あれから2日が経った。インスタントコーヒーはコンロの下の棚に仕舞いこんだ。ひんやりマットにコーヒーのシミは残らなかった。その日の昼飯は野菜チャーハンで、沢谷は残さず食べた。夕飯の肉なしカレーは、半分だけ。
カフェインや刺激の強いものがダメなのか?
だけど冷やした麦茶は澄ました顔でチミチミ飲んでいる。
とにかく味の濃い食べ物は避けよう。
……と思ったのだが、カレーがまだ鍋いっぱいに残っていやがる。
「カレーうどんにしてみるか?」
「うどん?」
テーブルの向かい側で小説を読んでいた沢谷が小首を傾げる。俺は小説のタイトルをぼんやりと眺めた。泉鏡花の短編集だ。親父が持ってきた本だろう。
本が閉じられた。水野と名前を呼ぶ声がする。
「おう」
「昼はうどん?」
「考え中。……なあ、なにうどんがいい?」
「なんでもいいよ」
「デスカレーうどんにするぞ」
「喜んで」
嘘つけ。食べられないかもしれないクセに。
だけどこう言ったからには、食べれなくても涼しい顔をして沢谷は完食するだろう。
食材も限られているんだから、なんでも食べてもらえるのはありがたい。ありがたいが、なんか違う気がする。
一緒に飯を食うって、そんなものだったか?
胸の内に巣くう靄をうまく言葉に変換できずに、俺はありきたりの質問をした。
「その本、面白かったか?」
「うん。面白かったよ」
微笑む沢谷に、よかったなと頷いてみせる。
泉鏡花って「面白い」……か?
沢谷が立ち上がって、教科書とかを適当に入れてる3段ボックスの一番上に本を片付ける。それから部屋を出て行ったので、俺はなんとなしに沢谷が片付けた本を手にとった。
新品同様にピカピカしている本には、紙の栞が挟まっていてる。「外科室」の最後のページだ。とりあえず有名らしいこの話を読んで、文体の難しさに脱落したんだよな。
——沢谷も「外科室」を読んでいたのか?
いや多分違う。本を開いたら栞が挟まれたページが開いたとして、目に入るタイトルは「外科室」の次の「琵琶伝」だ。
俺はパラパラと本をめくった。
外科室は平たく言うと男女の悲恋。
琵琶伝は——琵琶伝は……
本をめくっていたページを止める。
生き残った。復讐を成し遂げた女が生き残った。
本を元の位置に戻す。
「あー」
琵琶伝は、男が死んだ。女は生き残った。
何故かは分からない。でも多分そうだろうと俺は確信してしまった。
沢谷は、近いうちにこの家を出ていくつもりだ。
頭をガシガシとかき回す。
アイスコーヒーが飲めなかったから? カレーライスを半分残したから? 配給日にゾンビに会っても襲われなかったから? それとも、なんか急に俺と居るのが嫌になった?
「くそー」
頭をガシガシとかいていると、沢谷が帰ってきた。
「頭皮を傷めるよ」
「素直に禿げると言え!」
床に寝転がる。視界の端で沢谷が眉尻を下げてこっちを見ているのがわかった。俺の様子がちょっとおかしいとすぐに気づくクセに、心配するクセに——。
目元を手で隠す。
「どうしたの?」
「死んだフリ」
「クマでも見た?」
「おー」
いつも通りの軽口を言う。いつも通りの返事がある。
なんか腹が立ってきたな。約束しただろ。夏休みの終わりまで付き合うって。なにかあれば話しあうって。
約束したのに破るのかよ。そんなのは沢谷らしくない。
らしくないのに、俺から離れるのは沢谷らしい判断だ。
昼飯は素うどんとカレーうどんをどっちも食べられるように、つゆを別にした。沢谷は涼しい顔ですすっている。
うどんは美味いんだろうか。食感だけでも楽しめていたらいいのに——沢谷の表情は読めない。
くそ。俺はなんでこんなに悩んでるんだよ。
一言物申せばいいじゃないか。沢谷、出て行くつもりか。なんでだって。
「美味しいね、うどん。
乾麺のうどんもあるなんて知らなかったな」
「俺も。乾麺の蕎麦もあるんだぜ」
「あ。それは知ってる」
「知ってんのかい!」
「この前、配給物資に入ってたから」
沢谷はうどんを食べる手を止めた。そして微笑んで言う。
「まだ残ってたから持ってきたらよかったな」
笑うなよ。俺も笑わなくちゃ変だろうが。
「おうおう。取りに戻るなよ」
「まだ未開封だったし……」
「残念ながら俺はうどん派だ。家主の意向により諦めてもらうぜ」
「はいはい」
適当な返事。意味のない軽口。
聞こえるたびに、口にするたびに俺の心の奥がざりざりと削られていく気がする。スコップで穴でも開けてんのかな。——そんな訳、ないか。
片付けは沢谷に任せて、しばらくカーペットの上に転がってた。なにも頭に浮かばない。こういうのを思考停止って言うんだろう。
——怒りのつぎはこれか。
なんてぼんやりと考えながら、ベランダの方を向く。網戸から生温い風が流れてきて頬を撫でていった。俺は立ち上がり、網戸を引いた。
猫の額ほどの広さのベランダには洗濯物が干してある。両隣の部屋は人が居なくなって久しいから、洗濯物がちょっとはみ出しても怒られることはない。
洗濯竿を通り過ぎ、ベランダの欄干に肘をつく。
今年はまれに見る冷夏なんて言われてるが、外は文句なしにいい天気だ。
「暑いな」
「エアコンつける?」
「エアコンはつけられないんだよな」
これはうちのアパートの方針だ。熱中症予備軍を作り出したいわけではなく、室外機の音がゾンビを引き寄せると大家さんが信じきっている。
ゾンビは物音や声に反応するらしいけど、エアコンの室外機の音は眉唾ものだよな。——まあ当の大家さんがこのアパートには住んでいないので、気にせずつけてもいいんだが。
まあ夕方になったら涼しくなる。
夕方になったら……
俺はふと思い出し、玄関に向かった。ミニコンテナボックスを開けて、米袋の後ろに隠した袋を取り出した。よかった、潰れてないな。
「沢谷」
俺は袋を掲げた。部屋に居た沢谷が首だけ振り返る。
袋を振ってみる。紙特有の軽い音がした。
「それって……」
「線香花火。配給物資に入ってた。
せっかくだからやろうぜ。なんか夏っぽいし」
「……夜に?」
沢谷は慎重だ。ゾンビが花火の明かりに目をつけることを危惧しているのだろう。線香花火だから大丈夫だと思うけどな。
「日が暮れて来た頃に30分だけ。
どうだ? 花火大会としては破格の短さだぞ」
「…………しかたないなぁ」
ジト目にため息一つ。それだけで受け入れるんだから、やっぱり沢谷には勝てなさすぎてむかつくよな。だが、そんなちっぽけなプライドは今は見ない振りだ。
夏の夕方はなかなかやって来ない。18時を過ぎても明るい空を見上げながら、ノンフライ天丼を食べた。
19時過ぎになってようやく日が沈み始める。本を読んでいた沢谷が——今度は女性作家のミステリー小説だ——俺をちらりと見下ろす。
俺はもちろん頷いた。テーブルに置いていたマッチ箱と線香花火の袋を手にとり、ベランダに出る。ベランダの隅の方には水の入ったバケツもあり、準備は万端だ。
「見つからないように」
そう言うと沢谷は、コンクリートに腰を下ろした。俺もその場に座る。マッチ箱を沢谷に渡す。今年の初めの配給物資に入っていたマッチ箱は、俺だって使ってみたことがある。けどなんか沢谷にやってみてほしかった。
箱の側面をマッチ棒が擦る。やっぱり一発でつけやがった。俺は取り出していた2本の線香花火を、ゆらゆら揺れる火に近づける。……なかなかつかない。
ふっとマッチ棒の火に庇がつくられ、火のゆらめきが消えた。沢谷の手だ。
線香花火に火がついた。沢谷がさっとマッチ棒をバケツに投げいれる。
「ナイス。ほれ、沢谷の分」
「うん。ありがとう」
火の玉の周りで火の粉がパチパチと踊る。
俺はぼんやりとそれを眺めた。さっき一瞬だけ、沢谷の指に手が触れてしまった。本当に一瞬だったし、沢谷はマッチ棒を気にしていたから多分気づいていない。
——冷たかった。目の前に居て、喋って、飯だって食うのに沢谷の手は氷だった。
なにか。なにか。なにか。
聞かなくてはいけない。言わなくてはいけない。
それなのに、線香花火を見ている沢谷の顔は穏やかで。
「あ、勝った」
「へ?」
沢谷が俺の花火を指さす。
火の玉がポトリと落ちていた。俺は古い花火を片付けてから新しい線香花火を取り出して、沢谷の花火に近づけた。
「水野、ずるい」
「俺一人じゃ、花火に火はつけられないからな。
しかたないよな」
頷きながら火花に俺の線香花火を近づける。沢谷は呆れ顔だが逃げない。——とりあえずこの辺にして、自分で火をつけてみるか。
そう思った時、線香花火に火がついた。
パチパチと火花を散らす花火を、沢谷の花火から慌てて遠ざける。
「こんなことあるんだな」
「もう止めてね」
「……はい、すみません」
軽く頭を下げると押し殺した笑い声が聞こえてくる。お? やるか? ……大笑いだけじゃないだけマシか。
沢谷も俺の謝罪がおかしくて笑っているわけではない。なんかこいつは俺のつむじを見ると笑うクセがあるのだ。それなら毎秒笑ってるんじゃないかと聞けば、ふだんは微妙に視線を逸らすようにしているらしい。
「今度は俺の勝ちだな」
「……む」
ポトリと落ちた火の玉を見て沢谷が眉根を寄せる。そして沢谷も二本目コースだ。また一回でマッチ棒に火をつけると、俺が取り出した二本目の線香花火に火を移した。
俺の線香花火はまだまだ景気よく火花を散らしている。沢谷の線香花火はつけたばかり。
次はどっちが先に消えるのか。——一緒に消えたら、すこし笑えるかもしれない。
「沢谷」
「うん」
「……夏休みって、あと三週間くらいだっけ」
「そんなにないよ。あと18日」
穏やかな声に穏やかな笑顔。いつも通りに過ごす沢谷が、嫌だった。けどその気持ちは、胸の奥に押し込める。
頬の筋肉を適当に動かして、適当に笑う。ちょうど夕日が沈んできたから、沢谷にも見えづらいだろうと思って。
「短いな」
「そうかな」
嫌だな。5年も近くに居ると笑いのツボも、好きな飲み物も、真剣な時の顔も——嘘をつかないようにしているときのクセも分かってしまう。
俺は、何にも気づかない振りをして沢谷を送り出すべきなんだ。一緒に飯も食えたし、けっこう話もしたし、今の状況って最高に夏の思い出っぽい。
だから、満足……したくねぇな。
「なぁ、沢谷」
「どうしたの、水野」
「もし、もしさ……」
風が吹いた。花火の火が、二つコンクリートの上に落ちる。
引き分けだなって言って、今度はちゃんと勝負を申しこんでみるか。なんて思いながら線香花火を捨てようとした俺の手首を、冷たい手が強く握った。
沢谷は反対側の手の人差し指を自分の唇に押し当ててから、音を立てずに口を開く。
——後ろの道路に。
——ゾンビが居る。
