世界を壊すのは簡単だ。
無視。暴力。誘惑。
俺の場合は──言葉だった。
「──好きです、付き合ってください」
熱気が残る夏の放課後、誰もいなくなった教室に俺の声だけが響いた。静かに帰ろうとする彼女を引き留めて、誰もいなくなるまで待ち続けて、二人きりになったところで告白した。
目の前にいるのは同じクラスの無口な女子。高校二年の一学期の途中に、別のクラスから移動してきて、誰とも話さず、いつも一人でノートやタブレットを開いているイメージしかない女子だ。
「……」
俺の突然の告白に目を丸くして、じっと見つめ返してくる。長い黒髪に白い肌が印象的だった。華奢な体格で、制服が少し大きく見えて幼く映るのに、彼女がまとっている空気には妙な圧があった。
俺はポケットに手を突っ込んだまま平静を装っていたが、内心は速くなる心臓の鼓動を抑えるのに必死だった。
俺が告白をした理由は――別に好きだからではない。彼女が欲しかったからでもない。対戦ゲームで負けた罰ゲームだ。誰でもいいから告白しろっていう、いつもの悪ふざけ。だから俺は、クラスの中で接点も存在感も薄い相手を探し、彼女を選んだ。無難な選択だと思った。
扉の向こうから、これを見ている友人らの気配を感じる。きっと声を殺しながら録画しているに違いない。彼女の返事がOKでもNGでも、彼女が一つでも反応すれば、「ネタでーす!」って、友人らが乱入してくる予定だ。それで笑って終わる。気晴らしくらいにはなるだろうと、そんな風に考えていた。
彼女の返答はまだない。俺を見つめているその両目は、少し潤んでいるような気がして、そしてどこか悲しげに見えた。まっすぐに俺を捉えている。
ただ照れているだけだろうと思う。俺の性格が褒められたものじゃないのは、他人からも言われるし、自分でもよくわかっている。誰とも付き合ったことがない。深く関わるのが面倒だったからだ。
それよりも。なんでもいいから反応してくれないかな。この後遊びに行きたいんだけどこっちは。
何も起きず過ぎるだけの時間は苦痛だった。廊下の友人たちの笑い声が聞こえてくる。「はあ」と俺はため息を吐くと、彼女は何も言わずにカバンを床に置いて、ノートを取り出した。サラサラと何かを書き始める。
少しの沈黙の後、そっとノートをこちらに突き出すように見せてくる。夕日で赤く染まったノートにはただ一言、
『私のどこが好きなんですか?』
そう書かれていた。
そんなの、どこも好きでもないのに答えられるわけがない。貫くように向けられる瞳に思わず目を逸らし、足元に視線を落とした。じわりと手の中に汗がにじむ。突然の事に言葉が詰まる。
反応できず声が出ないでいると、彼女はそのまま何も言わずにくるりと背を向けて廊下に向かって歩き出した。
……は? ちょっと待って。てか、何、そのノート。これで終わり? 後で返事します、とかやめてくれよ? それじゃ罰ゲームにならない。
「声!」
状況の理解も追いついていないまま、俺は慌ててつい思いついた事を口走った。これで終わりじゃ物足りない。やり直しだとか言われたら洒落にもならない。だったら、みんなが知っている彼女の事情を使えばいい。これなら絶対に止まるはずだ。
「……声がさ、好きなんだよ!」
その瞬間、彼女の足が止まった。彼女を侮辱する一言を俺は息をするみたいに放った。知っていて言ったんだ。
彼女は振り返り、こちらに歩いてきた。みるみる距離が縮まっていく。この後のノリを考えて、冗談っぽく装い、口元を緩ませ笑ってやる。
反応する間もなく、左の頬が乾いた音と共に、じんと熱くなった。耳を突き抜けて、世界が揺れた。平手打ちを受けたと気づいたのは、熱くなった頬に痛みが走った。
やりすぎたか?
耳鳴りが残響になって、その上から新しい耳鳴りが覆いかぶさってくる。すぐに彼女に視線を戻すと、彼女はすでに教室を音もなく立ち去っていた。背中を一瞬だけ見た。彼女が去った扉は開けっ放しのままだ。廊下の向こうは赤く濡れていて、ピントが合わず、世界がぼやけて見える。
「……痛って」
頬に手を当て、俺は近くの机の上に腰を下ろした。窓から外を見る。溜息が勝手に出た。カーテンの隙間から差し込む西日がやけに眩しくて頬に染みた。
「よー善吉! おつかれっしたー! どうでしたか! 感想は!」
三国が楽しそうに声を弾ませて教室に入ってくる。高校で出会い、いつの間にかつるむようになった友人だ。きっかけは忘れたけど。他の友人たちも一緒にドカドカと教室に乱入してくる。
「おい見た? 今のビンタ、撮れてたよな? マジで手ぇ早ぇ……」
「うん、撮った撮った。これショートで伸びんじゃね!」
「やば。この音。完璧入ってんじゃん! お前カメラマンかよ。てか蔦森のその顔、やば」
途端に騒がしくなる教室に冷めようとしていた熱気が戻ってくる。三国らが撮影した動画には、彼女が足早に去っていく後ろ姿が流れている。一緒に見ていたのか、知らない茶髪の女子も面白がって見ているのが映っていた。
「ちょっと再現してもらえる? 俺、えっとなんだっけ、名前!」
「恋仲ひな緒ちゃん、な。実は俺の推し! 物静かなとことか、ぎゃーぎゃー騒がないとことか、めっちゃ楽じゃん。俺、ひな緒ちゃんやるから」
「蔦森は蔦森役な!」
三国が甲高い声で笑い俺を指差す。
「何だよ再現って、ただビンタしてえだけだろっ、うるせぇよ、マジで……」
笑って返そうとするが、自分でもぎこちない笑顔だとわかるくらい声が低かった。まだヒリヒリするが頬から手を離し、近寄ってくる三国らを押し返す。力は込めてない。これもじゃれあいの内だ。
三国たち、もちろん俺もそうだけど、何かが起きるのは笑えるし楽しい。俺が転んだって三国が泣いたって、誰かが怪我したって、それがイベントになればそれだけで暇を潰せる。
「こんな善吉見られるのマジ貴重だから、もう一回対戦するか? 負けたら恋仲を追いかけるとかで! よくね?」
金髪に染め上げた前髪を指で遊びながら、三国がスマホを手に取りゲーム画面を映して挑発してくる。
「二度とやんねえ! 次は格ゲーでボコる! んで、次はお前の番だぞ、三国!」
また声が低かった。いつもなら笑って、三国の肩にパンチする流れなのに。まあでも、これで俺の罰ゲームは終わりだ。やっとこいつらと街に出て、ゲーセンとかに行って適当に過ごして帰って寝るだけのサイクルに戻れる。今度は俺が勝つ。負けた奴にどんな罰ゲームをさせてやろうと考えるが、彼女の表情が脳裏に過ぎった。見た瞬間、頭じゃなく、胸に釘を打たれたような感覚に襲われた。心の奥にもズキンと刺さって、抜こうと思っても抜けない。
彼女は、泣いていた。
涙を見たわけじゃないが、確かにそう思えた。
そりゃそうだ、俺は彼女をバカにしたんだ。
――喋られない病気の彼女に向かって、『声が好き』って言ったんだから。
振り向いてこっちに向かってくるとき、ずっと目が合っていた。彼女はどんな顔をしていた? 怒り? 悲しみ? 悔しさ? すぐに冗談だって言えば、全部なかったことになって、終わったはずだった。放課後呼び出して告白するって、普通冗談だと思うだろ。なんて、俺はまだ自分を正当化しようとしている。
「……なんで気にしてんだよ、俺」
言ってすぐに後悔して。でも引っ込められない。だって恥ずかしいから。恥ずかしい部分を見られたら、自分のプライドを守るために逆ギレもする。向こうが正しいってわかっていることでも認めたら俺の負けだ。
そんな風に考える頭も全部ひっくるめて、俺は自分が嫌いだ。でも、これが俺なんだ。好きにもなれない、嫌いなまま放置しているのが俺。
三国たちの声がやけに他人事のように遠く聞こえる。
恋仲ひな緒。……俺は彼女の名前をさっきまで知らなかった。
足元を見る。平たいはずの床は、点字ブロックのように凹凸になっていた。そこに取り残される自分がいる。張りぼての虚勢で踏ん張っているが、泥の中に入っていくように足が埋まっていく。
このまま沈んでいくのだけは耐えられない。手を伸ばして、誰でもいいから繋がってないと、どこまでも落ちていきそうだった。
無視。暴力。誘惑。
俺の場合は──言葉だった。
「──好きです、付き合ってください」
熱気が残る夏の放課後、誰もいなくなった教室に俺の声だけが響いた。静かに帰ろうとする彼女を引き留めて、誰もいなくなるまで待ち続けて、二人きりになったところで告白した。
目の前にいるのは同じクラスの無口な女子。高校二年の一学期の途中に、別のクラスから移動してきて、誰とも話さず、いつも一人でノートやタブレットを開いているイメージしかない女子だ。
「……」
俺の突然の告白に目を丸くして、じっと見つめ返してくる。長い黒髪に白い肌が印象的だった。華奢な体格で、制服が少し大きく見えて幼く映るのに、彼女がまとっている空気には妙な圧があった。
俺はポケットに手を突っ込んだまま平静を装っていたが、内心は速くなる心臓の鼓動を抑えるのに必死だった。
俺が告白をした理由は――別に好きだからではない。彼女が欲しかったからでもない。対戦ゲームで負けた罰ゲームだ。誰でもいいから告白しろっていう、いつもの悪ふざけ。だから俺は、クラスの中で接点も存在感も薄い相手を探し、彼女を選んだ。無難な選択だと思った。
扉の向こうから、これを見ている友人らの気配を感じる。きっと声を殺しながら録画しているに違いない。彼女の返事がOKでもNGでも、彼女が一つでも反応すれば、「ネタでーす!」って、友人らが乱入してくる予定だ。それで笑って終わる。気晴らしくらいにはなるだろうと、そんな風に考えていた。
彼女の返答はまだない。俺を見つめているその両目は、少し潤んでいるような気がして、そしてどこか悲しげに見えた。まっすぐに俺を捉えている。
ただ照れているだけだろうと思う。俺の性格が褒められたものじゃないのは、他人からも言われるし、自分でもよくわかっている。誰とも付き合ったことがない。深く関わるのが面倒だったからだ。
それよりも。なんでもいいから反応してくれないかな。この後遊びに行きたいんだけどこっちは。
何も起きず過ぎるだけの時間は苦痛だった。廊下の友人たちの笑い声が聞こえてくる。「はあ」と俺はため息を吐くと、彼女は何も言わずにカバンを床に置いて、ノートを取り出した。サラサラと何かを書き始める。
少しの沈黙の後、そっとノートをこちらに突き出すように見せてくる。夕日で赤く染まったノートにはただ一言、
『私のどこが好きなんですか?』
そう書かれていた。
そんなの、どこも好きでもないのに答えられるわけがない。貫くように向けられる瞳に思わず目を逸らし、足元に視線を落とした。じわりと手の中に汗がにじむ。突然の事に言葉が詰まる。
反応できず声が出ないでいると、彼女はそのまま何も言わずにくるりと背を向けて廊下に向かって歩き出した。
……は? ちょっと待って。てか、何、そのノート。これで終わり? 後で返事します、とかやめてくれよ? それじゃ罰ゲームにならない。
「声!」
状況の理解も追いついていないまま、俺は慌ててつい思いついた事を口走った。これで終わりじゃ物足りない。やり直しだとか言われたら洒落にもならない。だったら、みんなが知っている彼女の事情を使えばいい。これなら絶対に止まるはずだ。
「……声がさ、好きなんだよ!」
その瞬間、彼女の足が止まった。彼女を侮辱する一言を俺は息をするみたいに放った。知っていて言ったんだ。
彼女は振り返り、こちらに歩いてきた。みるみる距離が縮まっていく。この後のノリを考えて、冗談っぽく装い、口元を緩ませ笑ってやる。
反応する間もなく、左の頬が乾いた音と共に、じんと熱くなった。耳を突き抜けて、世界が揺れた。平手打ちを受けたと気づいたのは、熱くなった頬に痛みが走った。
やりすぎたか?
耳鳴りが残響になって、その上から新しい耳鳴りが覆いかぶさってくる。すぐに彼女に視線を戻すと、彼女はすでに教室を音もなく立ち去っていた。背中を一瞬だけ見た。彼女が去った扉は開けっ放しのままだ。廊下の向こうは赤く濡れていて、ピントが合わず、世界がぼやけて見える。
「……痛って」
頬に手を当て、俺は近くの机の上に腰を下ろした。窓から外を見る。溜息が勝手に出た。カーテンの隙間から差し込む西日がやけに眩しくて頬に染みた。
「よー善吉! おつかれっしたー! どうでしたか! 感想は!」
三国が楽しそうに声を弾ませて教室に入ってくる。高校で出会い、いつの間にかつるむようになった友人だ。きっかけは忘れたけど。他の友人たちも一緒にドカドカと教室に乱入してくる。
「おい見た? 今のビンタ、撮れてたよな? マジで手ぇ早ぇ……」
「うん、撮った撮った。これショートで伸びんじゃね!」
「やば。この音。完璧入ってんじゃん! お前カメラマンかよ。てか蔦森のその顔、やば」
途端に騒がしくなる教室に冷めようとしていた熱気が戻ってくる。三国らが撮影した動画には、彼女が足早に去っていく後ろ姿が流れている。一緒に見ていたのか、知らない茶髪の女子も面白がって見ているのが映っていた。
「ちょっと再現してもらえる? 俺、えっとなんだっけ、名前!」
「恋仲ひな緒ちゃん、な。実は俺の推し! 物静かなとことか、ぎゃーぎゃー騒がないとことか、めっちゃ楽じゃん。俺、ひな緒ちゃんやるから」
「蔦森は蔦森役な!」
三国が甲高い声で笑い俺を指差す。
「何だよ再現って、ただビンタしてえだけだろっ、うるせぇよ、マジで……」
笑って返そうとするが、自分でもぎこちない笑顔だとわかるくらい声が低かった。まだヒリヒリするが頬から手を離し、近寄ってくる三国らを押し返す。力は込めてない。これもじゃれあいの内だ。
三国たち、もちろん俺もそうだけど、何かが起きるのは笑えるし楽しい。俺が転んだって三国が泣いたって、誰かが怪我したって、それがイベントになればそれだけで暇を潰せる。
「こんな善吉見られるのマジ貴重だから、もう一回対戦するか? 負けたら恋仲を追いかけるとかで! よくね?」
金髪に染め上げた前髪を指で遊びながら、三国がスマホを手に取りゲーム画面を映して挑発してくる。
「二度とやんねえ! 次は格ゲーでボコる! んで、次はお前の番だぞ、三国!」
また声が低かった。いつもなら笑って、三国の肩にパンチする流れなのに。まあでも、これで俺の罰ゲームは終わりだ。やっとこいつらと街に出て、ゲーセンとかに行って適当に過ごして帰って寝るだけのサイクルに戻れる。今度は俺が勝つ。負けた奴にどんな罰ゲームをさせてやろうと考えるが、彼女の表情が脳裏に過ぎった。見た瞬間、頭じゃなく、胸に釘を打たれたような感覚に襲われた。心の奥にもズキンと刺さって、抜こうと思っても抜けない。
彼女は、泣いていた。
涙を見たわけじゃないが、確かにそう思えた。
そりゃそうだ、俺は彼女をバカにしたんだ。
――喋られない病気の彼女に向かって、『声が好き』って言ったんだから。
振り向いてこっちに向かってくるとき、ずっと目が合っていた。彼女はどんな顔をしていた? 怒り? 悲しみ? 悔しさ? すぐに冗談だって言えば、全部なかったことになって、終わったはずだった。放課後呼び出して告白するって、普通冗談だと思うだろ。なんて、俺はまだ自分を正当化しようとしている。
「……なんで気にしてんだよ、俺」
言ってすぐに後悔して。でも引っ込められない。だって恥ずかしいから。恥ずかしい部分を見られたら、自分のプライドを守るために逆ギレもする。向こうが正しいってわかっていることでも認めたら俺の負けだ。
そんな風に考える頭も全部ひっくるめて、俺は自分が嫌いだ。でも、これが俺なんだ。好きにもなれない、嫌いなまま放置しているのが俺。
三国たちの声がやけに他人事のように遠く聞こえる。
恋仲ひな緒。……俺は彼女の名前をさっきまで知らなかった。
足元を見る。平たいはずの床は、点字ブロックのように凹凸になっていた。そこに取り残される自分がいる。張りぼての虚勢で踏ん張っているが、泥の中に入っていくように足が埋まっていく。
このまま沈んでいくのだけは耐えられない。手を伸ばして、誰でもいいから繋がってないと、どこまでも落ちていきそうだった。
