すっかり冷めたトーストにブルーベリージャムをぬって口に運ぶ。俺の正面に座った沢谷は、青色のジャムを薄く塗ったトーストの端を栗鼠のようにかじっていた。
「これは答えなくてもいいんだけどさ、味とか変わんないのか?」
俺が感染者について知っている知識は、大半が横路の受け売りだ。あいつは何て言ってたっけと思い返していると、沢谷がぽつりと零した。
「一番残ってるのは食感かな。
トーストの焦げたところがカリカリしてるとか、ジャムがどろっと口の中で溶ける感じはわかる」
「……味は?」
「いまは美味しいよ」
「もう一声」
「……一口ごとに味が変わる。いまはジャムが吐きそうなくらい甘い」
そんなもったいないことはしないけれどと笑って、沢谷はトーストを食べる。味はどうにもできないが、昼は面白い食感のヤツを食わせてやりたいな。
もちもちしてるやつとか、プルプルしてるやつとか。
ふと時計に目をやる。8時過ぎだ。いつもなら朝飯を食べながら、夏休みの宿題をいかにサボるかを考えてた。
こんな時まで届くんだぜ? 夏休みの宿題。
配給物資と一緒に——あ。
ポカンと口を開けた俺を、沢谷が訝しそうに呼んだ。
「水野?」
「今日、配給の日じゃん!」
「そうなの?」
「そうなの。区で日にちって違うんだっけか」
「みたいだね。俺の家は先週だった。
——配給場所ってどこ?」
「たしか今回は近所の公園。歩いて20分くらいのところ」
配給の場所は、毎回ランダムだ。
最初の頃は避難所に指定されてる建物だったが、人間が多く居れば居るほどゾンビも大勢やってくる。何度か配給場所が襲われることがあって、今の方式になった。
ゾンビに襲われることは減ったけど、まったく知らない場所を指定されることもあるのでちょっと困るんだよな。
幸い今回は近所でよかった。なのに沢谷は眉間にシワを寄せている。
「俺が取りに行っちゃだめかな?」
「マイナンバーカード認証で弾かれるだろ」
「じゃあ……」
「ついてくるのはナシ! 他のヤツに見つかったらどうする」
首元や顔をじっくり見られなければ大丈夫かも知れない。だが絶対大丈夫だとは言えないのだ。
……それは俺もだけど。
「防護服着ていくし、近所だからまあ大丈夫だろ」
「あれはあまり当てにならないよ」
「……まさかだが、防護服越しに噛まれたのか?」
逡巡してから沢谷は頷いた。ペラいペラいと思ってたけどマジか。
そういえば、沢谷はどういう状況で噛まれたんだろう。
気にはなったが、聞く気にはなれなかった。野良のゾンビならまだいい。近親者に噛まれることもあるからだ。
それこそ本人が感染者となったことを隠していたり、逆に感染者だと分かっていながら匿っていて……なんてパターンも聞いたことがある。
いずれにせよ、沢谷が話してくれないなら聞くのは止めておく。
代わりに俺は話題を変えた。
「じゃあ木刀を持ってく」
「いや置いていって。ゾンビを見かけたら戦うよりすぐに逃げる」
「わかった」
「配給場所に居る人間にも近づかない」
「……ん?」
「とにかく人間に見えても絶対に近づかない」
「お、おう」
心配性か?なんて茶化す暇もなかった。
沢谷の目はマジだった。
防護服は蜂の駆除に使われる服に形は似ている。
ただ布はペラい癖に着ると暑い。顔部分だけはアクリル製で視界に不都合はないが、俺はいつかこの板を割ってしまう予感がしている。
ポケットにマイナンバーカードと家の鍵を入れる。小脇に黒いミニコンテナボックスを抱えれば外出スタイルの完成だ。
「あっつ……」
「ないよりはマシだろ」
「さようでございますね……」
玄関に仁王立ちする沢谷は、まったく納得していない。だが配給を取りに行かない選択肢がないのを分かってくれているのだろう。もう反対する言葉は出て来なかった。
「沢谷。手、開けて」
「なあに?」
不思議そうにしながらも素直に開かれた右手に、鍵を載せる。俺のポケットに入っている鍵とは別のもの。こっちは合鍵だ。
目を見開く沢谷の顔面を指差す。
「いいか? 外に出るならちゃんと書き置きしていけよ」
「……うん」
「その日中には帰ってくること。人間には見つからないこと。あとは——」
沢谷が噴き出した。おいこら、俺は大真面目だぞ。
外に出るならこれくらい普通に——ほとんどさっき沢谷が俺に言ってたことじゃないか!?
俺があんぐりと口を開けていると、沢谷は口元を手で隠しながら笑い続けていた。
「……行ってくる」
「気をつけ……ふふっ……ありがとう、水野」
笑いながら礼を言う沢谷を半眼で見ながら、俺は自宅の扉を閉めた。
近所の公園には、黒いミニコンテナボックスが何十個も置かれていた。それと空のミニコンテナボックスが積み重なっているスペース。俺もまずは空のボックスを置く。
次は自分の名前が書かれたミニコンテナボックスを探す番だ。
これはちょっと時間がかかる。なにせこの辺りの住人用のミニコンテナボックスがランダムに並べられているからだ。——ドローンで適当に並べてるって噂、本当なのかもな。
俺は十分ほどかけて自分のコンテナボックスを見つけて、ボックスに取り付けられている南京錠に似た装置にマイナンバーカードを差した。顔認証とパスワード認証をクリアすると、南京錠が開く。南京錠をコンテナボックスから外して地面に置き、コンテナボックスを抱えたらミッションコンプリートだ。
「おも……」
「ほんとにねぇ。でも命の重みだから」
男性の声にギョッとして振り返る。50代くらいの男性がニコニコを笑っていた。配給場所ではめったに話しかけれない。みんな自分のコンテナボックスを探すのに忙しいし、ここがゾンビに襲われない保証もないからだ。
実際、いつの間にか数人が公園に来ていたが誰もが黙々と自分のコンテナボックスを探している。
「君、水野くんて言うの? 私も水島って言うんだ」
だから何!? 水島の手は空だ。俺は話を逸らすことにした。
「コンテナ、早く探したほうがよくないですか?
危ないですし」
「いい子だねぇ」
水島が笑みを深くした。背筋がゾッとする。
「僕はもう自分の分は家に持って帰ったんだよ。
だから水野くんを手伝ってあげられるよ」
そっかそっか、親切な人かぁ。——なーんて能天気に思えるかバカ野郎! 配給場所でのトラブルでもっとも多いのが、認証終了後のコンテナボックスの強奪だぞ!?
ただ親切な人にしても怖すぎる!!
俺はコンテナボックスを持つ手に力を込めた。
「結構です! どうもありがとうございました!」
周りにも聞こえるように声を張り上げてから、俺はそれ以上なにも聞かずに走り出した。
いつも使わない道を爆走してから振り返る。水島もゾンビも居ないな。
「あっつ……おっも……」
自業自得だ。ただの親切な人で笑顔のまま別れられたかも知れないのに。だがただの親切な人でも家に近づける訳にはいかない。
ため息をつく。額から垂れてくる汗が鬱陶しいが、防護服を脱げない。
「次の角を曲がったら、いつもの道か」
家に着くまであとだいたい15分か。
ちょっと遠回りになったな。まあそんなに遅くはならんだろ。あんまり遅くなったら、沢谷が心配して迎えに来たりして——なんてな。これ以上考えていたら現実になりそうな気がして、思考を打ち切ると俺は角を曲がった。
すぐに元の道へ引き返した。
背中からブワッと汗が噴き出す。家への帰り道には、ゾンビが居た。
ゾンビを見かけるのは初めてじゃない。しかも一人だ。
とりあえず公園に戻って——いや、戻っていいのか?
あのまままっすぐ歩いて行ってくれば、ゾンビは公園にたどり着かない。
ただ角を曲がれば、俺がその場に居なくてもいずれ公園に着く。
——あいつが道をまっすぐ行くのを待つか? でもどのくらい待てばいい?
——それより公園に戻って知らせた方がよくないか? 俺が動いたことに、ゾンビが気づく可能性があるんじゃないか?
息の感覚が短くなる。目蓋の裏にはさっき見たゾンビの姿が焼きついていた。
ボロボロの防護服の下に黒いスーツを着た20代の女性だった。いや女性だった存在が、真っ白な肌とは正反対の赤い目をぐりぐり回しながら、直角に曲がった右足首を引きずりながら歩いていた。
ゾンビは基本的には走らない。ゆらゆらと振り子みたいに揺れながら歩く。
ゾンビが走るのは、人間を見つけた時だけだ……。
3分経った。まだたった3分だ。俺はミニコンテナボックスをそっと地面に置いた。小さくだが音がした。息を止める。足音は——聞こえてこない。
決めた。ゾンビの横をすり抜ける。あのゾンビが右足の怪我の分、足が遅いことに賭ける。ついでに配給物質の無事も祈っておく。
細く深く呼吸する。耳を澄ませる。
——足音が、聞こえた。
一か八か。俺は地面を蹴って角を曲がった。
「……水野?」
「……沢谷?」
木刀を片手に持った沢谷がパチパチと瞬きしながら、こっちを見ている。ゾンビは居ない。まっすぐに歩いて行ったんだ……。
安堵からその場に膝をつくと、沢谷が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「水野」
「大丈夫だ。迎えに来てくれたのか?」
「うん。やっぱり気になっちゃって」
「この心配性め。……まぁ、助かった。
さっきゾンビがそこに居てな」
「ああ、女の人?」
「へ?」
なんで知っているんだ。歩いていく後ろ姿でも見たのか?
首を捻りながら、とりあえずミニコンテナボックスを取りに帰る。当然だが無事だ。それでもホッと一息ついている合間に沢谷は俺に木刀を押しつけ、ミニコンテナボックスをひょいと持ち上げた。
「筋肉がずるい」
「水野にもついてるよ」
「沢谷よりはつかねぇよ」
軽口を叩きながら、帰り道を歩く。道の半ば頃、俺はようやくさっきの違和感を思い出した。
「ゾンビ、見たのか?」
空を見上げた沢谷は、小さく「うーん」と呟いてから。
「あのゾンビ、俺の前をずっと歩いてたんだよね。
——公園の方に行かなくてよかった」
目に汗が入る。俺は目を瞑ってから、なんでもないように聞こえるように祈りながら「そうだな」と返した。
