この世界に、声がなくても

 何事もなかったかのように恋仲の隣へ。手を挙げると、小さく微笑んで恋仲は頷く。普段通り。そんな風に振る舞っているけれど、どこかぎこちなくて、遠慮がちな雰囲気が漂っていた。

 凪と名乗ったあの女の話はしなかった。俺と恋仲には、もう関係のない話だと思うことにする。恐らく、あの女だけでなく、他にも俺や恋仲を揶揄する相手は出てくるだろう。いちいち相手にしていたキリがない。でもまた教室に来るようなら、全力で否定して追い返す。それだけは決めていた。

 軽く雑談して過ごし、担任が来ると席に戻る。恋仲は真面目で授業中にチャットはしない。恋仲のことをもっと知りたいけど、休み時間くらいしか会話する機会はない。じっと先生の言葉を聞き、黒板を見ながらペンを走らせている。そんな姿から目が離せなかった。

 先生が資料の準備ため授業が中断されている時、遠慮がちにこっちに振り向いた恋仲と目が合う。慌てて何も書いてないノートを見て、すぐに顔を上げるとまた目が合った。ふっと笑いかけられると途端に顔が熱くなり沸騰して、頭が真っ白になった。本当に煙でも出そうだった。 
 滾ったその一瞬が、燃料みたいに点火して、どんどん俺の中で熱くなっていく。心臓の音がうるさい。

『おでこ』
「……えっ」
『好きです』

 休み時間。恋仲の部屋にあったクマのアニメ画像を見せ、おでこの部分を拡大して『ここが好き』と笑った。好きなこと教えてって、歯が浮くような質問をした後、こくこくと頷いて、俺のスマホに画像が転送されたのが、こいつだ。

『この子のおでこ、可愛くて好きです』

 ただの間抜けた面のクマが? そういえば琴音も言っていたよな。そんなに人気があるキャラクターだったのか。ただでこが出ているだけのクマで、可愛くもなんともないのだが、恋仲が好きだと言うなら、嫌いになる理由なんてなく、俺も好きになった。うん、よく見たら愛嬌があって可愛い。

『えっと……』

 恋仲のメッセージで画面がスクロールされ、ハッとする。

「あ……ぇっ?」
『可愛くない……、ですか?』

 言っていいのか、でも直接「可愛い」と言うのは恥ずかしくて死にそうになる。でも、思うくらいならいいよな。
 恋仲の文字、言い方は、一字一句、どれもが「すごく可愛い」んだ。どこにでもあるフォントですらそう見える。恋仲のフォントって風に見えてしまう。

 とにかく「可愛い」。まあ、心の中だから自由に発言したっていいだろう。恋仲の顔を見ると、目を丸くしていて、小さな口が少し空いたまま止まっていた。スマホを引っ込めようとしたのか、何回も手の中で滑っており、スマホが宙に浮いている。
 両手でキャッチし、そのまま胸に押し当てて抱きしめる。心なしか顔が火照っているように見えた。
 これはもしかして、「可愛い」だけを思わず口走ってしまった? しかも恋仲の顔を見ながら。一気に額から汗が滲みだした。

「あ、いやっ、そっ、そうそう! こいつな、こいつのおでこ可愛いよなって!」

 パッと恋仲の小さな手が目の前に現れる。反対の手で鼻まで隠してそっぽを向いている。俺も両耳が火傷するくらい熱くなってくる。髪で隠せないから丸見えだし、めちゃくちゃ恥ずかしい。
 恥ずかしがっている恋仲から目が離せない。可愛いだけでは足りないくらいの魅力がある。違うと断じたり、誤魔化したりするよりも、自分の気持ちは素直に認めるしかないと観念する。どうこうする話ではなく、ちゃんと認識しておいた方がいいかもしれない。
 だから白状すると、俺は、友達になろうって言われたあの日。きっとその瞬間から。

 恋仲に恋をしている。

 考えることは恋仲のことばかりだし、一言二言のメッセージだけで飛び跳ねるくらい嬉しいし、こんな慌てる恋仲の姿を見るだけでドキドキする。自分の障害をものともせず、前を向く強さに惹かれるし、笑顔で佇む姿も俺にはできない姿で憧れる。彼女にとって、少しでも役に立つ人間でありたいと強く思っている。

 俺を知っている奴、例えば三国に言ったとしたら、嘘告したお前が、って腹を叩いて笑うだろう。でもこればっかりは仕方ない。これが本当の気持ちだ。薄々感づいていたけど、考えないようにしていた。そう思いだしたら、恋仲への態度も変わってしまいそうで。それでもし、恋仲が嫌な思いをしてしまったらと思うと辛かった。

 恋仲に気持ちを伝えることはしない。俺の中だけで気持ちを整理する。俺がやるべきことは、恋仲の居場所をクラスに作ることなんだ。それを第一に考える。

 ** *

 今日は午前だけの授業だったので、みんなすぐに帰っていった。三国たちが、俺の横をわざとらしく通ったが、お互いに声を掛けることはなかった。目を合わすこともない。「お前はもう違うから」と言われているようなものだ。
 不思議なことに、俺はその無言の拒絶を受けても、腹立たしくも悔しくもならなかった。むしろ、戻りたくない気持ちの方が強い。前の俺では考えられない心境だ。

 恋仲も帰宅の準備を終えたみたいで、ぼうっと眺めていた俺と自然と目が合う。
 ……午後、どうしよう? お昼とか……誘ってみたら迷惑だろうか?
 何も言わないまま肩を並べて廊下へ出る。恋仲と横を見る目が重なると、彼女は「?」と、少し首を傾けながら微笑んだ。

 デ、デート! なわけあるかっ、ご飯とか一緒に食べて、その後、本屋でも行って小説を教えてもらったり……それで、ベンチを見つけて、隣に座ったり。さっきの気持ちの整理はどこにいったのか、ごくりと喉が鳴る。生唾を飲む瞬間、女性はそれをよく見るとか誰かが言っていたのを思い出して、それとなく喉元を手で隠した。

「お兄ちゃん! いたいた! もう、メッセージしても、電話しても出ないんだもん」

 階段の踊り場で琴音と会う。琴音の後ろには友人と思われる女子が二人、琴音の背中にくっついている。

「お昼、家でたこパやろって! お兄ちゃんもお昼ご飯、たこ焼きでいいよね!」

 屈託のない笑顔。俺に拒否権は与えられないくらい爛々と目が輝いていた。既に興奮しているのが見て取れる。俺の淡い期待で描いた想像が、サラサラと砂埃となって消えていった。

 琴音が「恋仲さんもよければ」って言ったときは、心の中で褒め称えたが、午後は用事があるらしく、『また今度機会ありましたら、ぜひ』とノートに残して、深々と頭を下げて帰ってしまい叶わなかった。
 仮に来てくれたとしても、家に上げるなんて恥ずかしいなんてレベルじゃない。俺はそんな段階を通り越して、恋仲の部屋に入っていたのだが。とんでもないことをしていたんだと自覚する。そんな俺なんて置いてけぼりに、琴音と友達と俺を巻き込んだ、たこ焼きパーティは粛々と準備が進められていくのだった。


 ホットプレートが置かれたテーブル。そこは琴音と友達が占拠するので、隣のソファに腰掛けて、恋仲とのチャット画面を見つめていた。

「あーでも、りおちゃんさ、最近付き合い悪いよね」 
「うん……あの子、もともと空気読めないっていうか」 
「まあ仕方ないよ。向いてないんだもん」 

 パチパチと跳ねる油の音に交じって琴音たちの会話が聞こえてくる。スマホを見ながら聞こえない振りを貫いているしかなかった。
 待て待て。なんで俺もこの場にいるんだ。俺の分だけ作っておいてもらって、後で部屋にお願いとか伝えて、離れればいいのになんで参加する気でいる。

「あー……琴音、悪いけど。俺、部屋にいるから」
「お兄ちゃん、もうすぐ出来るから待っててね! 何がいい? たこ? ウィンナー?」
「先輩、どうぞ」
「どぞどぞーっ」

 初対面で、それに異性だというのにみんな俺に対して警戒心が感じられない。琴音の兄貴だからっていう印象がそうさせているのだろうか。琴音の明るさと同じように、俺も同じようなイメージを持たれていたとしたら辛い。
 四人掛けの椅子、琴音の隣へ座るよう促してくる。三国たちとはまた違う引き込み方、というか、拒否したら琴音に悪いかもと思うと、黙って席に着くしかない。さりげない抵抗を見せるため、椅子の足二つ分くらいの距離感を保つ。

「そうだ。先輩の意見も聞いてみようよ」
「それいい!」

 食べる前からお腹が膨れてくる。こうなったらと腹を決める。こんなウジウジした兄貴、琴音も見たくないだろう。

 ピンポーン。

 さあ食べよう、となったと同時にインターホンが鳴った。申し合わせるようにみんなの箸が止まり、暗黙的に会話が切られる。

「ああ、俺が出る」

 我先に体が動き、インターホンの前に移動して応答する。ちょっと外の空気を吸えるかもしれない。あわよくばこの場からの脱出も。そう思った。

「あはっ、ぜんきちの声だ? うちだよーっ、来ちゃったー!」

 琴音たちが作った空気をあっさり壊す、無邪気で――それでいて人の羞恥心を平然と煽る声が、ぞくりと背中を撫でた。

「ぜーんき」

 相手が言い切る前に通話を切る。画面に移った茶髪の女子。
 どうしてあいつがここに? どうやってここに?

 ピンポーン。
 ピンポーン。
 ピンポーン。

 誰も何も発しないリビングの中、延々と繰り返されるインターホンの音が静寂を破り続けている。背後に忍び込まれて、抵抗できないまま喉元に刃物を突きつけられたみたいに背筋だけが冷たい。

 ――俺の日常が塗り替えられていく感触に眩暈を覚えた。