぶ。
「お前たちを理由にしてしまった。一人で行く勇気がなかっただけだ」
自分の部屋に戻ろうとしていた俺は、父の言葉に椅子に縛りつけられたように動けなくなる。父は伏し目がちに俺を見ては照明を見上げると、ゆっくり目を閉じた。
「善吉の言う通りだ。お前たちは前に進んでる。進んでないのは……俺の方だ。自分で納得したかっただけだった。今更気付いたよ。お前たちの気持ちを第一に、なによりも尊重すべきだったのに。善吉と琴音、本当に大切なのは、二人がどうしたいか、それだけだったはずなのに。お前たちに向き合うのが、いつの間にか怖くなってしまっていたんだ」
「酔っぱらいすぎだろ……」
明らかに顔が赤い。きっと酔いに頼らないと言えなかったのだと思う。そう考えると、お酒って便利なものだなって興味は湧く。
「俺も、あの時は言いすぎたよ。……じゃあ、風呂入って寝るから」
「ああ」
おやすみと言い合えるにはまだ遠い。でもなんだか心が軽くなった気がする。どこの口がとか、言いたいことは山ほどあるけど、『今更気づいた』って言葉は、俺も同じだったから。
自室に戻ってベッドに寝転がる。父の言葉を反芻しているとポケットの中のスマホが震える。それが何か予想はついていた。
『別に悪い事なんてしてないよ。ちょっとだけ借りてお話してただけ。終わったら、ちゃんと返すつもりだったのに』
知らないアカウントからメッセージが届いている。
『お前は誰なんだ? 恋仲を落としたのはお前か? はっきりしろよ卑怯者が』
アカウント名は蔦森善吉だった。俺のアイコン画像もそのままだった。気持ちが悪い。聞くまでもなく、恋仲のスマホを盗んだ奴だってわかった。
『アッハハハハ! オトシタノハ、オマエダロ?』
――本当に狂っている。
『あの紙切れもお前か? くだらないカタカナ遊びする前に、言いたいことがあるなら言えよ』
通話ボタンを押す。こんなやり取りするだけ無駄だ。直ぐに繋がったが同時に切られる。
もう一度掛けるが、今度は一向に出なくなる。舌を打つとメッセージが来た。
『ス翫℃ス抵ス翫°スス縺励≠ス具ス鯉ス奇スス翫′ス具ス鯉ス翫オス難ス奇ス具ススス搾スス縺ゑスス厄ス阪jス後=』
画面を埋め尽くすほど、文字化けした文字列が延々と届き続ける。文字が俺を嘲笑うかのように暴れ続け、画面を見つめているだけで吐き気がする。
こいが誰か見当もつかない。一人なのか複数なのか、クラスの誰かなのか。
画面が意味を成さない文字でどんどん埋まっていく。まともに見てられなくなる。
『黙れよ! 恥ずかしくて名乗れないのか? だったら、穴倉にでも引っ込んで二度と出てくるな。お前はもう通報されてる。せいぜい捕まるまで汚いとこで隠れてろよ!』
恐怖と怒り。せめてメッセージだけは冷静に見せようと思っても、どうしても攻撃的になってしまう。挑発すれば逆効果になるとわかっているのに。
『恋仲に何かしてみろ、絶対に許さないからな』
その気持ちは確かだったけど、恋仲だと思い込んで会話していた自分が、なにより悔しかった。
おそらく、恋仲と恋愛小説の話をした後、そこから何者かにすり替わっていたんだと思う。病院を告げたことも、寂しいと呟いたことも。
明日からでも動きたい。けど、自分の状況を思い知り絶望し続けるしかなかった。こんな状況だっていうのに、外に出られないなんて。
迂闊に手を出してしまった結果、事態はおさまるどころか余計に悪化している。
