俺たちの耳目にゾンビという単語が入ってきたのは、約一年前。高校一年の夏休みだ。
外国のとある国でゾンビが出たらしい。
スマホで海外のニュースを見ていた沢谷が、首を傾げながら教えてくれた。
「ゾンビが出たんだって」
「映画かなんかのプロモだろ」
「うーん……」
「甘いっ!!」
横から眼鏡をクイッと持ち上げて、クラスメイトの横路がスマホを構えた。スマホの画面には動画投稿サイトが映っている。
「これはインド在住の日本人KTOさんという方が撮影した動画です……あっ。ところで犬が酷い目にあうのは二人ともNGですか?」
「「NG」」
沢谷と声が揃った。横路は残念そうに「ちゃんとテロップやモザイクもかけてあるんですけどぉ」と呟いているが、そういう問題ではない。すべての犬よ、幸せであれ。
「話が終わったんなら……」
「いやいやいや! 聞くだけでいいんで聞いてください。
水野くん。沢谷くんの言うとおり、ゾンビは居ますよ」
「……はぁ。なるほど」
「日本ではまだ確認されていないだけです。
インドはもちろん西洋諸国や東南アジア、近くだと中国なんかも……噂があります」
「うわさ、ねぇ」
「僕が言いたいのはですね、水野くん。
ゾンビを見てからでは遅いということです。
……これがどういうことなのか、よかったら考えてみてください」
それだけ言うと、横路はすり足で自分の席に戻っていった。沢谷と目を合わせる。俺は沢谷のスマホを指した。
「さっきのニュース、どう思った?」
「嘘ではないと思う」
はっきり言う沢谷にちょっと驚いた。俺の知らないところでゾンビはもう「居る」らしい。
「横路の言うとおり、今から準備をするべきだよ」
「準備って……ゾンビに対する?」
問いかけながらも俺の思考は、どこかフワフワしてた。
なんたってゾンビは、映画やゲームの中の存在だ。急には信じられないけれど、沢谷は真面目な顔をして考えている。だからとりあえず俺も真面目な顔をした。
「俺なら籠城できるようにするかな」
「食料とか水あつめて?」
「そう。懐中電灯とか……災害に対する備えみたいだね」
そこでちょうど授業開始を告げるチャイムが鳴った。
話が終わった。だからなんとなくゾンビのことは、終わったことだと棚上げしてたんだ。
……だって、そうだろ? その日は一学期の終業式——明日から、夏休みだったんだから。
「……今日だって夏休みだけどな」
一年前を思い返しながら、冷蔵庫を素早く閉める。20時以降は電気の使用量を制限するため、冷蔵庫の電源も落としているからだ。もちろん電灯なんてものはつけられやしないから、テーブルの上にランタンを置いてある。
ひんやりするカーペットの上に座りながら、無言で俺の行動を見ていた沢谷の前に麦茶の入ったコップを置いた。
「ほらよ」
「ありがとう。……じゃなくてさ」
「とりあえず先に飲めよ。どんどんぬるくなるぞ」
今度こそ沢谷はコップに唇をつけた。それを確認してから俺も麦茶を飲む。
「やっぱり夏は冷えた麦茶だよな」
「毎年そう言うよね」
「真理ってことだ」
「……それも毎年言ってる」
……マジで?
沢谷と出会ったのは中一の時だから、もう五回は言ってるってことか?
そんなに言ってたかと思い返していると、沢谷はちみちみと麦茶を飲む。もっと豪快に飲めばいいのに、相変わらずお上品なヤツだ。
「あのさ」
「ん?」
「朝まで麦茶、飲んでていい?」
神妙な顔で言われて、俺は麦茶を噴き出した。
ついでに気管に入り、ゲホゴホと咳き込む俺を沢谷は心配そうに見ている。
そうだ。沢谷はこういうヤツだ。時々真面目な顔で斜め上なことを言う。
ついでにいつもなら、こういう時はまるで子どもにするように俺の背中を撫でることもある。
だけど今はそうじゃない。俺との距離はずっと一定以上離れていて、真顔で変なことを言い出して。
「……お前は床。寝袋な」
「水野、」
「ちゃんと分かってるし、俺も距離はとる。
……だから、そんなに遠慮すんなよ」
「——本当に?
本当に、わかってる?」
沢谷はまっすぐに俺を見て、学ランの首元のボタンを外した。学ランとシャツを強引にめくって、自分の首元をあらわにする。——赤黒い傷跡は、人間の歯の形をしていた。
それから、口の端をあげてニイッと笑ってみせる。
「こんな風に俺に噛まれちゃうかもしれないんだよ」
「いや噛むなよ」
「無理。止められるものじゃない」
「それならなんだ。わざわざインターホンのボタン押して、俺を噛みにきたのか?」
「それは違っ……あー」
失敗したとばかりに沢谷が天を仰ぐ。その前に首元を隠せ。いまのお前の首、かなりやばめにグロいから。
「こんなはずじゃなかった」
「おう。予定通りに行かなくて悪かったな」
「沢谷だからしかたないよね」
「お前それ悪口だろ」
喧嘩なら買うぞ? 俺が負ける未来しかなくともな!
腕組みしてガンを飛ばしていたら、沢谷が掠れた声で笑い出す。もうなんなんだコイツ。俺は呆れながらも、いつの間にかつられて笑っていた。
麦茶も空になり、23時も過ぎた頃。
俺たちはようやく笑いから解放された。
「腹が痛い……喉も痛い……」
「自業自得だ、ボケ……」
「水野の声も掠れてる」
「くそ……否定できない……」
天井を見上げて軽く息をつく。それから沢谷の顔を見た。
「とりあえずさ、夏休みの終わりまではうちに居ろよ」
「それは……」
「それから考える。どうだ?」
「俺に都合がよすぎるよ」
「言うと思った。
一人だとつまんないから、俺のために居てくれ」
目を丸くする。顔をしかめる。肩を落とす。
——大きな、ため息。
「無理だと思ったら出ていくから」
「わかった」
「俺も距離をとるけど、水野も距離とって」
「わかったわかった」
「あとは、これ持ってて」
その辺に蹴飛ばした木刀が、沢谷の手から渡される。俺が枕元に立てかけると、沢谷はうらめしそうに言った。
「水野には敵わない」
「おうよ」
「絶対に意味分かってないだろ」
まだうらめしげな沢谷を無視して、カップを片付ける。
寝袋を敷くなら、このテーブルも退かさないとなと思っていると沢谷がランタンを床に置くとさっさとテーブルを折りたたんでいた。
