俺の親友はまだゾンビじゃない



 時計の短針が7を指している。長針は3だ。
 7時15分か!?
 目を皿のようにして時計を見る。7時15分だ。
 俺は床を見た。寝袋は片付けられ、折りたたみ式のテーブルがすでに設置されている。真向かいの二つの場所に、箸が一膳ずつ並べられているところも完璧だ。ちくしょう、コップも出てやがる!
 これは今日こそ一言言わねばいけない。俺は部屋から顔を出して、キッチンを覗いた。
 妖精の囁きのようなハミングが聞こえる。いい気分で歌っていられるのも今のうちだぜ。——なんていう俺の意気込みは、じゅうっという焼き音とふわりと香った甘い匂いで打ち砕かれた。

「卵焼きか!?」
「おはよう、水野。そうだよ」
「う……おはよう。そっか、水島さんがくれたヤツ?」
「そうそう」

 フライパンを揺らした沢谷が、綺麗に卵焼きをひっくり返す。同時に油がつぎ足されて、すこしすると卵液もフライパンに滑るように流れこんでいく。
 俺、フライパンでこんなに綺麗に卵焼きできる自信ねぇや。
 この前の配給日。水島さんが、どうしてもお礼がしたいとくれた卵。心当たりがなくて使うのは腰が引けてたんだが、沢谷が卵焼きにしてくれてよかったな。

「なんか手伝うことある?」
「まず顔を洗ってきて」
「……はーい」
「それからご飯ついでくれる?」
「もちろん!」

 元気よく頷いて洗面所で顔を洗う。フカフカのタオルで顔を拭いてから、俺は鏡に映る自分を見て首を傾げた。
 なんか忘れてるような……沢谷に言うことがあるような……。

「あっ……くそ!」

 キッチンまで走っていく。沢谷が包丁を取り出して卵焼きを切っているところだった。

「沢谷、お前なぁ。俺の仕事をとる——むぐ!?」

 口の中にアツアツの卵焼きを放り込まれる。熱い! でも美味い!

「美味しい?」
「……すごく美味い」
「よかった。久々に作ったからちょっと不安で」

 まあ卵なんてめったに手に入らないもんな。
 それにしてもさすが沢谷。おばさんの味を完璧に受け継いでいる。高校1年の頃、あの空き教室で沢谷の弁当からもらった卵焼きの味そのままだ。

「懐かしい?」
「おう。おばさんに感謝だな。もちろん沢谷にも」

 俺はしゃもじを手にした。この仕事まで奪われてはたまらない。

「咲希も練習で作ったヤツ、いっぱい食べてくれてたんだ」
「咲希ちゃんにも感謝!」
「水野くんのためにがんばれって応援してくれてたよ」

 ご飯茶碗につやつやピカピカの白米をつぐ手が止まる。
 んん? 咲希ちゃんよ、なんでそこで俺?
 答えを求めて沢谷を見るも、ニッコリと笑っているばかりである。
 まあとりあえず後で聞いてみるか。
 冷蔵庫を見てみると、たくあんがもう残り数枚だ。
 今日は贅沢に梅干しとたくあんも食べちゃうか! たまには塩分高めの朝もあっていいだろう。
 ご飯茶碗と漬物類は俺が、卵焼きの乗った皿は沢谷が持って席につく。
 それから手を合わせて——
 
「「いただきます」」

 声が揃った。いいなと思う。俺はこういう瞬間が好きなんだろう。ホカホカの卵焼きに箸を伸ばす。

「……今日は食べれそうか?」
「水野が食べさせてくれるなら」
「おまえなぁ……」

 まあこういう冗談が出てくるってことは、今日の味覚は調子がいいんだろう。卵焼きをつまみ上げ、そのまま口に入れようとしてUターンさせる。

「水野?」
「ん」
「……食べちゃうよ?」

 沢谷が口を開けたので、まだ熱い卵焼きを遠慮なく放り込む。さきほどの俺ほどではないが、沢谷が目を白黒させながら卵焼きを食べた。

「……水野」
「俺は食べさせてあげただけだからな」

 恨めしげな声を無視して、次なる卵焼きに手を伸ばす。

「水野はこの卵焼きが好きだよね」
「お、おう」

 なんだろう。なんか引っかかる物言いだな。
 このデカめに切られた卵焼き、沢谷も食べたかったのか? いや、やらん。この卵焼きは俺のだ!
 俺が卵焼きを口に入れたタイミングで、沢谷が口を開いた。

「俺が高校1年の春から母さんに習って、水野のために作ってた卵焼きが大好きだよね?」
「……!?」
「前みたいにぜんぶ食べていいよ」
「……!? ……!?」

 どういう意味!? 教えて天国の咲希ちゃん! 君のお兄ちゃん、俺の胃袋を掴んでなにがしたいんだ!?
 にこにこ笑う沢谷と、冷や汗を流しながら美味い卵焼きを食べる俺。そんな妙な空気は朝飯の時間が終わるまで続き、何とか皿洗いの権利を勝ち取った俺が皿を洗って部屋に戻ると沢谷は本を読んでいた。
 ——泉鏡花の短編集だ。心臓がドクリと存在を主張する。
 俺は一人分のスペースを開けて、沢谷の隣に座った。

「……どれ、読んでんの?」
「外科室」
「意外だ」
「そう? 前は琵琶伝が好きだったけど、今は外科室の方が好きなんだよね」

 そう言って沢谷は本を閉じた。外科室も琵琶伝も恋愛ものだが、琵琶伝は女性が生き残って一抹の希望がある。対する外科室は、男女ともに亡くなってしまう。
 どっちが幸せな話なのかは分からない。琵琶伝だって復讐はできても好きな男は死んでるしな。
 ——まぁ、心境の変化があったのはいいことなのか?
 俺は横の壁を見て首を傾げた。
 ハンガーで壁に2着の学ランが吊り下げられている。
 1着はちょっとボロい。沢谷のだ。
 もう1着は俺のだ。沢谷の学ランと大きさを比べ——は、しまいぞ。

「明日、9月1日だね」
「おう。新学期だな」
「新学期だから、水野も学ラン着るの?」
「そうそう。で、読書感想文をやる……」
「新学期なのにまだ夏休みの宿題やるつもりだ」
「提出日までならセーフなんだよ」

 軽口を叩きあう。こういうのも好きだ。
 しかし時間の経過は無情だ。そろそろ着替えて、読書感想文用の読書に励まなければならない。
 いやいや、その前に——スマホだ。
 ベッドサイドにスマホを取りにいって、災害伝言用ダイヤルで親父の番号にかけた。音声は、4か月前と変わらない。
 次に思いたって、横路の番号にかけてみた。
 新しい音声があった。ポチッと再生してみる。

『みなさん! 人間ですか? 感染者ですか? ゾンビですか!? とりあえず元気ですかー!?』

 隣から小さく噴き出す音が聞こえた。
 俺も笑いが止まらない。感染者はともかくゾンビまで聞いてる想定だぞ、横路は!

「横路はたくましいな」
「ゾンビになってもこのテンションで喋りそう」
「……やめろ、容易に想像できる」

 俺たちは少し迷ってから、音声メッセージを更新した。


「水野と」「沢谷です」「「今日もちゃんと食べてる」」