横路のポータル電源売りが落ち着きをみせたある日の放課後。俺はふと気になっていた疑問を横路に投げかけたことがある。
「ゾンビって昼と夜で行動とか違うの?」
ゾンビ映画だとたいていのゾンビは昼夜動き回っている。だが、暗所や夜の方がより危険だという描写がされやすい気もしていた。あれってホラーの定番だからなのか?
はたまた本当にそうなのか?
そんな単純な疑問に、横路がズレかけていた眼鏡をクイッと持ち上げた。
「基本的に変わりません。身体能力も個人差の範囲内ですね。ただ嗅覚と聴覚が発達しているという研究結果もあります」
「ちょっと意外。夜目は利かないんだね」
沢谷も気になったらしく会話に入ってきた。横路は机の中からタブレットを取り出す。俺と沢谷はもちろん身構えた。
「覚えてますよ。犬が大変な目に遭うのは……」
「「NG」」
沢谷と声が揃う。横路は「懐かしいですね」と呟いてから、声を潜めた。
「これはゾンビの巣窟となった学校から逃れた生徒の証言です。見ますか?」
俺は頷いた。沢谷は気分が悪くなったら止めてもいいかと聞いていた。横路は沢谷の言葉に頷き、動画の再生ボタンを押した——。
手首の冷たさに、意識が現在に戻ってくる。
目の前の沢谷は俺の手首を掴んだまま、背後の道路の様子を窺っていた。
アパートの2階建てであり、俺の部屋は202号室。他に住人が住んでいる部屋は、1階の101号室か。
この101号室に住むおばちゃんは、18時に寝て6時に起きるロングスリパーな上に一度寝ると朝まで目覚めたことがないらしい。だから、このおばちゃんがゾンビの気を引く行動をしたという線はない。
沢谷が振り返る。無言のまま、2本の指を立てた。
ゾンビは2人居る。
俺は頷いた。それから声を発さずに、「こちらを見ていたか」と尋ねる。沢谷は頷いた。
——迂闊だった。
横路も言っていたじゃないか。ゾンビは昼夜で行動が変わることはない。ただ嗅覚と聴覚が発達しているかもしれないと。
線香花火に六本も火をつけたんだ。火薬の臭いがしたのかも知れない。
後悔や反省は後だ。今はこの場を切り抜けることを考えろ。
音を立てる行為もダメだ。つまりこのベランダから離れられないってことか。あとダメなのは何だ? 火薬の臭いをどうにか……いや、臭いを消すのも怖い。音を出さずに消す方法も思いつかない。
あとは——あとは——
——ヤツらは感情を見せない。
——ただ「生きた人間」には執着する。
いつだったか横路に見せてもらったゾンビの学校から脱出した男子生徒の声と姿が、脳内で再生される。
——出歩くなら昼間だ。防護服は二重にして着ていた。
——安全な場所を確保しろ。出入口にはバリケードを作れ。
——見つかるな。見つかるな。見つかったら、逃げろ。
——すぐにそこから逃げろ!
ぽんと軽く肩が叩かれた。脳内で再生されていた映像と音声が途切れ、代わりにこちらを覗きこむ眉尻を下げた顔が俺の目玉に映った。
途端に、頬に熱が集まる。
やべぇ。パニックになってた!
——ごめん、と口の動きだけで伝える。
——いいよ、と口の動きだけで返ってくる。
たったそれだけなのに肩の力が抜けた。
沢谷が居れば大丈夫だ。根拠のない自信が精神を平常に戻していく。
けれど事態は何一つ変わっていない。ゾンビが二人、こっちの様子を窺っている。……増えてる、とかないよな。
いやそういう想像もだめだ。パニックになる。
代わりに俺は、パクパクと口を動かした。
——動かない?
——動かない。
だよなぁ。ただし沢谷は顔の前で2本の指を立てた。
ゾンビの数は変わってないらしい。これは嬉しい情報だ。そして現状はできることがないというのも分かった。
これはどちらかというと悪い情報だが、今ならたぶん大丈夫だ。沢谷が近くに居てくれるから。
夕日がゆっくりと沈みはじめ、空が藍色に染まっていく。
——夕飯、食べといてよかったな。
——そうだね。天ぷらサクサクだった。
——すべてはオーブントースターに任せろ。
軽口を金魚みたいに口をパクパクさせながら叩く。
そうしている間にも藍色の空が、暗闇に塗りつぶされていく。今は何時なんだ? それすらも確かめる術はない。
胸がドクドクと脈打っている。まずい。気を逸らさなければ。
なんかないか、なんか——
顔を上げる。沢谷の顔を見る。
瞬間、脳に電気が走ったように俺は悟った。
顔だ。沢谷のイケメンな顔について考えよう。
たとえばそうだ。沢谷の顔は綺麗だが、どんな綺麗さかは考えたことがなかったな。
アイドルっぽい華やかな顔立ちではない。
俳優も違うな。
どこかすこし非現実的で、現実から外れすぎない——そう、絵画だ。
沢谷の綺麗さは、絵画に似ていると思う。モナ・リザみたいな天才画家が完璧に描いた美。けど神様や天使の絵ほど神々しくはない。あくまで人間の美って感じがする。
でも雰囲気は、なんか和風なんだよな。抹茶よりアイスコーヒー派なのに、坂の上の古書店で本を読んでいるのが似合う。そんなイケメンが沢谷だ。
——なんで俺は、親友のイケメンぶりを考察しているんだ?
きっと俺の顔が酸っぱい梅干しを食った時と同じ顔をしていたのだろう。沢谷も困ったように視線をさまよわせている。
——すまん。
——いいよ。大丈夫?
——大丈夫だ。
声を出さないやり取りにもだいぶ慣れてきた。
だが慣れは油断を産む。必要な時だけ話そうとまではいかないが、やり取りは短くしなければ。なんて考えるとすげぇくだらないことを言いたくなるんだよな。
——俺、さっき気づいたんだ。沢谷って古書店のモナ・リザじゃないか?
なーんて言えば、さすがの沢谷もちょっと引くかも知れない。俺もそんな発言をした自分に引く。
……今の思考でだいたい1分くらいが過ぎた。
短いな。とにかく待たなくちゃな。今ので5秒くらいか。
時間が経つのが遅い。遅すぎる。
ああ、あとどのくらい待てばいいんだ?
——触れている手が、かすかに動いた。沢谷がまた背後の様子を窺っているのだ。俺も息を潜める。
10秒後、沢谷が振り返る。ゆっくりと首が横に振られ、唇が動く。夜の闇が濃くなってきた所為でうまく読み取れない。
20時から強制消灯だからな。点灯するのは玄関のインターホンくらいだ。もちろん20時以降に明かりが必要になった際のランタンは持っているが、あいにく本日はテーブルに設置されていない。
だから、いいのか? ……たぶん、ダメだ。絶対に沢谷は気にする。
それでも俺は、ほんのすこしだけ沢谷に近づいた。小指一本分だけ、沢谷の方に身を乗り出した。
沢谷の口がぴたりと閉じる。手首を冷たい人差し指がトントンと叩いた。
——読み取れないんだよ。
——でも、
——目が慣れるまでだ。悪いな。
ちいさな沈黙の後、沢谷は頷いた。
——目が慣れる間だけ。
俺も頷く。まだすこし読み取りづらい。
——時間が長く感じるよな。
——うん。さっきまで円周率を数えてた。
——マジか。何桁までいけるの?
——70679まで。
——何桁目だよ、それ。
笑いそうになって腹に力を込める。笑い声の一つにも神経質になっているのに、恐怖心はほとんどなかった。考えるのはそろそろ沢谷が目は慣れただろうかと言い出さないかだけだ。
——沢谷、ありがとう。
——どうしたの?
——お蔭様で今だけゾンビが平気になった。
危機感がないと窘められるだろう。そう思ったのに、沢谷は虚を突かれたような顔をして何も言わない。あんまりにも何も言わないので、俺は焦れて名前を呼んだ。
——沢谷。おーい、沢谷春くん?
——……はぁ。
長いため息が返ってきた。よく分からないが、こいつは今絶対に俺に呆れている。沢谷の笑いのツボもよく分からないが、呆れるポイントもよく分からない。……ということがわかった。
——水野。もう慣れた?
——……おう。ありがとな。
不承不承に頷いて、身体を慎重に引っ込める。ここで物音を立てたらアホらしい。
——あいつら、たぶん朝まで居ると思う。
——マジか。朝まで何時間だよ……。
——9時間くらいかな。寝ててもいいよ。
——イビキかきそうだから、パス。
すこしの間話し合って、俺たちは朝まで会話をすることにした。相手が声を出しそうな内容はダメで、口パクなら円周率を千桁唱えていてもOK。
——すげぇな。そんなに覚えてんだ。
——ありがとう。でも目標は一万桁かな。
——寿限無が可愛く思えてくる。
——楽しいよ。
いつそんなに覚えたのかと尋ねれば、この半年間でと帰ってきた。たしかに時間だけはあるもんな。俺は何してたっけ。ネットが使えなくなった頃から、ひたすら筋トレしていた気がする。
たんぱく質がなかなかとれない配給生活では、ほとんど筋肉はつかなかったが。運動不足解消にはなっていたことだろう。
声を出さずに話をして、時折やってくるパニックをやり過ごし、沢谷が定期的に背後の道路の様子を窺う。
それを何十回か繰り返してようやく空が白んできた。
夜が明けて、日が上る前のひんやりと冷たい白い世界。
ゾンビの動向を窺っていた沢谷が振り返る。掴まれていた手首にギュッと力がこもった。
——静かにしてろってことか?
唇を真一文字に結ぶと沢谷が振り返る。
「……っ」
沢谷が笑っている。いまにも泣き出しそうな顔で笑っていた。
「もう大丈夫」
俺の手首から冷たい指が離れていく。冷たい手を追いかけようとした俺の指先は、瞬く間にギュッと握りしめられた。沢谷の手は冷たい。俺の手は温かい。二つの温度が入り混じって、どちらが冷たいのか温かいのか分からなくなっていく。
「水野が無事でよかった」
笑ってるのに、どうして泣きそうなんだ?
その問いは無意味な気がした。きっと沢谷の言葉が全ての答えだった。
