恋仲の頬を伝う一筋の涙。
何でもないと小首を傾げ、それ以上流れないよう、両手でせき止める。上を向いて溢れ出ないようにする。
ほんの数秒の静寂――でも、指先一つの震えやまつげの揺れだけで、恋仲の想いが痛いほど俺にぶつかってくる。
人前で泣くなんて、同情を誘っているだけだと思っていた俺。
人前で泣くのは、きっと負けだと思い込んでいた、恋仲。
――どれも、間違っていた。
人前で泣くって、誰かと繋がりたい、伝えたい、触れ合いたい。そんな純粋な気持ちの表れなんだと俺は思う。我慢する必要なんてないんだって後押ししてあげたい。つい最近知ったばかりの俺が偉そうだけど、この気持ちって迷惑だろうか。
「泣くってさ、案外悪くないんだよ。実はこれ、恋仲が教えてくれたことなんだ」
恋仲を傷つけて謝ったあの日。色んな感情がごちゃ混ぜになっていたけど、恋仲にごめんと伝えたい気持ちがあったから、止まらなかったんじゃないかと思う。みっともない顔をしてた。鼻水だって垂らして泣いた。でも、そんなことは気にせず、ちょっとしたお返しはあったけど、恋仲は笑って許してくれた。それは、俺の気持ちを伝えられたからなんじゃないかって。
恋仲の瞼が閉じる。両目から大きな雫が一粒ずつ、タブレットの上に落ちる。
恋仲は、これは違うよ? と、手を振りながら笑おうとするが、そうする度にまた新しい涙がぽつぽつと、雨のように重なっていく。手の甲で拭おうとも、首を振ろうとも、一度溢れた涙は止めることはできなかった。
「……ん……っ」
俺はもう何も言わず、少しでも恋仲が安心できるようにと思って微笑み返す。
恋仲はうな垂れ、流れる涙を懸命に手で拭い続ける。
タブレットには、彼女が今まで堪えていた残滓が雨のように降り注いでいた。そっと、恋仲の指がタブレットをなぞる。か細く揺れる人差し指がタブレットの上をタタタと滑る。
『普通になりたいんです』
俺に見せるでもなく、そう文字が浮かび上がっていた。
その一言に詰まっている気がした。恋仲は気持ちを伝えようとしてくれている。その言葉をしっかり胸に刻み付けなくちゃいけない。続く彼女の言葉を待った。恋仲はどう言おうか悩んでいる様子だった。
背筋を伸ばし、顔が紅潮するほど力を入れている。それでも涙は止まらない。でも、涙の意味を吐き出したい。そんな葛藤に苛まれているような表情で顔を濡らしていた。
『私だって頑張れる』
誤字を何回も直しながら、少しずつ、恋仲の気持ちが世界に届けられようとしている。
「っ……ぅ……はっ」
恋仲の詰まった嘆きは、やはり喋られないことが影響しているのだろう。息切れした呼吸音が見ていても聞いていても、容赦なく俺の心を抉っていく。
俺が想像するよりももっと、俺が見るようになる前からもっと、彼女はひたすらに前を見続けてきた。笑っていればきっと大丈夫だと、崩れる寸前の均衡を保ちながら、ひたすら前だけを見てきたんだ。
今まで我慢してきた。苦しくても、怖くても、それでも笑ってきたのだろう。そうするしかなかったのかもしれない。手でタブレットを固定し、何度も、何度も文字を消しながら、涙で滲んだタブレットは恋仲の気持ちを代弁する。
恋仲の無音の叫びを、タブレットのライトが激しく照らし出す。
『友達だってできる
遊びにだって行ける
好きなひとだってできる
だから わたしをみてほしい
わたしもふつうなんだってがんばるから
みとめて みとめてほしい それだけ
ほかはなにもいらない それだけ
ふつうに ふつうになりたい!
!!!
!!!!!
!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
全身全霊の声に言葉を失う。恋仲は嗚咽に似た呼吸を繰り返している。画面には「!!!」だけが延々と打ち込まれており、俺も恋仲を縛りつけている現実という鎖に絡まれて、恋仲が堪え、溜め込んできた激情を身を持って実感する。
ひゅう、ひゅう。
空気を撫でる恋仲の慟哭。切り裂きたくてもそれができない。力づくで鎖を引きちぎる。止まらないテキストのスクロールを止めるよう、手を伸ばして手のひらで恋仲の指を包む。抵抗するように恋仲の指に力が入ったが、ぎゅっと力を入れ握ると力が抜け、タブレットの叫びが止まった。
鼻を真っ赤にして、涙でびしょ濡れになった顔。勇気と我慢と自己犠牲や見栄、色んな感情が入り混じっている涙と叫び。恋仲は、震える呼吸を抑えながらじっと俺を見つめている。これが本当の私なんだと、ぎこちない笑みを浮かべながら。
これまでの自分の未熟さを思い知る。恋仲は笑いたくて笑っているわけじゃないのかもしれない。笑わないといけない所まで追い詰められていたんじゃないか。
普通になりたい、元々は特別クラスに居た恋仲。一学期の途中から普通クラスに移動してきたのは、そういった思いから考え抜いた行動だったのではないだろうか。
今受け止めきれなければ、二度と彼女には触れられない気がした。
――俺は立ち上がり、ベッドの上に座り、恋仲を抱きしめた。
屋上の時よりも強く、今度は呼び起こすように。その思いの丈を含んだ感情に、言葉の返答なんて要らない。恋仲の顔は俺の体温よりも熱く、俺の胸も潤いを帯びてくるようだった。
やっぱり恋仲の体は細くて強張っている。力を入れていないと、崩れ落ちてしまうのは屋上のときと同じだ。聞こえるのは俺の心臓の音と、恋仲の弱々しい呼吸音だけ――。
抱きしめる力を更に強めると、恋仲の両手がそっと俺の背中に回された。力はない。添えるように俺のシャツを指先でつまんでいる。しばらくそうした後、お互いが距離を離し、見つめ合うのは必然のように思えた。
恋仲の息が鼻にかかるような近い距離。一生分の鼓動を、ここで費やそうとしているくらい激しく脈を打っている。揺らがない恋仲への気持ちが、膨張しないように抑えつけてくれている。かすかに震える鼻先。恋仲の呼吸――濡れた頬、すうと吸い込む一呼吸の間。顔が近すぎて焦点が定まらない。
「――っ」
恋仲を安心させたかった。俺が味方になるって本気で伝えたかった。気づけば、俺は濡れた恋仲の唇に、自分の唇を重ねていた。
恋仲の全身が波打つように跳ね、指が俺のシャツの袖をつまんだ。ほんの数秒、数分だったかもしれない。お互い息をするのも忘れ、ただ、手を繋いでいるみたいに重なり合っていた。
唇が離れる。最後まで唇だけが名残惜しそうにひっつこうとしていた。恥ずかしさが後からやってくる。恋仲は顔が見えなくなるくらい俯いている。数秒お互い黙ったあと、恋仲の顔がゆっくり上がり、垂れた前髪の隙間から恋仲の透き通った瞳が俺を見上げる。
「あ、いやっ、ごっ!」
またごめんで謝って、空気をぼかすのは前と変わらない。恋仲はタブレットから手を離し、とろんとした目つきから次第に目を丸くさせ、自分の唇を確かめるように触れている。俺も自分の唇に触っていたので、視線が交わると、恋仲は目を細め小さな笑みを浮かべた。強がりでもない、柔らかな日差しのようだった。
この場で「好きだ」って言うべきか悩んだ。こんな状況だっていうのに。
心のどこかでは、何があったのかは今だけ二の次で、恋仲に大事がなかったことを知るのが一番の目的で、今は恋仲と触れ合い、現実を簡単に忘れてしまいそうになるほど甘くて、理性が吹き飛んでしまう夢みたいな雰囲気に浸っていたかった。
何も言わないこの静寂も、恋仲と心で会話している気がして、そう悩んだ躊躇いすら、ちっとも苦にならなかった。
タタタ、と旋律を奏でるように恋仲がタブレットを操作している。
『私のどこが好きなんですか?』
ドキンと心臓が跳ねる。
もしかして、「好きだ」と思ったことを、口にしていたのだろうか。二度も自分の意志とは裏腹に、そのまま言葉に出してしまうなんて。タブレットで恋仲の顔は隠れていて表情は見えない。文字を消そうとしないので、俺の返事を待っている。
恋仲の入院のこと、病院に忍び込んだこと、停学のこと、琴音のこと。頭を駆け回るが、今、この一瞬だけはこのことを忘れて、曖昧に流さずちゃんと気持ちを伝えるべきだって、そう思った。
「お、俺は……」
すうはあと、深呼吸する。言葉を噛んでしまわないよう、乾ききった口の中を、懸命に唾液で潤していく。
「辛い時に笑う顔も、嬉しい時に笑う顔も、怒ったときに笑う顔も、その……好き、なんだ。恋仲はそのつもりはないのかもしれないけど、恋仲の笑顔に、俺は救われたんだ。……自分と向き合えた。俺も普通になれるんじゃないかって気にさせてくれるんだ」
普通。人としての普通って一体なんだろう。喋れること? 停学にならないこと? 身体も心も問題がないこと? そんな人間、この世にいるのだろうか。
「それだけじゃない、笑顔も含めて、俺は恋仲の全部が好き。だから、俺はもっと恋仲のことを知りたい。前に言った、遊びにだって行きたいし、少しでも長く恋仲といたいって、そんなこと思ってる……」
いつの間にか、恋仲はタブレットから顔を覗かせて視線を送っている。見られていると思うと余計に恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
「だから、俺も、一緒に恋仲と普通を探したいなって……」
誰も何も言わない時間がゆっくりと流れる。病室の静けさと、夕日が沈んでいく光、恋仲から漂う甘い香りに包まれている。恋仲はタブレットをそっと脇に置いて、胸元を押さえた。俺の言葉を受け入れてくれているように見えた。
目線を泳がせながら、やがて俺の方を向いた恋仲は、ただ、『こくん』と頷いた。
タブレットもノートも使わない恋仲の返事。
その意味は俺にとって、世界が変わるくらいの大きな出来事で――。
ぴこん。
静謐な空気をスマホの通知音が割り込んだ。
緊張が解け、お互い笑いながら俺はスマホを確認する。父か琴音からの連絡だと思った。
『今から検査です。やっぱり一人は、ちょっとだけ、怖いです』
恋仲からのメッセージだった。
「ん……?」
恋仲は目の前にいる。スマホなんていじってない。
――ぴこん。
『私は大丈夫ですから。でも六〇二号室。来てくれること、少し期待していたりして』
なんで、恋仲からメッセージが来る? 目の前にいるだろ?
「こ、恋仲……、今メッセージ送った?」
ハッとした恋仲は、素早い手つきでタブレットに文字を打ち込んだ。
『スマホ、落としちゃったんです。たぶん、病院に運ばれる前だと思います』
「えっ?」
背筋に冷たいモノが走る。くしゃくしゃに丸めたメモ書きを見た時と同じ悪寒に襲われる。鋭い金属の刃先が全身の肌をなぞるような、ぞくりとした戦慄に声が漏れそうになる。
『誰だ、お前は』
送信するとすぐに返事が来た。
まるでその言葉を待っていたかのように。
『バレタ?』
画面上に白く浮かぶ文字。
病室の空気が一変する。夕日が雲に隠れ、闇が室内に落ちていく。俺も恋仲も金縛りにあったみたいに動けなかった。
『アハハハハハハ』
唯一、何者かわからない声だけが、無音の室内に――声もないのに、あり得ないくらい響いていた。
何でもないと小首を傾げ、それ以上流れないよう、両手でせき止める。上を向いて溢れ出ないようにする。
ほんの数秒の静寂――でも、指先一つの震えやまつげの揺れだけで、恋仲の想いが痛いほど俺にぶつかってくる。
人前で泣くなんて、同情を誘っているだけだと思っていた俺。
人前で泣くのは、きっと負けだと思い込んでいた、恋仲。
――どれも、間違っていた。
人前で泣くって、誰かと繋がりたい、伝えたい、触れ合いたい。そんな純粋な気持ちの表れなんだと俺は思う。我慢する必要なんてないんだって後押ししてあげたい。つい最近知ったばかりの俺が偉そうだけど、この気持ちって迷惑だろうか。
「泣くってさ、案外悪くないんだよ。実はこれ、恋仲が教えてくれたことなんだ」
恋仲を傷つけて謝ったあの日。色んな感情がごちゃ混ぜになっていたけど、恋仲にごめんと伝えたい気持ちがあったから、止まらなかったんじゃないかと思う。みっともない顔をしてた。鼻水だって垂らして泣いた。でも、そんなことは気にせず、ちょっとしたお返しはあったけど、恋仲は笑って許してくれた。それは、俺の気持ちを伝えられたからなんじゃないかって。
恋仲の瞼が閉じる。両目から大きな雫が一粒ずつ、タブレットの上に落ちる。
恋仲は、これは違うよ? と、手を振りながら笑おうとするが、そうする度にまた新しい涙がぽつぽつと、雨のように重なっていく。手の甲で拭おうとも、首を振ろうとも、一度溢れた涙は止めることはできなかった。
「……ん……っ」
俺はもう何も言わず、少しでも恋仲が安心できるようにと思って微笑み返す。
恋仲はうな垂れ、流れる涙を懸命に手で拭い続ける。
タブレットには、彼女が今まで堪えていた残滓が雨のように降り注いでいた。そっと、恋仲の指がタブレットをなぞる。か細く揺れる人差し指がタブレットの上をタタタと滑る。
『普通になりたいんです』
俺に見せるでもなく、そう文字が浮かび上がっていた。
その一言に詰まっている気がした。恋仲は気持ちを伝えようとしてくれている。その言葉をしっかり胸に刻み付けなくちゃいけない。続く彼女の言葉を待った。恋仲はどう言おうか悩んでいる様子だった。
背筋を伸ばし、顔が紅潮するほど力を入れている。それでも涙は止まらない。でも、涙の意味を吐き出したい。そんな葛藤に苛まれているような表情で顔を濡らしていた。
『私だって頑張れる』
誤字を何回も直しながら、少しずつ、恋仲の気持ちが世界に届けられようとしている。
「っ……ぅ……はっ」
恋仲の詰まった嘆きは、やはり喋られないことが影響しているのだろう。息切れした呼吸音が見ていても聞いていても、容赦なく俺の心を抉っていく。
俺が想像するよりももっと、俺が見るようになる前からもっと、彼女はひたすらに前を見続けてきた。笑っていればきっと大丈夫だと、崩れる寸前の均衡を保ちながら、ひたすら前だけを見てきたんだ。
今まで我慢してきた。苦しくても、怖くても、それでも笑ってきたのだろう。そうするしかなかったのかもしれない。手でタブレットを固定し、何度も、何度も文字を消しながら、涙で滲んだタブレットは恋仲の気持ちを代弁する。
恋仲の無音の叫びを、タブレットのライトが激しく照らし出す。
『友達だってできる
遊びにだって行ける
好きなひとだってできる
だから わたしをみてほしい
わたしもふつうなんだってがんばるから
みとめて みとめてほしい それだけ
ほかはなにもいらない それだけ
ふつうに ふつうになりたい!
!!!
!!!!!
!!!!!!!!!!!
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
全身全霊の声に言葉を失う。恋仲は嗚咽に似た呼吸を繰り返している。画面には「!!!」だけが延々と打ち込まれており、俺も恋仲を縛りつけている現実という鎖に絡まれて、恋仲が堪え、溜め込んできた激情を身を持って実感する。
ひゅう、ひゅう。
空気を撫でる恋仲の慟哭。切り裂きたくてもそれができない。力づくで鎖を引きちぎる。止まらないテキストのスクロールを止めるよう、手を伸ばして手のひらで恋仲の指を包む。抵抗するように恋仲の指に力が入ったが、ぎゅっと力を入れ握ると力が抜け、タブレットの叫びが止まった。
鼻を真っ赤にして、涙でびしょ濡れになった顔。勇気と我慢と自己犠牲や見栄、色んな感情が入り混じっている涙と叫び。恋仲は、震える呼吸を抑えながらじっと俺を見つめている。これが本当の私なんだと、ぎこちない笑みを浮かべながら。
これまでの自分の未熟さを思い知る。恋仲は笑いたくて笑っているわけじゃないのかもしれない。笑わないといけない所まで追い詰められていたんじゃないか。
普通になりたい、元々は特別クラスに居た恋仲。一学期の途中から普通クラスに移動してきたのは、そういった思いから考え抜いた行動だったのではないだろうか。
今受け止めきれなければ、二度と彼女には触れられない気がした。
――俺は立ち上がり、ベッドの上に座り、恋仲を抱きしめた。
屋上の時よりも強く、今度は呼び起こすように。その思いの丈を含んだ感情に、言葉の返答なんて要らない。恋仲の顔は俺の体温よりも熱く、俺の胸も潤いを帯びてくるようだった。
やっぱり恋仲の体は細くて強張っている。力を入れていないと、崩れ落ちてしまうのは屋上のときと同じだ。聞こえるのは俺の心臓の音と、恋仲の弱々しい呼吸音だけ――。
抱きしめる力を更に強めると、恋仲の両手がそっと俺の背中に回された。力はない。添えるように俺のシャツを指先でつまんでいる。しばらくそうした後、お互いが距離を離し、見つめ合うのは必然のように思えた。
恋仲の息が鼻にかかるような近い距離。一生分の鼓動を、ここで費やそうとしているくらい激しく脈を打っている。揺らがない恋仲への気持ちが、膨張しないように抑えつけてくれている。かすかに震える鼻先。恋仲の呼吸――濡れた頬、すうと吸い込む一呼吸の間。顔が近すぎて焦点が定まらない。
「――っ」
恋仲を安心させたかった。俺が味方になるって本気で伝えたかった。気づけば、俺は濡れた恋仲の唇に、自分の唇を重ねていた。
恋仲の全身が波打つように跳ね、指が俺のシャツの袖をつまんだ。ほんの数秒、数分だったかもしれない。お互い息をするのも忘れ、ただ、手を繋いでいるみたいに重なり合っていた。
唇が離れる。最後まで唇だけが名残惜しそうにひっつこうとしていた。恥ずかしさが後からやってくる。恋仲は顔が見えなくなるくらい俯いている。数秒お互い黙ったあと、恋仲の顔がゆっくり上がり、垂れた前髪の隙間から恋仲の透き通った瞳が俺を見上げる。
「あ、いやっ、ごっ!」
またごめんで謝って、空気をぼかすのは前と変わらない。恋仲はタブレットから手を離し、とろんとした目つきから次第に目を丸くさせ、自分の唇を確かめるように触れている。俺も自分の唇に触っていたので、視線が交わると、恋仲は目を細め小さな笑みを浮かべた。強がりでもない、柔らかな日差しのようだった。
この場で「好きだ」って言うべきか悩んだ。こんな状況だっていうのに。
心のどこかでは、何があったのかは今だけ二の次で、恋仲に大事がなかったことを知るのが一番の目的で、今は恋仲と触れ合い、現実を簡単に忘れてしまいそうになるほど甘くて、理性が吹き飛んでしまう夢みたいな雰囲気に浸っていたかった。
何も言わないこの静寂も、恋仲と心で会話している気がして、そう悩んだ躊躇いすら、ちっとも苦にならなかった。
タタタ、と旋律を奏でるように恋仲がタブレットを操作している。
『私のどこが好きなんですか?』
ドキンと心臓が跳ねる。
もしかして、「好きだ」と思ったことを、口にしていたのだろうか。二度も自分の意志とは裏腹に、そのまま言葉に出してしまうなんて。タブレットで恋仲の顔は隠れていて表情は見えない。文字を消そうとしないので、俺の返事を待っている。
恋仲の入院のこと、病院に忍び込んだこと、停学のこと、琴音のこと。頭を駆け回るが、今、この一瞬だけはこのことを忘れて、曖昧に流さずちゃんと気持ちを伝えるべきだって、そう思った。
「お、俺は……」
すうはあと、深呼吸する。言葉を噛んでしまわないよう、乾ききった口の中を、懸命に唾液で潤していく。
「辛い時に笑う顔も、嬉しい時に笑う顔も、怒ったときに笑う顔も、その……好き、なんだ。恋仲はそのつもりはないのかもしれないけど、恋仲の笑顔に、俺は救われたんだ。……自分と向き合えた。俺も普通になれるんじゃないかって気にさせてくれるんだ」
普通。人としての普通って一体なんだろう。喋れること? 停学にならないこと? 身体も心も問題がないこと? そんな人間、この世にいるのだろうか。
「それだけじゃない、笑顔も含めて、俺は恋仲の全部が好き。だから、俺はもっと恋仲のことを知りたい。前に言った、遊びにだって行きたいし、少しでも長く恋仲といたいって、そんなこと思ってる……」
いつの間にか、恋仲はタブレットから顔を覗かせて視線を送っている。見られていると思うと余計に恥ずかしくて顔から火が出そうになる。
「だから、俺も、一緒に恋仲と普通を探したいなって……」
誰も何も言わない時間がゆっくりと流れる。病室の静けさと、夕日が沈んでいく光、恋仲から漂う甘い香りに包まれている。恋仲はタブレットをそっと脇に置いて、胸元を押さえた。俺の言葉を受け入れてくれているように見えた。
目線を泳がせながら、やがて俺の方を向いた恋仲は、ただ、『こくん』と頷いた。
タブレットもノートも使わない恋仲の返事。
その意味は俺にとって、世界が変わるくらいの大きな出来事で――。
ぴこん。
静謐な空気をスマホの通知音が割り込んだ。
緊張が解け、お互い笑いながら俺はスマホを確認する。父か琴音からの連絡だと思った。
『今から検査です。やっぱり一人は、ちょっとだけ、怖いです』
恋仲からのメッセージだった。
「ん……?」
恋仲は目の前にいる。スマホなんていじってない。
――ぴこん。
『私は大丈夫ですから。でも六〇二号室。来てくれること、少し期待していたりして』
なんで、恋仲からメッセージが来る? 目の前にいるだろ?
「こ、恋仲……、今メッセージ送った?」
ハッとした恋仲は、素早い手つきでタブレットに文字を打ち込んだ。
『スマホ、落としちゃったんです。たぶん、病院に運ばれる前だと思います』
「えっ?」
背筋に冷たいモノが走る。くしゃくしゃに丸めたメモ書きを見た時と同じ悪寒に襲われる。鋭い金属の刃先が全身の肌をなぞるような、ぞくりとした戦慄に声が漏れそうになる。
『誰だ、お前は』
送信するとすぐに返事が来た。
まるでその言葉を待っていたかのように。
『バレタ?』
画面上に白く浮かぶ文字。
病室の空気が一変する。夕日が雲に隠れ、闇が室内に落ちていく。俺も恋仲も金縛りにあったみたいに動けなかった。
『アハハハハハハ』
唯一、何者かわからない声だけが、無音の室内に――声もないのに、あり得ないくらい響いていた。
