幸せな時間をくれたあなたへ

 あなたからの突然の告白に驚いたのは、それから何度かデートを重ねて、季節が変わって桜の花が咲く頃だった。

「あのさ、久保田さん。俺君のこと、下の名前で呼んじゃだめかな?」

 麗らかな日差しが陽だまりを作ってくれた公園で、急にそんなことを。
 いつもの不器用な笑顔が顔に乗っかっていない。
 きっと真剣なんだと思った。
 でもそれが、ちょっぴりおかしくって。

「いいよ。じゃあ私も三浦君のこと、秀太《しゅうた》君って呼んでもいいの?」

「うん……その……できたら、呼び捨てで呼んで欲しい……」

「……えっ!?」

「あの、よかったら、付き合って欲しいんだ、朝美《あさみ》!」

 え……今度は、私の顔から、笑顔が消える番だった。
 嫌だったからじゃない。
 意外だったわけでもない。
 いつかそんな言葉が欲しいと思ってた。
 それが突然、あなたの口から漏れ出たから、ただびっくりして。

「は、はい! よ、よろしくお願いします!」

「……うん、俺の方こそ、よろしく!」

 あなたの顔にゆったりと、いつものぎこちない笑顔が戻っていく。
 決して満開の華ではなくて、日陰にひっそりと咲く小さな花のように、ささやかな笑顔。
 でもそれを見ていると、いつだって安心できたんだ。
 だってあなたは、あまり人前では笑わない。
 でも私には、たくさんそんな笑顔を見せてくれたから。

 その日から、下の名前を呼び捨てで呼び合うようになった。
 お互いに仕事が忙しくて、なかなか会えない日々が続いた。
 でもたまに会った時には、ずっと一緒に、静かな時間を過ごしていたっけ。
 あなたは相変わらずの口下手で、私から喋ることの方が多かった。

 でもそんなあなたが、私に告白をしてくれた。
 一体どれだけの覚悟があったんだろうかと思うと、とっても愛おしく想えたんだ。
 勇気を出してくれてありがとう。
 そのお陰で、今こうして、二人で一緒にいられるんだよ。

 特別なことなんていらない。
 気の利いた言葉なんて必要ない。
 ただそうして一緒にいられる時間が、私にとっては特別だった。
 高校の時に、一緒に過ごした何げない時間、その時と何も変わらない。
 一分一秒が幸せに感じられる、輝いていた、そんな時間と。

 暖かい陽だまりの中で、一生ずっとあなたと一緒にいられたら……
 そんなふうに思うまでに、それほど時間はかからなかった。

「な、夏に休みを合わせて、どこかへ行かないか?」

 長い沈黙が続いた後にそんなことを言われた時は、ちょっと戸惑ったよ。
 嫌だったからじゃないよ。
 秀太って、そんなことが言える人だったんだ。
 それが少し意外だったから。
 
 私もそうだけど、あなただって大人になっていたのかな。
 少し気になるけれど、でも私が好きなのは、昔と変わらない今のあなた。

「うん、いいよ」
 
 そう答えた時の嬉しそうな顔、今でも忘れられない。
 何度かそのことを話題にしてみたけれど、「覚えてないよ、そんなの」、そんな言葉が返ってきたっけ。
 でもきっとあなただって覚えてる。
 だってそう答える時のあなたの顔には、いつもの笑顔がないから。
 照れて何かを隠したい時に、笑い顔が消えるんだ。
 嘘が下手だったよね、分かってたよ。

 二人で話し合って訪れたのは、信州の上高地。
 電車に揺られてバスに乗り換えてたどりついたのは、青く澄み渡る空と、山々の緑が広がる自然だった。
 たまには都会から離れて、のんびりと過ごしたくて選んだ場所だったけど、その雄大な景色に心が躍った。

 宿にチェックインしてから、手を繋いで散策をした。
 木漏れ日の下は空気が気持ちがよくて、涼しさも感じられる。
 頂上に残雪を湛えた山が遠くにあって、そこから流れ来る川の水は透明で、手を浸すと真冬の水道水より冷たく感じた。

 夜の宿では川魚のお料理を美味しく頂いて、それから外へ出てみると、数えきれないほどの星が、漆黒の夜空に瞬いていた。
 清流を跨ぐ橋の上で、じっと首を上に向けた。

「うわあ、すごく綺麗」

「だね。来てよかったね」

 ずっとこんな時間が続けばいいのに。
 そんなことを想わないではいられなかった。

 そしてその夜、私たちは初めて結ばれた。
 月明かりと星明りに見守られながら、あなたの息遣いを近くで感じた。
 重なりあった肌の温もりに幸せを感じながら、私もその時は女になっていたと思う。
 ずっと想っていたあなたを、今独り占めにできている。
 そんな邪なことも脳裏に浮かべながら、押し寄せる快楽の波間に沈んでいった。

 さすがに覚えていないとは、言わせないわよ。
 でもそのことは、訊いたことがないんだ。
 だって私も方も、少し恥ずかしいから。

 翌朝の食堂では、いつも以上に会話が弾まなくて。
 お互いに目を合わせ辛くて、私は俯き加減で、お箸で納豆をぐるぐると掻き混ぜていたっけ。
 あなたにいつもの笑顔が戻ったのは、その日のずっと遅くになってからだった。

 その日の夜も同じ部屋のベッドに並んで座って。
 するとまたあなたは、昨日よりは落ち着いた手つきで、私を抱き寄せてくれた。
 私もあなたの腰に手を回して、きゅっと身を寄せた。
 
 はしたない女だと、思わないでね。
 こんなのは、あなただけだから。
 そしてまた汗だくになりながら、何度も何度も愛し合った。
 私にとっては、あなたのことを好きになってから10年以上。
 その間の空白を埋めるが如くに、私はまるで獣のように大胆になった。
 次の朝になって思い返すと、顔が真っ赤に染まって、沸騰したやかんのように熱く感じてしまうほどに。

 そんなことがあった夏休みが終わると、またお互いに忙しい毎日が始まった。

「久保田さ~ん、頼んでたプレゼンの資料、できてる~!?」

 職場では今日も上司の檄が飛ぶ。
 たまにはやってられない気分になる時はあるけれど、でも前のように、凹んだり落ち込んだりすることはない。
 だって今の私には、あなたがいるから。

「は~い、今最終チェック中です。あと10分で送りますから!」

 そう返事をして、パソコンの画面にまた向き合った。

「ねえ久保田さん、もしかして、何かいいことでもありました?」

 お昼休みの食堂で、後輩の女の子がおうどんを食べながら、そんな質問をしてきた。

「え……!? いえ、別に、そんなことは……でも、なんでそんなふうに思うの?」

 いいことはあったよ。
 図星を突かれた感じがしてしまって、焦りながら白ご飯を頬張った。

「だって久保田さん、最近すごく綺麗だし。それになんだか、優しくなった気がします」

「え? そ、そう?」

「ええ。課長が無茶ブリすると前はもっと言い返していたのに、今はたんたんとされてます。課長だって、『久保田さん、なんだか丸くなったな』って言ってましたよ」

 そうなのかな……
 自分では、全然気づいていなかったけど。
 ちょっとは余裕が生まれたのかな、秀太がいてくれるお陰で。

 頼れる人じゃなくたっていい。
 解決策なんてくれなくていい。
 ただ、私の小さな話を聴いて頷いてくれる。
 そんな存在があって、いつも心の中にいてくれることは、なんて幸せなんだろう。

 そんなことには気づき始めていた。

「別になにもないわよ。それより沙友ちゃんには、何かいいことはないの?」

「私ですか? そうですね、最近、新しい彼氏ができました!」

「へえ、そうなの? よかったじゃない。どんな人なの?」

「この前の合コンで知り合ったんですけどね、すっごく優しくて恰好いいんです。イケメンで背も高くて! 話だってすっごく面白いんです!」

「へえ、それはよかったわね」

 秀太はどうだろう……?
 顔は普通というか、普段は笑わないからちょっと強面?
 中肉中背で、身長は普通かな。
 話は……あまり面白くないかも。
 口下手だし、趣味や交友関係が広い方でもないし。

 もしかして、いいとこなし?
 けどね、相手が男の子でも女の子でも、昔から態度は変わらなかった。
 だから、変にチャラついたり、下心を感じたことはなかった。
 無口でぶっきらぼうだけど、真面目な努力家。
 そして、たまに私にだけ見せてくれる、うっすらとした笑顔。

 私はそんなあなたのことを、誰よりも好きになったんだ。

 口の中で食むご飯の味が、いつもより甘く感じたのは、気のせいだったかな?
 これも今となっては、もう遠い過去の記憶なんだけど。