「……わかった」
どんな話を聞いても俺の考えは変わらないと思う。
だが、沢谷が話したいと思ってくれたことだ。最後まで聞こう。
そう思っていると沢谷の背が離れた。チラッと見てみれば、沢谷は握った両手を額に当てて背中を丸めている。
俺は背中で沢谷の背を小突こうとした。肩があたった。
「わ、悪い」
「ううん。ちょっと気が抜けた」
ここでなら良かったなんて思ってはいけない。沢谷はけっこう我慢強いからな。だから後ろの様子を気にしながらも、俺は前を見る。話せるまで待つぞと言葉にしたら、沢谷は申し訳なく思う。そういうヤツなんだ。
「……水野の家に行った5日前に、咲希が泣きながら帰ってきたんだ」
咲希は沢谷の妹だ。沢谷とは二つ離れてるから、いま中学2年生だっけ。俺が沢谷家に行くと「陸ちゃん、陸ちゃん」と後を回ってついて来た。沢谷と同じく和と洋のいいところどりの美少女で、小学生の時はクラスで逆ハーレムを築いていたなんて話を聞いたことがあるくらいだ。多少盛られた話だとは思うけど、それくらい可愛いのは認める。
とにかく俺にとって咲希ちゃんは、沢谷の可愛い妹という認識だ。そんな咲希ちゃんが泣いてただって? そいつは兄貴として許せねぇよな、沢谷。
「でも母さんや俺が何を言っても何でもないの一点張りで、部屋に閉じこもって三日が経ったんだ」
3日の間。沢谷と沢谷の母は、思いつく限りのことをやったらしい。毎日何回も声をかけた。ご飯と飲み物を乗せたおぼんを1日3回部屋の前に置いた。沢谷は知る限りの咲希ちゃんの友達に咲希ちゃんに何があったか聞いて回りもしたそうだ。
だけど、閉ざされた扉の向こうからはすすり泣きが聞こえるだけで返事はない。おぼんの上の食事はほとんど手をつけられていない。こんな世の中だ。沢谷の聞き込み活動はうまくいかなかった。時には門前払いされたあげくに塩を撒かれたらしい。
塩を!? 貴重な調味料を!? 信じられねぇ、撒いたヤツは塩がスーパーでまだ買えると思ってんのか?
今どきスーパーに塩は売ってないんだぞ!?
いかん、いかん。今は咲希ちゃんだ。
3日経って咲希ちゃんが外に出てきたんだよな。
その後は……
「咲希はゾンビになってた」
後ろを振り返りたい。沢谷が泣いてないか確かめたい。
そんな衝動が襲ってきたが、実行する前に沢谷が椅子を座り直した。椅子がカタカタと小さく揺れて、背中に学ランがあたる。
「名前を何度も呼んだんだ。咲希はうめき声をあげるだけだった。目も真っ赤なんだけど、首筋がそれよりずっと真っ赤で歯形がついてて——痛々しくて」
「手当てをしなくちゃ。そう思って咲希に手を伸ばした」
沢谷の背中が震えている。俺は手袋を脱いで、ぶらぶらと揺れている沢谷の手を掴んだ。冷たい。まるで氷を暖めているみたいだ。
沢谷の指が微かに俺の手を握り返す。俺も先ほどより強く握り返した。
「咲希は俺の首を噛んだ。
その時、悲鳴をあげたんだと思う。
母さんがやってきて……引き返した。でも母さんはすぐに帰ってきた。うちで一番よく切れる包丁を手に持ってさ」
「——咲希の背中を刺したんだ」
「母さんは咲希を何度も刺した。咲希は俺を離して母さんを噛もうとしたよ。母さんはその隙に、咲希の首を掻ききった」
血が出たんだ、と沢谷が言う。
咲希ちゃんの首から血が出て、それが母親の顔にかかった。
「母さん、咲希の頬を撫でたんだ。
世界で一番大好きよって言うみたいに。
——それ、から……」
沢谷の呼吸が乱れる。俺は振り返って沢谷の背中を撫でた。これ以上はいい。もう十分だ。だけど沢谷は話を続けた。
「母さんは、自分の首を掻き切った。
パッと障子に血が飛んだんだ。でも、咲希の血より真っ赤じゃなかった」
「咲希の赤黒い血と母さんの赤い血が、廊下に流れてて……」
「廊下の血、拭いたんだ。母さんと咲希が冷たくなっていく横でずっと血を拭いてた。それから、仏間に布団を敷いて母さんと咲希を寝かせたんだ」
「二人とも重かったなぁ。なんであんなに重かったのかな。咲希なんてあんなに小さくて軽かったのに」
沢谷の背中はずっと震えていた。泣いてない。いや多分泣けないんだ。背を撫でていた手を止めて、さっき沢谷がしてくれたみたいに頭を撫でる。
沢谷は何も言わなかった。ただパタパタとズボンに涙が落ちる音だけが微かに聞こえていた。
「水野。そんなに俺に優しくしないで」
「……いやか?」
「くるしい。
俺だけ幸せで苦しい。
母さんと咲希にあんなことしたのに……」
息を一つ落として、沢谷は俺の手を強く握った。
「俺は母さんと咲希を閉じこめて来たんだ」
沢谷も言葉で思い出す。
出入口がすべて板と釘で閉じられた、沢谷の家。
もしかして、あれのことか……?
尋ねれば沢谷は素直に頷いた。
「見たんだ。酷い有様だったろ?
母さんと咲希を隠すためにやったんだ。
ゾンビになった娘と、そんな娘を殺した母親なんて外聞が悪いから」
「違うだろ」
露悪的な沢谷の言葉はすぐに否定できた。すると沢谷が上を向く。「なんで?」と首を傾げた沢谷は無表情だった。
「動かなくなったゾンビは墓にも入れない。保健所に回収してもらわなくちゃいけない。ふつうの死人は火葬場まで連れて行って焼かなくちゃいけない。
咲希ちゃんに噛まれたお前にはどっちもできなかった。
沢谷は、二人が一緒に居られる墓を作ってあげただけだ」
は、と微かな息の音が聞こえた。
沢谷は目を丸くして、笑おうとして、失敗して泣いた。
「相変わらず、水野はめちゃくちゃだ」
「そうか? 沢谷はもう少し素直になれよ」
あんまり泣き顔を見られたくないだろうと思って、椅子に座り直す。沢谷が、握ったままの俺の手をぶらぶらと揺らしていた。
「……最後の釘を打ち終えてから、思ったんだ。
最後だから水野に会いに行こうって。
どうせ会えないだろうけど、それでもって」
「……会えちまったな」
「……一緒に住んじゃったしね」
だから怖かったのだと沢谷は言う。
思いもよらない方向に事が運んで、だけどそれはけっして嫌なことじゃなくて。
「夜に水野が寝てから、毎日考えていたんだ。
幸せだな。俺だけがこんなに幸せでいいのかな。
よくない。出て行かなくちゃって思うのに——」
「水野におはようって起こしてもらうと駄目になった。
それでも君を噛みたくなくて、アパートを出たのに」
俺が追いかけてきたんだよなぁ!
ハッハッハ! いやぁ、これは俺の勝ちだろ。
アパートに帰ったら、沢谷に今日までの冒険の話でも聞かせてやるかなぁ!
内心では勝利の鼻歌を歌いながら、俺は努めて冷静にとあることを聞いた。聞いてしまった。
「俺を噛むのが嫌だっていうけど、俺が他のゾンビや感染者に噛まれる危険性って常にあるよな。それってどう思ってたん——」
「噛まれたの!?」
速攻で防護服の首元が引っ張っられ、俺は潰れたカエルみたいな鳴き声をあげた。ついでに耳元でビリッという無情な音が聞こえた。
「よかった。噛まれてないね」
「沢谷、お前なぁ……!」
「そうだね、水野の言う通りだ。水野は無警戒のくせに無鉄砲なんだなら、俺が側についてないと」
「ぼ、防護服が、ビリッて……!
1着しかないんだぞ!?」
沢谷はニッコリと笑った。菩薩のように穏やかな笑顔である。
「帰ったら直してあげるよ。
ね、アパートに帰ろう。水野」
沢谷が立つ。手を握ったままだったので、俺もつられて立つ羽目になった。
「帰る。帰るけどさぁ」
「うん」
「なんかもうちょい情緒が足りないっていうか」
「それは水野が悪いから諦めて。
……俺のぜんぶをまるごと肯定してくれたんだから」
どういう意味だよ。なんで今日に限って沢谷の言ってることが、時々わからなくなるんだ。
なんて愚痴りながらも、手袋をはめて、防護服の頭部をかぶり、リュックサックを背負う。
俺が準備を終えると、窓から周囲の様子を窺っていた沢谷が教室の扉を開けた。
「裏門が空いた。今のうちに一気に行こう」
「おう」
「手、繋ぐ?」
「なんで? 走りにくくない?」
「こういうこと!」
沢谷が俺の手を掴んで走り出す。やっぱり走りにくい。けれど頬を撫ぜる風が気持ちよくて、横を見ると沢谷が笑っていて、なんだか笑いたくなった。声はあげないけどな。
部室棟を出て裏門をくぐりぬけ、道路を走る。もちろん角や背の高いビルには気をつけたが、水分補給は忘れてた。
一気にアパートまで走るとさすがの沢谷も汗だくだ。風呂に押し込んで、リュックサックを玄関に下ろす。
リュックに入れていた木刀が壁にぶつかった。
「……こいつは結局使わなかったな」
木刀をリュックから引き抜いて、壁にたてかける。
それから防護服を脱いでいると——首元の部分が縦に裂けていた——沢谷の声が聞こえてきた。
「お風呂、あがったよ」
「おう。入る入る」
一歩、自分の部屋に足を踏み入れる。風呂場から学ランを着た沢谷がひょっこりと顔を出した。風呂上がりに学ラン。絶対に暑いだろう。
——親父のシャツなら、沢谷も着られるかな。
なんて考えながら、俺は歩みを進めた。
