「はは……、やめろよ。ひどい冗談だな。それ……」
真っ赤に染まる玄関。叫んだ後から、黙ったまま動かなくなった琴音。
「落ちたって、なに言ってるんだよ……」
頭を鷲掴みにされ、持ち上げられたような浮遊感。呼び起こされる過去の映像が点滅する。点滅。点滅。立ち眩みがする。
琴音と本音で話そうって決めていた心が、容赦なく槍で貫かれ、胸に穴が開いたみたいに体の中心が空っぽになっている。
ガタン、とスマホが滑り落ちた音で我に返る。床に座り込み、フローリングに張り付いた姿勢でスマホを操作しチャット画面を開く。恋仲とのやり取りを確認する。送信時間、内容、最後のメッセージ。
『えっと、つまり。カミナちゃんにとって、シノノメさんは命の恩人だったんです。二人はもちろんそんなこと忘れているんですけど、前の章の出だしに、回想シーンがあります』
『おぉ、ほんとだ! こんなとこに何気なく書いてるなんて、気付かなかった。鳥肌立った!』
『はい、鳥肌、立ちます!』
恋仲からお勧めされた恋愛小説の会話だ。今日の午前から、休み時間の合間に感想を送ると、恋仲は丁寧に解説してくれた。最後のメッセージは、午後の休み時間に送られている。
チャット履歴が証拠だと、スマホを掲げるように琴音に見せた。けれど、見えていないのか無反応だった。体を丸めながら片手で画面を押さえつけ、慎重に指で文字を綴っていく。
『恋仲、階段から落ちたって聞いたけど!』
送信した瞬間既読表示になった。全身の力が抜け、心底安堵する。ほら、嘘だ。恋仲は無事だ。もし本当だとしたら、この既読が確かな証拠だ。大変なことになっているなら、スマホなんていじれない。
『はい。教えると心配を掛けてしまうと思って、言えませんでした』
え? は?
恋仲は階段から本当に落ちた、のか?
だったら、この先を聞かなくちゃいけない。
『怪我は? 滑ったのか!? 今どこにいるの!?』
『椎名谷総合病院にいます。一日だけの検査入院ですが、私は大丈夫です。気がついたら下にいました。滑ったのか、誰かがいたのか……うまく思い出せません』
――誰かがいた?
吐き出したはずの重い溜息が、棘を伴って肺の中に入ってくる。痛すぎて最後まで息を吸えない。
誰かって、まさか……わざと押された? 昨夜のクラスチャットを思い出す。そして、今朝のグループ追放。クラスの誰かの仕業だ。そうに違いない。三国か? もらった飴って言っていた。だとしたら、凪か? いやそんな、どうして。
椎名谷病院をネットで検索する。学校から遠くない場所にある総合病院だ。昔に行ったことがあるし、大きいから場所はわかる。ホームページを開く。面会時間がどこに書いてあるのかわからない。でもまだ間に合うはずだ。
『今から行く』
それだけ打って立ち上がる。大丈夫なら良かった、だけで終われるわけがない。だが、琴音もこのままにしてはおけない。声を掛けて体を支えながらリビングへ連れて行こうとする。琴音の体は紙風船のように軽く、地に足がついていないようだった。
ちゃんと俺に反応はする。「琴音」と何度も名前を呼びながら、ゆっくりと進む。俺自身は、冷静さと焦燥感が混ざりに混ざって、頭がまとまらなくなる一方だ。
『外出、駄目ですよ。怒られちゃいます。私は大丈夫ですから』
恋仲からの返事を片目に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して琴音に手渡す。手に触れた瞬間、冷たさにびっくりしたのか琴音の両手が強張った。
「おに……い、ちゃん」
「琴音。ほら、飲んで」
肩に手を当て体温を伝えながら、水を飲むように促していく。琴音に一口、二口と少しだけ飲ませて、ペットボトルを受け取りテーブルに置く。虚ろだった琴音の焦点も戻ってきているように見えるけど、このまま一人にさせていいのか。父さんが帰ってくるまで、傍に居て付き添ってあげないと。でも、いつ帰ってくるかもわからない。そうしている間に面会時間が過ぎてしまう。
『……でも本当は。一人は、ちょっとだけ、怖いです』
バイブ音と共に、ぽつりと呟かれた恋仲の言葉に息が詰まる。恋仲が弱音を吐いている。屋上の前で見た、必死で涙を堪えて笑おうとする恋仲をまた見ているようだった。
琴音はもう大丈夫だろう。お兄ちゃんと言葉も出るようになってきているし、このまま一人にしても……。
時間だけが過ぎていく。病院に行くべきか、琴音の傍にいるべきか。一人にしたら琴音は心細くなって壊れてしまうかもしれない。
恋仲だって本当は怖くて、大丈夫でもなくて、誰かに傍にいてほしいのだとしたら。恋仲は、いつも綱渡りの状態で歩いている。下にはぎゅうぎゅうに詰まった、好奇心に飢えた獣たちが口を開いて待っている。落ちてしまったら二度と戻れない。
「父さん、俺だよ」
父親に電話を掛けていた。数回のコールで出た。電話越しだけど、ちゃんと話すのは車の時以来だった。車のときもろくな会話なんてなかったが。
「今すぐ帰ってきてくれ。琴音が不安定なんだ」
琴音に聞こえないよう小声で。台所の隅に隠れながら急いで要件を伝える。
「何かあったのか?」
元はと言えばお前が、と言いそうになるのを寸前で飲み込む。
「不安定なんだよ、いちいち説明しなくちゃいけないのか」
「……わかった。なるべく早く帰るが、それまで善吉が――」
「ちょっと行かなくちゃいけない場所があるんだ。だから今から出る。頼むから、なるべくじゃなくて、すぐに帰ってきてくれ」
父の言葉を遮ってこう言うと、父の顔が赤くなっているのが電話越しでも伝わってきた。
「出る、だって? お前、今自分がどんな状況なのかわかって――」
「頼むよ! お願いだから、早く帰ってきてくれ。どうしても行かなくちゃだめなんだよ!」
頼むよなんて、初めて言ったかもしれない。つい声が大きくなってしまったので琴音の方を見る。ぼんやりとした表情だったが、顔は俺の方を向いていた。
「また誰かに迷惑をかける気か? 外出禁止だってこと、もう忘れたのか? 次は取り返しがつかないことになるんだぞ」
話にならない。学校とか今の立場とか、そんな場合じゃないのに。
「いいか。頼んだからな。早く帰ってきてくれ、お願いだから」
そう言い捨てて電話を切る。すぐに琴音の傍に駆け寄り両肩を抱く。
「琴音。俺、出かけなくちゃいけなくなったんだ。ちゃんと帰ってくるから、だから、大人しく待っててくれるか? 父さんも今から帰ってくるみたいだし、何かあったら電話してくれればいいから」
「……ないで」
子供が訴えるように小刻みに首を振る琴音。
「すぐ帰ってくるから、な、ここで休んでて」
心の中でごめんと呟いて、肩に置いた手を背中に回して、ゆっくり上下に擦る。
「じゃあ、行ってくるから……」
琴音の顔を見ずに玄関に向かう。スマホを握りしめる手は震えていて、躊躇いを隠し切れない。行くと決めたら早く行かないと、琴音は大丈夫だ。家にいる。問題ない。何度も言い聞かせて唇を噛む。
「いかないで……お兄ちゃん」
振り返りたくなる衝動を必死に堪える。
俺は聞こえないふりをして、病院に向かって走り出した。
琴音の声より大きな俺の足音が静けさを切り裂いた。
言い表せない胸の苦しみは、俺の選択を非難しているようだった。
真っ赤に染まる玄関。叫んだ後から、黙ったまま動かなくなった琴音。
「落ちたって、なに言ってるんだよ……」
頭を鷲掴みにされ、持ち上げられたような浮遊感。呼び起こされる過去の映像が点滅する。点滅。点滅。立ち眩みがする。
琴音と本音で話そうって決めていた心が、容赦なく槍で貫かれ、胸に穴が開いたみたいに体の中心が空っぽになっている。
ガタン、とスマホが滑り落ちた音で我に返る。床に座り込み、フローリングに張り付いた姿勢でスマホを操作しチャット画面を開く。恋仲とのやり取りを確認する。送信時間、内容、最後のメッセージ。
『えっと、つまり。カミナちゃんにとって、シノノメさんは命の恩人だったんです。二人はもちろんそんなこと忘れているんですけど、前の章の出だしに、回想シーンがあります』
『おぉ、ほんとだ! こんなとこに何気なく書いてるなんて、気付かなかった。鳥肌立った!』
『はい、鳥肌、立ちます!』
恋仲からお勧めされた恋愛小説の会話だ。今日の午前から、休み時間の合間に感想を送ると、恋仲は丁寧に解説してくれた。最後のメッセージは、午後の休み時間に送られている。
チャット履歴が証拠だと、スマホを掲げるように琴音に見せた。けれど、見えていないのか無反応だった。体を丸めながら片手で画面を押さえつけ、慎重に指で文字を綴っていく。
『恋仲、階段から落ちたって聞いたけど!』
送信した瞬間既読表示になった。全身の力が抜け、心底安堵する。ほら、嘘だ。恋仲は無事だ。もし本当だとしたら、この既読が確かな証拠だ。大変なことになっているなら、スマホなんていじれない。
『はい。教えると心配を掛けてしまうと思って、言えませんでした』
え? は?
恋仲は階段から本当に落ちた、のか?
だったら、この先を聞かなくちゃいけない。
『怪我は? 滑ったのか!? 今どこにいるの!?』
『椎名谷総合病院にいます。一日だけの検査入院ですが、私は大丈夫です。気がついたら下にいました。滑ったのか、誰かがいたのか……うまく思い出せません』
――誰かがいた?
吐き出したはずの重い溜息が、棘を伴って肺の中に入ってくる。痛すぎて最後まで息を吸えない。
誰かって、まさか……わざと押された? 昨夜のクラスチャットを思い出す。そして、今朝のグループ追放。クラスの誰かの仕業だ。そうに違いない。三国か? もらった飴って言っていた。だとしたら、凪か? いやそんな、どうして。
椎名谷病院をネットで検索する。学校から遠くない場所にある総合病院だ。昔に行ったことがあるし、大きいから場所はわかる。ホームページを開く。面会時間がどこに書いてあるのかわからない。でもまだ間に合うはずだ。
『今から行く』
それだけ打って立ち上がる。大丈夫なら良かった、だけで終われるわけがない。だが、琴音もこのままにしてはおけない。声を掛けて体を支えながらリビングへ連れて行こうとする。琴音の体は紙風船のように軽く、地に足がついていないようだった。
ちゃんと俺に反応はする。「琴音」と何度も名前を呼びながら、ゆっくりと進む。俺自身は、冷静さと焦燥感が混ざりに混ざって、頭がまとまらなくなる一方だ。
『外出、駄目ですよ。怒られちゃいます。私は大丈夫ですから』
恋仲からの返事を片目に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して琴音に手渡す。手に触れた瞬間、冷たさにびっくりしたのか琴音の両手が強張った。
「おに……い、ちゃん」
「琴音。ほら、飲んで」
肩に手を当て体温を伝えながら、水を飲むように促していく。琴音に一口、二口と少しだけ飲ませて、ペットボトルを受け取りテーブルに置く。虚ろだった琴音の焦点も戻ってきているように見えるけど、このまま一人にさせていいのか。父さんが帰ってくるまで、傍に居て付き添ってあげないと。でも、いつ帰ってくるかもわからない。そうしている間に面会時間が過ぎてしまう。
『……でも本当は。一人は、ちょっとだけ、怖いです』
バイブ音と共に、ぽつりと呟かれた恋仲の言葉に息が詰まる。恋仲が弱音を吐いている。屋上の前で見た、必死で涙を堪えて笑おうとする恋仲をまた見ているようだった。
琴音はもう大丈夫だろう。お兄ちゃんと言葉も出るようになってきているし、このまま一人にしても……。
時間だけが過ぎていく。病院に行くべきか、琴音の傍にいるべきか。一人にしたら琴音は心細くなって壊れてしまうかもしれない。
恋仲だって本当は怖くて、大丈夫でもなくて、誰かに傍にいてほしいのだとしたら。恋仲は、いつも綱渡りの状態で歩いている。下にはぎゅうぎゅうに詰まった、好奇心に飢えた獣たちが口を開いて待っている。落ちてしまったら二度と戻れない。
「父さん、俺だよ」
父親に電話を掛けていた。数回のコールで出た。電話越しだけど、ちゃんと話すのは車の時以来だった。車のときもろくな会話なんてなかったが。
「今すぐ帰ってきてくれ。琴音が不安定なんだ」
琴音に聞こえないよう小声で。台所の隅に隠れながら急いで要件を伝える。
「何かあったのか?」
元はと言えばお前が、と言いそうになるのを寸前で飲み込む。
「不安定なんだよ、いちいち説明しなくちゃいけないのか」
「……わかった。なるべく早く帰るが、それまで善吉が――」
「ちょっと行かなくちゃいけない場所があるんだ。だから今から出る。頼むから、なるべくじゃなくて、すぐに帰ってきてくれ」
父の言葉を遮ってこう言うと、父の顔が赤くなっているのが電話越しでも伝わってきた。
「出る、だって? お前、今自分がどんな状況なのかわかって――」
「頼むよ! お願いだから、早く帰ってきてくれ。どうしても行かなくちゃだめなんだよ!」
頼むよなんて、初めて言ったかもしれない。つい声が大きくなってしまったので琴音の方を見る。ぼんやりとした表情だったが、顔は俺の方を向いていた。
「また誰かに迷惑をかける気か? 外出禁止だってこと、もう忘れたのか? 次は取り返しがつかないことになるんだぞ」
話にならない。学校とか今の立場とか、そんな場合じゃないのに。
「いいか。頼んだからな。早く帰ってきてくれ、お願いだから」
そう言い捨てて電話を切る。すぐに琴音の傍に駆け寄り両肩を抱く。
「琴音。俺、出かけなくちゃいけなくなったんだ。ちゃんと帰ってくるから、だから、大人しく待っててくれるか? 父さんも今から帰ってくるみたいだし、何かあったら電話してくれればいいから」
「……ないで」
子供が訴えるように小刻みに首を振る琴音。
「すぐ帰ってくるから、な、ここで休んでて」
心の中でごめんと呟いて、肩に置いた手を背中に回して、ゆっくり上下に擦る。
「じゃあ、行ってくるから……」
琴音の顔を見ずに玄関に向かう。スマホを握りしめる手は震えていて、躊躇いを隠し切れない。行くと決めたら早く行かないと、琴音は大丈夫だ。家にいる。問題ない。何度も言い聞かせて唇を噛む。
「いかないで……お兄ちゃん」
振り返りたくなる衝動を必死に堪える。
俺は聞こえないふりをして、病院に向かって走り出した。
琴音の声より大きな俺の足音が静けさを切り裂いた。
言い表せない胸の苦しみは、俺の選択を非難しているようだった。
