五月晴れの空の下、三浦秀太と娘の優美は、遥か遠くに海が見渡せる墓園にいる。
二人とも黒っぽい地味な服装で、手に花束やお酒を携えている。
目の前にある墓石には『三浦家』と刻まれていて、その裏側には小さな文字が刻まれている。
『三浦朝美 享年五十歳』と。
「ほら、お酒をかけてあげよう。お母さんはお酒が好きだったから」
「そうかなあ。私には、お父さんに付き合って飲んでただけに見えたけどなあ」
「ははっ、そうか?」
優美は日本酒の栓を開けて、その中味を墓石に垂らした。
透明の液体がキラキラと輝きを帯びながら、御影石の表面を流れ落ちる。
「ごめんねお母さん、なかなか来られなくて」
優美が墓石に向かって手を合わせて、目を瞑る。
「仕方がないさ。お前だって学校が忙しいんだ。大学に入学できたことは伝えたか?」
「ええ。滑り止めで何とかだけどね」
とは言え、その大学は偏差値が70に近い。
第一志望の国立大学には残念ながら合格できなかったのだけれど、なかなか入れない場所であるには違いない。
「もう六年になるのか。早いなあ……」
優美の言葉が、墓石に染み入っていく。
今日は朝美の命日、そして七回忌でもあるのだ。
ここにいるのは秀太と優美の二人だけ。
三浦家と久保田家の両親はもう高齢ということもあって、あえて誘わなかった。
長い闘病生活の末に朝美が亡くなってから、もう丸六年が過ぎた。
その間に優美は中学、高校を卒業して、今年から大学生になったのだ。
その間にも、色々なことがあった。
朝美が息を引き取った後、悲しみに浸る余韻もないままに、葬儀や納骨の儀に追われた。
家族の中の太陽が無くなった事実は途方もなく大きくて、生活を一変させた。
秀太は仕事や家事に力が入らなくなって、飲酒の量が増えた。
家の中はゴミや汚れ物が散乱して、一時は足の踏み場もない状態になった。
朝美から後のことを託されたことは、秀太にも分かっていた。
けれどそれ以上に、彼女を失った悲しみと喪失感の方が、遥かに大きかったのだ。
そんな家の中を、優美もあまり顧みなくなった。
学校、勉強、友達、理由を付けては、家にいないようになった。
次第に会話も減って、同じ屋根の下にいても、疎遠になっていった。
あれほどに温かさに満ちていた家の中が、まるで地下の牢獄でもあるかのように、寒々とした場所に変わったのだ。
転機になったのは、秀太に新しい仕事が任されたことだった。
大きなプロジェクトに入って、毎日寝る間もなく働いた。
少しでも悲しみを忘れるため、徹底的に自分をいじめ抜いた。
ほとんど眠らず、食事も取らず、酒でそれを紛らわす。。
毎日吐き気に襲われ、体重が10キロほど落ちて、体に骨が浮いてしまうほどに。
その時に思い出したのだ。
かつて妻のため、小さな娘のため、懸命に働いていたことを。
そして、それを支えていてくれた、家族の存在があったことを。
(二人がいなかったら、あんなには頑張れなかっただろうな……)
それからまた少しずつ、秀太と優美との会話が増えていった。
家事も助け合うようになって、優美もだんだんとお料理が上手になった。
「上手くなったな。でもまだ、お母さんには負けるな」
「はいはい。私だってお父さんのご飯よりも、お母さんの方が断然好きだったわよ」
「ははは、そうだな。俺だってそうだ。お母さんのご飯に勝るものは、他にないんだ」
一緒に卓で向かい合いながら、そんな雑談も漏れる様になっていった。
「お父さんは、何かお母さんと話したの?」
手を合わせたままで、優美が秀太に目を向ける。
「ああ。今年から役職を離れたから、少し余裕ができると思う。だからもうちょっと、のんびりしようかと思うよってね」
「そう。いいんじゃない」
「後な、一緒にアフリカに行こうって話したんだよ。丁度、お前が大学を卒業する頃にな。昔お母さんと交わした、約束なんだ」
これは結婚する前に、秀太と朝美が約束をしていたことだ。
新婚旅行は朝美の希望に従う。
その代わりに、二人で還暦を迎えたら、秀太が行きたかったアフリカに、一緒に訪れようと。
「ふ~ん……」
そう言えば、二人の昔のことはあまり聞いたことが無かったなと、優美は思い返した。
「ねえ、お父さんとお母さんは、どっちから告白したの?」
唐突な問いに、秀太は一瞬強張る。
実は同じような質問を前に受けたことはあったのだけれど、その時の秀太は答えを誤魔化していた。
ただ、恥ずかしかった、そんな理由で。
けれど今回は直ぐに、いつもの不器用な笑顔を浮かべた。
朝美がずっと好きだった、その笑顔を。
「お父さんからだよ。東京に出て来て随分と経ってから、お母さんと再会した後でね。けどね、実はお父さん、もっとずっと前から、お母さんのことが好きだったんだよ。高校に入学して同じクラスになって、偶然隣同士の席になった。多分、その時からね」
墓石に手を合わせながら静かに語る秀太に、優美は優しい目を向ける。
秀太と朝美が、このことを話したことはない。
けど実は、二人の気持ちが言葉として形になるずっと前から、静かにひたむきに、お互いを想い合っていたのだ。
『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』
崇徳院作の、百人一首にも登場する名句だ。
滝川の水が岩に割《さ》かれるように離れ離れになって10年、その歳月を経ても、二人の気持ちは変わることがなかった。
「ふうん。もっと早く告白しようとか、思わなかったの?」
「何度か思ったよ。でも、恥ずかしくてできなかった。もっと早く告白していたら、どうなっていたかな」
--少しの沈黙があってから、
「分からないな。でも、それでよかったんじゃないかな。そのお陰もあって、私は今、ここにいられるんだと思うし」
「……うん、そうだな。そうかもな。俺は、お前のお父さんになれてよかったよ。それはきっと、お母さんだって同じだ」
「……お父さん……」
もっと早く告白をしていれば、二人で過ごせた時間は、もっと長かったかもしれない。
そんな二人には違った時間があって、もしかすると、朝美はもっと長く生きられたのかもしれない。
そう想えなくもない。
けれどその世界線の先に、今の優美がいたかどうかは、神様にでも訊かないと分からないのだ。
秀太は過ぎ去った日々に目をやりながら、いつも想っていることを、また心の中で呟いた。
(守ってやれなくて、ごめんな)
その短い言葉は、秀太の終生の遺憾にして、魂の慟哭だ。
ずっと傍にいたのに、なんでもっと早く、気づいてやれなかったのか。
朝美を元気にしてやりたかった。
それが叶わないのなら、一日でも長く生かしてやりたかった。
代われるものなら、代わってやりたかった。
例えこの身がどうなっても、朝美が元気になるのなら。
朝美がいない場所で、涙と鼻水を垂らしながら、何度も何度も神様に祈った。
自分はどうなってもいい、だからどうか朝美を……
胸の奥は軋んで、いつも血を流していた。
けれど、その切なる願いが叶うことはなかった。
十分なことをしてやれただろうか。
そんな自責の念は、多分一生消えないだろう。
(朝美、やっぱりお前がいないと寂しいよ。でもこれからも、なんとか生きていくよ。だから、いつか俺もそっちへ行く日まで、待っていてくれるかい? こんな俺なんかでよかったら。もしまた出会えたなら、今度こそもう離れずに、ずっと一緒にいよう。大好きだ、朝美)
そんな秀太が遠い目を向ける空は、どこまでもどこまでも青く澄んでいて、いくつもの鯉のぼりが泳いでいた。
二人とも黒っぽい地味な服装で、手に花束やお酒を携えている。
目の前にある墓石には『三浦家』と刻まれていて、その裏側には小さな文字が刻まれている。
『三浦朝美 享年五十歳』と。
「ほら、お酒をかけてあげよう。お母さんはお酒が好きだったから」
「そうかなあ。私には、お父さんに付き合って飲んでただけに見えたけどなあ」
「ははっ、そうか?」
優美は日本酒の栓を開けて、その中味を墓石に垂らした。
透明の液体がキラキラと輝きを帯びながら、御影石の表面を流れ落ちる。
「ごめんねお母さん、なかなか来られなくて」
優美が墓石に向かって手を合わせて、目を瞑る。
「仕方がないさ。お前だって学校が忙しいんだ。大学に入学できたことは伝えたか?」
「ええ。滑り止めで何とかだけどね」
とは言え、その大学は偏差値が70に近い。
第一志望の国立大学には残念ながら合格できなかったのだけれど、なかなか入れない場所であるには違いない。
「もう六年になるのか。早いなあ……」
優美の言葉が、墓石に染み入っていく。
今日は朝美の命日、そして七回忌でもあるのだ。
ここにいるのは秀太と優美の二人だけ。
三浦家と久保田家の両親はもう高齢ということもあって、あえて誘わなかった。
長い闘病生活の末に朝美が亡くなってから、もう丸六年が過ぎた。
その間に優美は中学、高校を卒業して、今年から大学生になったのだ。
その間にも、色々なことがあった。
朝美が息を引き取った後、悲しみに浸る余韻もないままに、葬儀や納骨の儀に追われた。
家族の中の太陽が無くなった事実は途方もなく大きくて、生活を一変させた。
秀太は仕事や家事に力が入らなくなって、飲酒の量が増えた。
家の中はゴミや汚れ物が散乱して、一時は足の踏み場もない状態になった。
朝美から後のことを託されたことは、秀太にも分かっていた。
けれどそれ以上に、彼女を失った悲しみと喪失感の方が、遥かに大きかったのだ。
そんな家の中を、優美もあまり顧みなくなった。
学校、勉強、友達、理由を付けては、家にいないようになった。
次第に会話も減って、同じ屋根の下にいても、疎遠になっていった。
あれほどに温かさに満ちていた家の中が、まるで地下の牢獄でもあるかのように、寒々とした場所に変わったのだ。
転機になったのは、秀太に新しい仕事が任されたことだった。
大きなプロジェクトに入って、毎日寝る間もなく働いた。
少しでも悲しみを忘れるため、徹底的に自分をいじめ抜いた。
ほとんど眠らず、食事も取らず、酒でそれを紛らわす。。
毎日吐き気に襲われ、体重が10キロほど落ちて、体に骨が浮いてしまうほどに。
その時に思い出したのだ。
かつて妻のため、小さな娘のため、懸命に働いていたことを。
そして、それを支えていてくれた、家族の存在があったことを。
(二人がいなかったら、あんなには頑張れなかっただろうな……)
それからまた少しずつ、秀太と優美との会話が増えていった。
家事も助け合うようになって、優美もだんだんとお料理が上手になった。
「上手くなったな。でもまだ、お母さんには負けるな」
「はいはい。私だってお父さんのご飯よりも、お母さんの方が断然好きだったわよ」
「ははは、そうだな。俺だってそうだ。お母さんのご飯に勝るものは、他にないんだ」
一緒に卓で向かい合いながら、そんな雑談も漏れる様になっていった。
「お父さんは、何かお母さんと話したの?」
手を合わせたままで、優美が秀太に目を向ける。
「ああ。今年から役職を離れたから、少し余裕ができると思う。だからもうちょっと、のんびりしようかと思うよってね」
「そう。いいんじゃない」
「後な、一緒にアフリカに行こうって話したんだよ。丁度、お前が大学を卒業する頃にな。昔お母さんと交わした、約束なんだ」
これは結婚する前に、秀太と朝美が約束をしていたことだ。
新婚旅行は朝美の希望に従う。
その代わりに、二人で還暦を迎えたら、秀太が行きたかったアフリカに、一緒に訪れようと。
「ふ~ん……」
そう言えば、二人の昔のことはあまり聞いたことが無かったなと、優美は思い返した。
「ねえ、お父さんとお母さんは、どっちから告白したの?」
唐突な問いに、秀太は一瞬強張る。
実は同じような質問を前に受けたことはあったのだけれど、その時の秀太は答えを誤魔化していた。
ただ、恥ずかしかった、そんな理由で。
けれど今回は直ぐに、いつもの不器用な笑顔を浮かべた。
朝美がずっと好きだった、その笑顔を。
「お父さんからだよ。東京に出て来て随分と経ってから、お母さんと再会した後でね。けどね、実はお父さん、もっとずっと前から、お母さんのことが好きだったんだよ。高校に入学して同じクラスになって、偶然隣同士の席になった。多分、その時からね」
墓石に手を合わせながら静かに語る秀太に、優美は優しい目を向ける。
秀太と朝美が、このことを話したことはない。
けど実は、二人の気持ちが言葉として形になるずっと前から、静かにひたむきに、お互いを想い合っていたのだ。
『瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ』
崇徳院作の、百人一首にも登場する名句だ。
滝川の水が岩に割《さ》かれるように離れ離れになって10年、その歳月を経ても、二人の気持ちは変わることがなかった。
「ふうん。もっと早く告白しようとか、思わなかったの?」
「何度か思ったよ。でも、恥ずかしくてできなかった。もっと早く告白していたら、どうなっていたかな」
--少しの沈黙があってから、
「分からないな。でも、それでよかったんじゃないかな。そのお陰もあって、私は今、ここにいられるんだと思うし」
「……うん、そうだな。そうかもな。俺は、お前のお父さんになれてよかったよ。それはきっと、お母さんだって同じだ」
「……お父さん……」
もっと早く告白をしていれば、二人で過ごせた時間は、もっと長かったかもしれない。
そんな二人には違った時間があって、もしかすると、朝美はもっと長く生きられたのかもしれない。
そう想えなくもない。
けれどその世界線の先に、今の優美がいたかどうかは、神様にでも訊かないと分からないのだ。
秀太は過ぎ去った日々に目をやりながら、いつも想っていることを、また心の中で呟いた。
(守ってやれなくて、ごめんな)
その短い言葉は、秀太の終生の遺憾にして、魂の慟哭だ。
ずっと傍にいたのに、なんでもっと早く、気づいてやれなかったのか。
朝美を元気にしてやりたかった。
それが叶わないのなら、一日でも長く生かしてやりたかった。
代われるものなら、代わってやりたかった。
例えこの身がどうなっても、朝美が元気になるのなら。
朝美がいない場所で、涙と鼻水を垂らしながら、何度も何度も神様に祈った。
自分はどうなってもいい、だからどうか朝美を……
胸の奥は軋んで、いつも血を流していた。
けれど、その切なる願いが叶うことはなかった。
十分なことをしてやれただろうか。
そんな自責の念は、多分一生消えないだろう。
(朝美、やっぱりお前がいないと寂しいよ。でもこれからも、なんとか生きていくよ。だから、いつか俺もそっちへ行く日まで、待っていてくれるかい? こんな俺なんかでよかったら。もしまた出会えたなら、今度こそもう離れずに、ずっと一緒にいよう。大好きだ、朝美)
そんな秀太が遠い目を向ける空は、どこまでもどこまでも青く澄んでいて、いくつもの鯉のぼりが泳いでいた。
