この世界に、声がなくても

 街灯の光が道をぼんやり照らす頃、俺は家に戻った。台所では、ホットプレートやいつもより多めの皿、グラスを洗っている琴音の姿があった。

「おかえり。お兄ちゃん」

 友達の姿はもうない。あんな後だ、楽しく過ごすことはできなかっただろう。せっかく場の雰囲気を壊してしまって申し訳なくなる。腕をまくり、隣に並んで皿洗いを手伝う。静かな水音の中で肩が少し触れると、洗剤の泡が天井に飛び出していった。

「うわっ、なに、どうしたの」
「……なにって手伝ってんだよ」
「ね、お兄ちゃん。気にしなくていいよ? またいつでもできるし、お兄ちゃんはお兄ちゃんのこと、優先していいんだからね?」

 今度は琴音から肩にぶつかってくる。誰もいないリビングを見ると、あの部屋の光景が目の前に広がった。その真ん中に立っているのは、不器用で、やり方を知らなかった凪の姿だ。残像となって、自分もそこに立っている感覚に陥る。何度かその景色を繰り返し見ていると、それは幻のように、泡と、静かな夜の中に溶け込むように消えていった。

 * * *

 カーテンの隙間から光が漏れている。まだ目を閉じたまま、ゆっくりと今日が始まったことを知る。いろいろありすぎてそれを考えると眠れないと思っていたけど、体は休息を欲しがっていた。すぐに眠くなって、普段なら学校に着いている時間まで一回も目を覚ますことはなかった。

 今日は休日だから、ぐだぐだしながらベッドの上で暫く過ごす。枕元にあるスマホをたぐり寄せ恋仲とのチャットを開く。昨日ダウンロードした、間抜けクマのおはようスタンプを送信する。正式名称はデコグマという。そのまんまだ。
 すぐに既読が付き、少し間が空いてから同じスタンプの返信がくる。
 そこからちょっとしたスタンプの応酬が始まる。それだけで楽しいし嬉しくなる。こことは違う場所で、恋仲も一緒に起きていて、同じようにスマホを見ていると思うと胸が高鳴る。恋仲も、もしかしてベッドの上でぐだぐだしているのかなとか想像してしまう。
 
『ところでさ、恋仲って俺の名前、呼んでくれないよな?』

 気が緩んだ俺は、少しいじわるな質問をしてみた。ちょっと気になっていたことだ。既読はすぐつくが、返信に時間が掛かっているようだ。あぁ、またどうでもいいこと言っちゃったと、メッセージを削除しようとするも既読になった時点で無意味なことだった。こういう無自覚で馬鹿なところは、もう、治らないのかもしれない。

『恥ずかしいんです、なんだか』

 しばらくして、恋仲から返信が来る。

『恋仲って、普通に呼んでくれるの、凄いと思います』メッセージは続く。

『私は、名前を呼ぶと、その人に触れちゃいそうで、呼んじゃったら、離れてしまうかもって思って、そう思うと、なんだか恥ずかしくなるんです』

 画面越しに見ているだけだったが、恋仲の呼吸が聞こえてくる気がした。俺が普通にしていることは、恋仲にとっては勇気のある行動のようだ。逆に、恋仲が普通にしていることは、俺にとって勇気のある行動に見える。
 人に惹かれるってそういうことかもしれない。自分とは違う感性を持っている人と出会うと、拒否感が生まれなかったら、それ以上の刺激を得られる。自分の意識が拡張されるというか。

 『俺が言うのもおかしな話だけど……。俺は呼ばれたって離れないよ。むしろ、嬉しいよ。名前で呼ばれるの。その、友達なんだから』打っていて、自分が赤面しているのが分かる。
 『はい。ありがとうございます。……でこきちさん』
 『おいww』

 俺のあだ名はもうでこきちで確定した。画面越しに笑いながらも、心のどこかでは不安になっている自分もいた。こんな穏やかで完璧なやりとりができるのは、実は崩れる一歩手前なのかもしれない。壊れるときは、こんな静かな日常から始まるんじゃないかって思うと、胸がざわついた。

 恋仲は優しくて、俺の返信に対して話を終えないよう返事をしてくるものだから、いつまでもチャットが終わらなかった。恋仲にも悪かったし、名残惜しいけど俺が切り上げて話を中断する。すぐにメッセージを打ちたい気分を懸命に堪えてリビングへ。掃除をしていた琴音と軽く談笑した後に外に出た。

 ここでまた掃除を手伝いだしたりでもしたら、余計に琴音を心配させてしまう。
 今日も晴れだ。全てを受け入れてくれるような、衰え知らずの日差しはなんとも清々しい。本屋に行って、この前教えてくれた小説を買おうと思い歩き出す。俺の歩幅は大きくて跳ねているようだった。

 * * *

 適当に街をぶらついて、やっぱ我慢できなくて恋仲とチャットしていたら夕方になっていた。誰とも喋ってないけど、話し疲れたような気持ちのいい疲労感がある。丁寧に包装された文庫本はバッグの中。これは絶対に琴音に見つかっちゃいけない。極秘裏に、でも速やかに読み終える必要がある。

「お兄ちゃん、こっちきて」

 バレっこないのだが、バッグを後ろに隠すように家に帰るとすぐに、琴音から呼び出された。
 声のトーンの低さに、怒られるのではと警戒してしまう。「はいはい」と、琴音が座るテーブルを見ると、一枚の紙きれが置かれていた。何が書いているのか分からなかったが、文字のようなものが見える。くしゃくしゃで皺だらけで読めない。

「これ……なに? ズボン、綺麗にしようとしたら、ポケットの中に入ってたの」

 丁寧に広げられ、伸ばされ、波を打つ五文字が見えた。読む前からなんて書いてあるかわかる。そこからじわじわと、亀裂が走るように、黒い線が伸びてきているように見えた。いつだったか、靴箱を開けた時に落ちてきた紙だ。

「ああ。学校で落ちててさ。そのまま拾って、捨てるの忘れてた」
「……本当に?」
「本当だよ」
「ヒトゴロシって書いてあるよ?」
「そうなんだ。ちゃんと読んでなかった」

 感情を殺しながら喋っているつもりだ。でも琴音には、見透かされていると思う。

「お兄ちゃんは悪くないよ」
「あ、ああ、もちろん。そうだ琴音、俺お腹空いたよ。なんか食べる物ある?」
「……。うん、バナナならあるよ。待っててね」

 どんな顔をしているか見てられなかった。琴音が立ち上がる時、膝をテーブルにぶつけた音がして、床に小物入れが落ちた。チャックが開いていたのか、銀色の押し出すタイプの錠剤──あれが床に散乱した。

「あっ、そうだ! お兄ちゃん、先ごはん食べちゃう? もう少し待ってくれるなら、琴音つくっちゃうよ!」

 俺が動くよりもはやく、琴音は両腕で覆いかぶさるようにしてそれをしまうと、いつもの声に戻る。

「うん。じゃあ、待ってるよ」

 まだ感情を黙らせたまま、俺は微笑み返せたと思う。

 * * *

 珍しく父親が夕飯時に帰ってきた。休みなのにご苦労様なんて微塵も思わない。

「お父さんお帰り! いまちょうどご飯食べてたとこだよ。お父さんも食べる? あっ、先お風呂入る?」
「うん、先に食べるよ」

 久しぶりに声を聞いた。外の空気を限界まで吸ったスーツの臭いで、食欲が一気になくなる。食べるなら俺はもう部屋に戻ろう。

「善吉、琴音ちょっといいか」

 ご飯を用意しようとする琴音、立ち上がろうとする俺を制止する。軽く舌打ちして、俺は座りなおした。

「たまには墓参りにでも行こうか。お彼岸近いし、休みも取れそうなんだ」

 ぱりん、と文字通り空気が割れた音がした。

「は? 行くわけないでしょ。あんなやつの所になんか」

 別人のような強い語気で食らいつく言葉を発したのは俺ではなく、琴音だった。

「落ち着きなさい。琴音、お父さんの話を――」
「落ち着いてるよ!」

 叫び声に似た琴音の声がリビングに響く。そのまま琴音は、大げさに足音を立てて自室に戻っていった。腕を組んだままの父を見る。今度は俺の方を見ていた。皺のある目じり、少し垂れた頬に薄い唇。どれも見ていて不愉快な顔だ。それにいきなり何を言い出すんだ? 墓参り? お彼岸? なんだそれ。

「善吉、お前からも言ってやりなさい。前に進まないといつまで経っても今のままだぞ」

 その言葉を聞いた俺も、感情を制御することができなくなった。感情の器に溜まった水が一気に沸騰する。

「俺たちはとっくに前向いてんだよ! それをほじくり返すてめえこそ前を見ろよ! こっちは死に物狂いでやってんだよ、普段無関心なやつが! いきなり親面してんじゃねえよ!」

 椅子を蹴り飛ばした、と思う。

「琴音が平気だとでも思ってんのか! 元気だから大丈夫だって思ってんなら……お前が一度死んで来いよ!」

 叫んで物に当たって、記憶を塞ぎこむのに必死だ。ふと視線を感じてリビングの扉の方を見ると、琴音が俺を見ていた。その焦点はどこにもあってないように見えた。

 俺の視点もどこにあるのかわからなかった。