まず水を飲んだ。
沢谷の家は背の高いブロック塀に囲まれているから、俺の姿が外から見えることはない。
次に見たのは腕時計だ。時刻は12時25分。
沢谷の家に着いた時間は、多分11時頃だから1時間以上この家の周りをうろうろしてたのか。
不審者だな。1年前だったら通報されてるぞ。
すこし余裕が出てきた俺は、縁側の前に座って栄養補助食品を食べた。味はまあまあだが、腹によく溜まる。それから水を一口飲んで、メモ帳とボールペンを取り出した。
メモ帳から紙を一枚破いて、口を引き結ぶ。
念のためのときの対応も一応考えては来た。
なんて偉そうに言ってみたけど、書くことはコレだ。
『戻ってこい。アホ』
宛名も送り主の名前もない紙を四つ折りにする。
それから板張りにされてない唯一の建造物——郵便ポケットに入れた。
沢谷がこれを見る可能性は低いだろう。だけどきっとゼロじゃない。見たって戻ってこない可能性の方が高い。だけど、1%でも可能性があるなら。
「賭けの悪いもしもばっかだ」
小さく呟いてリュックサックを背負い直し、木刀を握る。12時45分だ。……まだここに居てもいいが。
「安全を確保していても、長居は厳禁」
ゾンビに見つかるつもりはない。沢谷以外に噛まれてやる義理もない。
今日は帰ろう。帰って次の作戦を立てるんだ。
帰り道の道中はびっくりするほど順調だった。
基本的には行きに安全だったルートを通り、車道を避けて大回りをしたらこれが当たりだった。
住宅街を抜けて、俺は呆然と呟いた。
「嘘だろ? 住宅街だぞ?」
ふつうゾンビと二回くらいは遭遇するだろがい!
それともこの住宅街が特殊なのか? もしくは今日の俺がツイてるだけ?
なんとも言えない居心地の悪さを抱えながら、俺は見慣れた公園までやってきた。ここまで来ればうちまであと二十分だ。
家についたらまず汗を流そう。昼飯をもう一回食べるのもありだ。腹持ちはいいけどすこし味気ないもんな。
「おーい」
声が聞こえて止まりそうになった足を動かす。
このあたりに知り合いは住んでないし、そもそも正気の人間なら声なんてあげない。ゾンビを呼ぶかもしれないからだ。
公園を離れる。走りながら振り返ると、白い防護服を着た中肉中背の男が両手を振っていた。
「おーい、おーい。外は危ないんだよぅ」
人間だ。多分頭のネジが外れちまってる。
お前も危ないんだよ、バカ! さっさと家に帰れ!
俺は直進する場所をあえて曲がった。追いかけてくると思ったからだ。だが男は公園の中心でガキみたいに腹を抱えて笑っていた。
くそ。ここから家に帰るとなるとどの道を通る?
どれくらい大回りになる?
考えながら歩いていると、コツコツと窓を叩く音がする。
今度はなんなんだ? 無視するか?
……無視するのも厄介か。
俺は足を止めて音の方を見た。窓ガラスを叩いていたのは男で、スケッチブックを広げている。
『玄関を開ける。今は危ないから入ってきなさい』
そうスケッチブックには達筆で書かれていた。
ついでに俺は男の顔に見覚えがあった。ついこの間の配給日に声をかけてきた水島さんである。
……気づかなかった振りをしたい。
だが水島さんの顔が鬼気迫るほど真剣だったので、俺は頷いて洋風の一軒家に向かった。
「あの子は近所に住んでいる子でね。たしか高校生だったかな」
玄関にしっかりと鍵をかけた水島さんが、悲しげな顔で首を横に振る。なんだか話が長くなりそうだったので、家に上がるつもりはない旨を伝えると水島さんは残念そうだが頷いてくれた。
玄関の上がり框に座るように進められて、それには頷くと水島さんも上がり框に座った。
やっぱりこのおっさん、長話する気だな!?
「こんな世の中になる前は、毎朝犬と散歩しててね。
私が散歩をしているとおはようございますって声をかけてくれたんだ。明るいいい子だったんだよ」
適当に相槌を打つ。水島さんは目元に涙を溜めて、恥ずかしそうに笑っていた。
……ところでこれ、犬が酷い目に遭う話じゃないよな?
毎朝ご主人と楽しく散歩していた幸せな犬が、不幸になるなんとことはないよな?
「……1カ月前に犬がゾンビに噛まれたらしい」
「そっ……れは、悲しいですね」
「そうだね。それからあの子も塞ぎこんでしまって、ずっと顔を見ていなかったんだが……」
そうだね!? それだけですか!?
たぶん犬はご主人と散歩中だったんじゃねぇかな。早朝に一人と一匹で内緒の散歩。そこにゾンビが現れて、犬はご主人を守るために吠えたんじゃ……。
いや、今は勇敢な犬に思いを馳せるのは止めておこう。
水島さんの心配事はあくまであの高校生だしな。
「最近、あんな行動をとるようになったと?」
「そうなんだよ。三日前なんてゾンビを呼び寄せてね。
急いで家に入れたんだが……ずっとあの調子で」
ゾンビが庭まで入ってきたのだと水島さんは顔を青くした。防護服の頭の部分を脱がして、物理的に口を塞ぐとさすがに静かになったらしい。それは静かになるだろ。
「私はね、若者には命を大事にしてほしいんだよ。
何故なら君たちこそがこのゾンビ社会の希望だからだ」
なんか壮大な話になってきたな。そろそろ切り上げたらダメか? そんなことを考えていた俺の肩に、水島さんは両手を乗せた。
「水野くん。君もだ。
君もなにか理由があって外に出ているんだろう?」
「……そうっすね」
なんだ? このおっさんは何が言いたい?
「それはなんだい?」
「……出てった友達を探してるだけです」
「友達はどうして出ていったんだい?」
「意見の相違で、あの」
水島さんは第一印象と違っていい人だった。言ってることややってることは壮大だし、ちっとばかり過激だけど良い大人だと思う。
そういう人が言うことは、たいてい正しい。
だから俺は水島さんの言葉をこれ以上、聞いちゃいけない。しかしまるで俺の思考を察したように、肩を掴む水島さんの手に力がこもった。
「それなら彼の意思を尊重してあげるべきだ。
君が友達を探している間に、もしゾンビに噛まれてしまったらどうするんだい?」
「知れば友達は悲しむだろう。苦しむだろう。
自分の所為だと嘆くだろう」
「大事な友達にそんな思いをさせちゃいけない。
友達が君の行動を知ったら止めるはずだ。
——そんな危ないことはしないでくれって」
「大丈夫だよ。水野くんの友達ならきっと賢い子なんだろう?
今は安全な場所にたどり着いて、冷たい麦茶でも飲んでるはずさ」
視界がグラグラする。
そうだよ。沢谷は頭がいいんだ。
だから部屋を出る時は夜。俺も寝てるし、人間は出歩かないから。
あとはそうだな。
沢谷といえば律儀だ。あんな口約束、果たさなくてもよかったのにさ。わざわざイラスト入りで卵焼きのレシピを残していってくれるんだぜ。
沢谷は犬も好きだ。さっきの話を沢谷が聞いたら、黙りこんで石みたいにカチコチになってただろうな。
沢谷は、だから、沢谷は——優しいから。
優しくて頑固だから、出て行ったんだ。
でもちょっとズルいんだよ。出て行ったのは、線香花火の日の翌日じゃなかった。4日くらいたぶん迷ってたんだ。
俺たちの1週間は誰も知らなくていい。
だけど俺たちのことを何も知らないのに、正しいことを教えないでくれ。
「水野くん? 顔色が悪いが……」
「すみません。帰ります。
……助けてくれて、ありがとうございました」
水島さんに軽く頭を下げて、勝手に鍵を開けて出る。水島さんは何か言っていたけれど、追いかけてくる気配はなかった。
公園では、高校生がまだ叫んでいた。
おーい、おーい。
まるで自分の方に何かを呼び寄せようとしているようだ。
「おーい、おーい。
外は危ないよぅ。外は危ないよぅ」
急いで公園の脇を通り過ぎようと思った。7時間も歩いて肉体的にも疲れていたし、水島さんとの会話で精神的にも疲労していた。俺にこんな体力と精神力があるとはな。驚きだ。
それでもなぜか足は公園に向かっている。
馬鹿なことをするなと冷静な自分が頭の中で、叫んでいた。
「おーい、おーい」
「なぁ」
「おーい、おーい」
呼びかけても、犬を亡くした男子の言葉は変わらない。
馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿ななことはやめろよ。
ああ、本当に腹が立つ!
「もしお前の犬が、お前のために吠えたんだとしたら」
黒い目玉がグルンと回って俺を見た。
「せめてお前の犬が誇れる飼い主でいてやれよ」
それだけ言って背を向ける。俺の足は今度こそ迷いなく家の方に向かってくれた。
背後からは何も聞こえない。すごい顔でこっちを睨んでいるとかいうオチはないよな? な?
念のために背後を振り返る。公園の男子は地面に崩れ落ちて、静かに泣いていた。公園に防護服を着た男が走ってくるのが見えた。おそらく水島さんだろう。
——なんか、大丈夫そうだ。
それでも一応、遠回りをして俺は家に帰った。
玄関の鍵を開けて「ただいま」と言ってみる。「おかえり」は返って来ない。
木刀を壁に立てかけ、防護服を脱いでハンガーにかける。汗でグショグショの服を脱ぎ、風呂に入ってからベッドに直行した。
時計の短針は、5を指している。夕方だがまだ外は昼間のように明るい。それでも布団に入って「おやすみ」と呟くと、目蓋が目に覆い被さってきて——。
