この世界に、声がなくても

 恋仲の小さな息遣いと、俺の心臓の音。ほのかに漂う明るさが、階段の影をうっすらと照らしている。この場所だけを切り取ったみたいに、黒と白の世界を作り出していた。鼓動の音が時計のように時間を刻んでいる。
 そっと、力なく俺の胸を押される。恋仲は口元だけで笑みを作り、静かに俺の横を通り過ぎる。振り返ることもなく階段を下りて行った。薄暗い踊り場に、恋仲の遠ざかる靴音だけが響いていた。

『もう大丈夫です』

 と言われた気がした。引き留めようと伸ばした俺の手は虚空をさまよう。恋仲の髪すらもう掠められない。自分の手を握りしめる。ただ爪が深く食い込むだけだ。噛みしめた唇から血の味がした。

 教室に戻ると凪の姿は消えていた。あるのは、まるで犯罪者を見るかのような野次馬たちの影と、冷えた空気だけ。聞き取れない囁き声に皮膚だけが痙攣するみたいに反応する。両手にわずかに残っている恋仲の感触を確かめながら席に戻る。
 その日、恋仲はもう戻ってくることはなかった。



──翌朝。

『大丈夫? 無理しないでね。休むなら俺がノート持っていくから』

 既読表示はついた。けど、恋仲からの返信はない。恋仲とのチャット画面を見続けているだけで一日が過ぎた。今朝の琴音のトーストは特に苦かったし、カチカチになった黄身を、何度も箸でつついていたら怒られた。

 クラスも無関心を装っている。誰も話しかけてこない。いいや。グループチャット通知数は止まることなく数字を増やしている。ネットの中では大盛り上がりだ。その熱気は隠さなくても、雰囲気となってクラス中に漏れている。なのに、誰もそれを口にしない。ただ、馬鹿にするような笑いと、目を合わせると逸らす度胸のない視線だけ。

 無関心はただの皮だ。
 少しでも剥がせば、その下には血に飢えて涎を垂らし、喚いている犬みたいな顔がある。元は俺が撒いた種だ。それでも変わらなきゃって、前を見ようとしたんだ。それでようやく、世界が広く見えたんだ。踏み出せたんだよ。
 なあ、どうしたらそれを認めてくれる?
 あの女は煽ったし、それで解決するならぶん殴ってやりたい。けど考えてみたら――あの女はみんなの興味を代弁していただけだった。きっと、どんなに静かに過ごしても、遅かれ早かれこうなっていた。
 だとしたら、俺は間違っていたのだろうか。謝ることすら、俺には贅沢なことだったのかもしれない。

 スマホのバイブが机に伝わり、機械的な音を立て、混濁していた考えから意識が戻る。通知画面に恋仲のアイコンが映る。メッセージがきた。読んだ瞬間、つま先から頭のてっぺんまで鳥肌が立った。

 本当に、彼女は真っすぐだった。すぐに観客席から上がる嫌味のある声で、空気が震えたのを感じた。

『無理でも。友達が居れば、きっと楽しいと思います』

 恋仲は、昨日より前を向いて教室に入ってきた。ガラスのような足音を立て、細い足で踏みしめるたびに、足元の世界が軋んでいるようにさえ見えた。一つでも亀裂が走れば、バラバラに砕け散るってわかっているはずなのに。その一歩はとても力強く、軌跡として床に残っている。昨日の自分を乗り越えようとしている力強さを感じる。

 恋仲の見えている世界は、俺らなんかとは違うんだ。視線が交わると、恋仲以外の人間が居なくなった。黒板も、カーテンも、机や椅子、壁さえも消えてなくなる。床と影だけを残して、あとは光だけしか残っていない。

「少しでも学校に来てよかったって俺が思わせないと――」

 景色の隅っこで、そうぼやいている俺の姿が見える。
 その思いは、恋仲に伝えたのか? また恋仲から言わせて、俺も言った気になってしまっているだけじゃないか。

 白で染まった世界は、瞬きをするとなくなっていた。夢のような一瞬が、現実に切り替わる。恋仲は自分の机にカバンを置いていたところだった。胸を大きく膨らませ、そっと細く、長い息を吐いた。

 膨らんだ胸の奥には、何が秘められているのだろう。それを少しでも理解したかった。だから俺は、「おはよう!」とだけ言った。 下を向いている場合じゃない。引っ掻けばすぐに剝ける皮なんだ。笑っていれば、剝がれないと信じているだけ。傷だらけになって血を流しても、笑い続ければ決して破られないし、壊れやしないって。

 うん、その通りだと思う。でもさ恋仲──。

 そんな世界で笑い続けるなんて、残酷すぎるよ。