米を炊いておにぎりを作る。具はその時の気分次第だ。
今日は梅干しの気分だったので、コンロの下から大きめの瓶を取り出す。実家製の梅干しだ。半年食ってもまったく減らない。
こういう昔ながらの保存食が、今は何より頼もしい。
「だけど梅干しつけるのって大変なんだよなぁ」
あくびが出る。眠い。なにせ昨夜の就寝時間は5時半。俺が起きたのは8時だ。3時間も寝ていない。頭の奥が霧がかったような感覚に、梅干しの瓶を抱きしめた。
だってさ、腹が減ったんだよ。腹がキュウキュウ鳴って寝られねぇんだって。昨日の夜はちっとも腹は鳴らなかったのに、安全になったと思ったらすぐに腹の虫は鳴き始めた。現金な身体をしやがって。
「おにぎりと、味噌汁だろ。あー、豆腐の味噌汁が食いてぇ」
わかめと豆腐とネギ。この組み合わせは、なんでこんなに心が惹かれるのか。あいにくうちには乾燥わかめと乾燥野菜しかないのだが。
あと食べたいものと言ったら、沢谷のお母様が作ってくれる卵焼きだ。卵がないから絶対に作れないが、沢谷にどんな風に作ってたか聞いてみるかな。
そんな風に考えていると沢谷が、部屋の方からひょっこりと顔を出した。キッチンには火にかけられた鍋。そして梅干しの瓶を抱きしめた俺が居る。
わずかな沈黙が流れる。
「梅干し、大事だよね」
「……沢谷にはシソだけ入れてやる」
「シソ?」
「赤紫蘇で梅干しを赤く色つけんの。あとなんか防腐剤代わりにもなるらしいぜ」
市販の梅干しにはシソは入ってないよな。
なんて思いながら解説していると、沢谷が鍋を指した。
「水野。たぶん焦げてる」
「なん……!?」
急いで立ち上がってコンロの火を止める。
焦げ臭いか? 外には漏れてないよな?
沢谷を見ると一つ頷いて、ベランダを見に行ってくれた。たぶん3分くらいの間、ベランダから外の様子を窺ってくれて……戻ってきた。
「大丈夫だよ」
「……おう。ありがとな」
「ご飯は大丈夫だった?」
俺は鍋の蓋をパカリと開けてみせた。
今日のおにぎりはちょっと焦げている。そんな日があっても……あんまりないほうがいい。
とにかくおにぎりを握って、乾燥野菜と乾燥わかめの味噌汁も作った。出汁は昆布でとり、配給物質の味噌をちょっとずつ入れて味をみた。
「だがやっぱり薄い……!」
「俺は美味しい、かな。うん、昆布の味がわかる」
味噌汁椀に口をつけた沢谷は、嬉しそうに笑った。直後に「味噌の味はわからないけど」と付け加えられなければ、俺ももっと嬉しかったんだが。
少々茶色の混じったおにぎりを手にとりかぶりつく。意外にいけるな。もくもくと食べていると、沢谷が正面で顔を覆って震えている。
「どうした?」
「み、水……」
「お、おう」
キッチンに行って水を汲んでくる。沢谷の近くにコップを置くとすぐに沢谷は水を飲んだ。その勢いたるや強のスイッチを入れた掃除機のごとしだ。
コップの中の水を飲み干すと、沢谷は何度か髪の毛を耳にかけようとして失敗していた。コレは照れている時の仕草だ。
沢谷の食事の時の所作っていつもカッチリしてるもんな。立て箸や刺し箸をしてるところなんて見たことがないし、ゆっくり丁寧にでも米粒ひとつ残さず食べていた。
——ソレを考えると俺との同居中の食事では、かなり恥ずかしい思いばかりさせていたのでは……?
「あー、なんだ。梅干しか? 白米か?」
「梅干し。甘かった。砂糖1キロ入れた餡子より甘かった」
「お、おう」
「甘かったからぎりぎりいけた」
「さすが甘党」
軽く拍手すると沢谷は満更でもない様子で笑っていた。
梅干しは食べれはした。でもいくら甘党の沢谷でも美味いものではなかったんだろう。
飯の度に味のクジを引いてる現状は、やっぱりどうにかしてやりたい。沢谷に食欲がある内は、できるだけ美味いものを食べさせたい。
沢谷がふつうの食べ物を食べられなくなる「いつか」から目を背けて、俺は味噌汁を飲んだ。そんなに味噌を入れてないはずなのに、味噌汁はしょっぱかった。
「というわけで沢谷、目をつむれ」
「どういうわけなの……」
また例の女性作家のミステリー小説を読んでいた沢谷が、空飛ぶクマでも見たような顔で見てくる。
くそ。沢谷なら流されてくれると思ったのに、そう簡単にことは運ばないらしい。
俺は咳払いをしてから、他の言い訳を探した。沢谷が本を閉じてジッと俺を見る。
「なにか隠しているよね」
「な、なんだ?」
「水野のしたいことならなんでも協力してあげたいけど」
沢谷は言葉を切ると、ニッコリと笑った。
「俺、隠されるのは嫌いなんだよね」
イケメンの「嫌い」には、肉体を直接的に攻撃する力でもあるのか!? なんか心臓が飛び跳ねたぞ、今!
俺はビビりながら口を開いた。
「……確認したいんだよ。沢谷の味覚」
「俺の? ちょっと驚くけど、別に不便は……」
不便はない。そう言われる前に口を開く。
「沢谷に俺の料理を美味いって言わせたいんだよ!」
……あー。くそ、言っちまった。
耳が熱い。頬も熱い。つまり顔面真っ赤か。恥ずかしくて憤死するぞ、このままだと!
しかし無情にも俺と沢谷の間には沈黙が流れる。
もういっそ木刀で頭をめった打ちにしたい……。
なんて思っていたら、沢谷が耳に髪をかけた。
「水野。その理由は……恥ずかしい」
「俺もめちゃくちゃ恥ずかしいぜ。一緒だな……!!」
「……ごめん」
「おうよ」
そんなやり取りの後、沢谷は目をつむっての味覚の確認を了承して——くれなかった。なんでだよ! いまの了承してくれる流れだっただろ!?
「これはかつおだし」
「甘いね」
「これは塩水」
「……砂糖水?」
「いや、こっちが砂糖水な」
「しょっぱい」
家中のカップを探し出して、カップの中に味のついた液体を一口分入れる。それを沢谷に飲んでもらって感想を聞き、メモをとる。目をつむらないなら協力すると言われて、俺は折れた。目をつむっている方が味が分かりやすいと思うけれど、それは俺の考えだしな。
沢谷の今日の味覚テストは順調で、あとは二つのミニ計量カップだけだ。中身はどっちも黒い液体だ。
沢谷が匂いを嗅ぐ。沢谷の嗅覚は俺と——人間とそう変わらない。だからこそ味覚のギャップが大きいのだろう。
「醤油とコーヒー?」
「正解。どっちもだいぶ薄めてるけど舐めるくらいでいいし、無理は絶対にするな」
沢谷がアイスコーヒーを吐いた時のことは、まだ昨日のことのように鮮明に覚えている。ショックだった。沢谷はもっとショックだったはずだ。
拒否されるかもしれない。そう思いながらも、俺はコーヒーをミニ計量カップに入れた。
コーヒーと醤油を沢谷は舐めた。俺はコーヒーの味のところに、泥と書いた。
水の入ったコップを沢谷に渡す。沢谷が水をちみちみと飲むのを見ながら、俺はノートを閉じた。
「こういう感じで、毎日朝一番にやりたいんだけどどうだ?」
「うん。大丈夫。
…………水野ってさ」
「なんだ?」
「底抜けのお人好し」
「ちげぇよ。沢谷以外、うちに入れてないから」
なにを言ってるんだ。俺はどっちかというとワガママなクソガキだぞ。なんて思っているのに、沢谷はそういうところだと肩を竦めてしまった。
味覚テストを始めて3日目。
俺が待っていた日がやって来た。砂糖水は甘い。塩水は辛い。コーヒーは——
「……苦い」
「……よしっ」
ガッツポーズだ。そんな俺を見てようやく実感が湧いたのだろう。沢谷の頬がゆるゆるに緩んだ。
「水野。アイスコーヒーが飲みたい」
「コーヒーフレッシュは様子見だぞ」
「わかってる」
沢谷の指が軽くテーブルを叩く。浮かれたリズムだ。
40分後のテーブルには、おかかのおにぎりとたくあん。
それから、アイスコーヒーの注がれたコップが二つ並べられた。
「水野。コーヒーは苦手じゃなかった?」
「今日は飲みたい気分なんだよ」
大仰にコップを持ち上げれば、沢谷が自分のコップを近づけてきた。カツンと硬質な音が鳴る。
「「乾杯」」
声が揃った。コップを口に近づけて一口飲む。やっぱり苦い。俺がガムシロップの蓋を三つ開けている間に、沢谷のコップのアイスコーヒーは半分になっていた。
沢谷は微笑んでいる。でもすこしだけ泣きそうに見えたのは、気のせいってことにしておいてやろう。
「そんなに入れ甘すぎない?」
「ちょっと甘いな。沢谷のは?」
「苦くてすこし甘いよ」
俺の目元もすこし湿っぽい気がしたが、絶対に気のせいだ。
