この世界に、声がなくても

「お兄ちゃん、おはよー!」
「……おはよう。いただきます」

 俺を見ている琴音の顔は昨日と同じに見える。もちろん笑顔の琴音だ。テーブルに向かい合って朝食をとる。いつにもまして目玉焼きがしょっぱく感じるが、いつも通りの朝。父の姿はない。目を閉じるたび息苦しくなり、昨夜の事を思い出してしまう。

「昨日ね、写真整理してたの。そしたら、小さい頃のお兄ちゃんを見つけたんだ」
「うん、おいしいよ、琴音」

 かみ合わない会話だったかもしれない。そうだったとしても、昨日蘇ったこの感情は、目の奥に力を入れて、必死に止めていないといけない。気を抜くとまた、どうしようもない怒りと衝動がこみ上げてくる。何度か経験があるから、気持ちの殺し方だって慣れている。
 目の奥に力を入れて、息を浅くして瞬きをせず、一箇所を見続けていればいい。
 それだけで勝手に時間が進むし、忘れられる。簡単だ。
 お彼岸が近い? 今まで見向きもしなかったくせに前を見ろだと?
 ああ、だめだ。考えるな、それはもう忘れろ。

 あれを怒りと呼んでいいのかもわからない。ただ、あのときのあいつの声を思い出すと、俺の中で何かが暴れ出しそうになる。それはきっと、一度解いてしまったら制御できない。
 目の奥に力を入れ続ける。怒りじゃない。悲しみでもない。止まれ。感情を理解しようとするな。そして捨てろ。開けちゃいけない。ただ、目の奥に力を入れろ。閉じるな。名前のついた感情を自覚してしまったら、また止まらなくなる。

 朝は少しずつ冷えてきていた。灰色の空も重たく感じる。通り過ぎる学生たちは、長袖だったりベストを羽織っていたり、夏から秋へ、季節の変わり目を感じる。その流れは追いつけない速度で俺を通り越していって、俺だけが残暑の中に取り残されているようだった。

 校門を過ぎ、何も考えないようにして昇降口へ向かう。入口の横、花壇の前に凪がしゃがんで手を動かしていた。無視して通り過ぎればいいのに。俺の足は勝手に止まり、凪の横に並んでいた。
 この状態で恋仲と会うのは怖かった。昨日、凪をハッキリと拒絶したばかりなのに。俺は何をやっているのだろうと思うも、彼女ならわかってくれるような気がして、声は掛けずに凪の反応を待った。

「何か用?」

 しゃがんだままの凪がそのままの姿勢で言う。声は冷ややかだった。

「あ、いや……、何してんのかなって」

 俺自身への問いだったのかもしれない。凪はペットボトルの水を、真下で折れ曲がって咲いている小さな花に垂れ流していた。その水量で更に茎が折れ曲がってしまいそうだった。
 お互い顔を見ることはない。

「何って。見てわかんない? 水やってる。……キモイでしょ?」

 自分の行動が可笑しいのか、自嘲するみたいに鼻で笑った。

「って、フった次の日に普通に話しかけてこないでよ。はあ、なんでうちも喋っちゃうかなあ」
「う……」
「なんかつまんない顔。昨日とは別人。なに、慰めてほしいの? そこまで都合いい女じゃないかんね、うち」

 気づけば顔を覗かれていた。くるくると、人差し指で髪の毛を巻きながら、力のない笑みを浮かべる。

「ちっ、違うわ!」
「あっそ。んじゃ近づいてこないでよ。……水、かけちゃうよ」

 言い終わるよりも早く凪は立ち上がっていて、言葉の終わりと同時にペットボトルを俺に放り投げた。フタが開いているように見え、反射的に片手でキャッチする。中身は空だった。

 凪はもう昇降口に向かって歩いていた。途中で知り合いに会ったのか、砕けた顔になっている横顔が見える。
 足元の折れた花を見る。水浸しで土もどろどろだったが、心なしか元気になったような。そんな風に見えた。それをなんだか羨ましいと思う自分に虚しさを覚える。

 同時に、恥ずかしさや惨めさも湧き上がってきて、ペットボトルを握りつぶす音でごまかし、俺も教室に向かって歩き出した。本当に水でも被れば、少しはマシになったかもしれない。

 教室に入る前、深呼吸をする。暗示のように頭の中で繰り返す。考えるな、忘れるんだ。力を入れて、閉じるな。こんなの俺じゃない。落ち着け。落ち着け。

「恋仲、おはよう」

 自分でも気味の悪いうわずった声だった。だめだ、もっと自然に喋らないと。恋仲が腰掛けるのを確認すると、いつもの定位置に移動する。恋仲を守るための壁のつもりだったが、この角度は俺の顔もクラスメイトに見られない。俺にとっての壁でもあるようだった。

 何か話題を探そうとしたけど出てこなかった。意味もなく両手をぶらぶらさせたり、腰に当てたりして時間を稼ぐが、昨夜のことがどうしても頭から離れない。上手くできるか分からなかったけど笑顔の形を作る。
 ぽん、の効果音が鳴る。おはようと描かれたデコグマが俺のスマホに流れてきた。俺を見上げるように恋仲は優しい顔で微笑んでいる。少し疲れていそうな顔色だった。

『大丈夫ですか? 顔色が悪いです』

 それでも恋仲は相手の事を気にする。

『えっと。これ、インストールしました。教えてもらったパズルゲーム。難しいです! 教えてくれませんか?』

 何気ないそんな一言が胸を締め付ける。恋仲の笑顔は、強さを見せる為だったって、あの屋上の前で気づかなかったか? それを知っていてもなお、光を浴びようとするのか俺は。なんで朝の折れた花を思い出す。
 自問自答を繰り返していると、ある答えに行きつく。
 正解を見つけると一気に視界が明るくなった。

──そうか。昨日の俺の記憶は、俺のものじゃなかったんだ。誰か別人の記憶が混ざり込んだ。漫画とか動画とか、どこかのキャラクターに感情移入しすぎて混在しているだけだ。
 だったら忘れられる。俺じゃないんだから。今日の俺が引きずることなんてない。

「まずさ、デイリーっていう毎日やることがあるんだけど、それを……」

 恋仲への返答も声が弾む。自然と笑えている気がする。
 ああ! そういうことだよ!
 こんな簡単なことに気づかなかったなんて。
 昨日は俺じゃなかった。

──でも、本当にそうだったっけ?


 昼休みになる。恋仲はいつも水を買いに自販機に行く。今日は一緒に買いに行こうかな、なんて思い席を立つと、「蔦森くん……」とクラスメイトの男子に控えめな声を掛けられた。
 この前、ゴミ箱をぶちまけちゃったあいつだ。今日もなんだか消え入りそうな声で、目もどこを向いているのか分からない。きょろきょろとしている。

「なに? なんか手伝う?」
「あ、あ、じゃなくて! よかったら、一緒にご飯どうかなって。その、図書室で。本当はだめなんだけど、僕、図書委員だから入れるんだ。誰もいないし、漫画も見られるし、あの時のお礼も言いたくて……。あと、他には……ああ! じゃなくて! どど、どう?」

 別に図書室じゃなくても、お礼とかいらないし……と断ろうとしたが、彼のどこか弱々しい言動と、それでも何かを伝えようとしている表情を見ると、どうしても自分と重なってしまい、断ることはできなかった。パパッと食べてすぐ戻ろう。そう思って、図書室に向かうことにした。

 誰もいない図書室は、古い本の匂いで満ち、外よりも冷たい重苦しい雰囲気を感じる。誰もいないのに息苦しい。静かなのにささやき声が聞こえる。苦手だなと思うには十分だった。
 一席空けて横に座り、黙々と総菜パンをかじる。途中、お礼とか図書室の事とか、話を振られたが、無理やりひねり出しているような気がして、俺の返事だけでその会話が終了する。

「……もう、いくわ」
「あっ、あの!」

 飲み込んでいる途中だったが、もう十分だと思ったし戻ることにする。扉の前で大きな声に呼び止められ振り返る。変わらずきょろきょろしているが、加えて歯切れも悪く、取り繕う言い訳を考えている風だった。

「えっと、まだ時間あるし……その、漫画でも読まない?」

 向こうも乗り気なようにどうしても見えなかった。仲良くなろうとしている雰囲気を感じない。ただ、俺をこの場にいさせたいだけのような。そう感じると、途端に胸がざわつき、男子の近くに駆け寄った。

「わざとか?」
「い、いや。その。漫画……どう?」

 片方の口角だけが上がった引きつった顔。嫌な予感がした。このまま突き詰めても無駄と思ったので、図書室を後にする。勢いよく廊下へ出ると、思うより早く走っていた。


 教室には恋仲の姿はなかった。三国たちの姿もついでに探す。いない。腹の奥が熱くなってくる。誰かの机の上に拳を振り落とし、再び廊下に出る。左右を見るが見当たらない。
 ああ、だめだ。せっかく閉じ込めて、別人だったって思ったのに。舌なめずりしながら赤色に染まった別の俺がゆっくりと迫ってくる。
 明るさを求めて窓を見る。眼下にあるのは中庭――

 中庭の桜の木があるベンチの前、座らずに立っている恋仲を見つけた。その周りを、三国を含めて、三人が囲うように立ちふさがっている。恋仲の表情はよく見えなかったが、毅然として立っているその振る舞いだけで、俺が告白した放課後の恋仲の姿と重なった。
 三国たちを振り払うように通り抜けようとする恋仲。その前に立ち、進路を塞ぐ三国。手は出していないように見える。手に持ったスマホをぶらぶらと、まるで選ばせるみたいに──画面を揺らしていた。

 目を見開け。閉じずに奥に力を入れろ。
 でも、もう、目の奥が潰れてしまったよ。
 力を入れても赤いのが飛び出てくるだけだ。意味はない。

――そうかよ。お前はいつだってそうだよな三国。自分が楽しければよくて、でも、自分では何かすることはしない。だって終わりたくないもんな? ネタにして拡散して、自分の手柄だって注目される自分に酔いしれてる。ああわかるよ、でもな――

 中庭に辿り着く。本気で駆け抜けたのに息一つ乱れていない。そもそも呼吸しているかもわからない。恋仲が俺に気づいた。それと同じくして三国たちも俺の方を見る。つまらなさそうに恋仲の道を開け、その隙を恋仲が体を横にしながら縫うように出てきた。

「んだよ、早えな。どうして喋られないのかインタビューしてたんだよ。喋れるように力になってあげようかって思ってさ。クラスメイトとして。お前だって気になるだろ、こいつが喋られない理由。それとももう知ってんのか? だったら教えてくれよ。どうやって笑うの? 感じるとき、どんな声出すの? はははっ」

 三国への歩みを止めない。すれ違う恋仲は俺の背中のシャツを掴む。振りほどいて、三国の傍へ。三国に付きまとっている人影のスマホが俺に向けられている。撮影している。一度だけ睨むと一歩下がったが、スマホは向けられたままだった。

 本当はお前らも同罪だよ。なあ、これからどうなるか教えてやろうか。
 右腕に力が入る。何かを喚いている。どれも恋仲を馬鹿にしている言葉に聞こえる。振り上げた拳。目がぎらついて、歯を出し、両手を広げ、笑いながら待つ三国。抵抗しようとする素振りは見せていない。
 どこまでも舐めやがって!

 三国の顔を目がけて拳を突き出そうとした手前で、ぽすん、と。温かい両腕が背中に絡みつくように包み込んだ。
 ぎゅっと、後ろから引き止められるように恋仲に抱きしめられた。腕の力は弱々しく、小さなものだったけど、背中に温もりを感じた。彼女の熱い吐息が冷え切った背中に浸透していく。

『私は大丈夫だから落ち着いて』そう言っているような気がした。

 煮えたぎる熱が急激に冷やされる。ああ、そうだ。こんなことしたって、状況が悪化するだけで何も解決しない。

「……ごめん恋仲」

 こういうときこそ、冷静にならなくちゃならない。簡単に挑発されるようじゃ、この先、恋仲の居場所をつくるなんて到底できない。さっさとこの場から立ち去ろう。

「はっ、ママに止められて怖気づいたか?」
「…………あ?」

 ママ? お母さん。
 恋仲の手……抱きしめられて……。

 今なんて言った?

「ママの言うこと聞けてえらいでちゅね」
「――あああああっっ!!」

 三国の顔が潰れる感触がする。止めてくれたはずなのに。恋仲を助けたいってそれだけだったのに。どうしてこんなことをしている? いつから俺の怒りの矛先は、居なくなった母親に対しての怒りにすり替わったんだ?

 ひび割れた境界線は、優しさもなにもかも置き去りにして、ただ、崩れることだけを止めはしなかった。