水野へ
おはよう。それから約束を守れなくてごめん。
誤解してほしくないから、すこしだけ俺の話に付き合ってほしい。
この一週間は、世界一楽しい日々だった。
水野が作ってくれたご飯は何でも美味しかったし、他愛ない会話の全部を最後まで覚えていると思う。
それなら、ここを出て行かなくてもいいと君は言うだろうな。
でも、俺はこの部屋を出ていかなくちゃいけないんだ。
水野は気づいていないだろうけど、俺は二回、君に噛みつこうとした。
1回目は水野が俺を起こそうとした時で、距離が近かったからだと思っていた。
2回目は花火の時。ゾンビが去った後、君を守れて嬉しくてしかたないのに、君の首に噛みつきたくてしょうがなかった。
黙っていてごめん。俺はやっぱりもう化け物なんだと思う。
だけど水野だけは噛みたくない。これも本当だ。
だから、今夜でお別れにする。
君のことだから探そうとするだろうけど、それだけは止めてくれ。
卵焼きのレシピは、2枚目に書いておくよ。
さよなら。
沢谷春
1枚目をテーブルの上に置いて、2枚目の玉子焼きのレシピを読む。材料は卵以外ありそうだった。イラストも描かれた力作で、チビで三白眼のシェフが卵焼き器を片手に奮闘している。
それから俺は壁際に片付けられた寝袋を見た。律儀に袋に詰められた寝袋を5秒ほど眺めてから、ひんやりカーペットの上に突っ伏す。
「ふざけんなよ……マジでふざけんなよ……」
何が俺を噛みたくないからだ。俺はお前を部屋に入れた時から、たとえ噛まれても恨まない。俺の責任だって決めてるんだ。
そんな覚悟もなくちゃ、感染者を部屋にあげないからな!? 同じ部屋で暮らさねぇからな!?
たしかにお前が噛もうとした時、俺はぜんぜん気づいてなかった。だけどお前だって、俺の覚悟を見くびりすぎだ。ド阿呆!
起き上がって、沢谷の手紙を手にとる。
卵焼きのレシピに罪はないから、2枚目には触らない。代わりに1枚目はポケットに突っ込んだ。
「まずは……親父に留守電いれとくか」
ベッドサイドのスマホを手に取る。充電は40%だ。充電口にケーブルを差しながら、俺はある番号にかけた。ネットも電話も繋がらないスマホだが、この番号にだけは繋がる。災害時伝言ダイヤルだ。
念のために親父の携帯番号からの伝言を再生する。
『今日も……船が出ない……。飯はちゃんと食ってるか?』
ギュッと目をつむる。これは約3か月前の親父の伝言だ。
今日も船が出ない——そうだろな。
飯はちゃんと食ってるか?——毎日食ってるよ。
ホーム画面に戻り、俺からの伝言を録音する。
「あー、えっと。ちょっと友達とケンカしてくる。ボコボコにしてやる。親父も飯食えよ、じゃあな」
こんなもんかな。……親父が聞いたら、怒鳴り声が飛んで来そうだ。なんて考えていると腹がグウグウと鳴く。
俺はとっておきの食料を開けることに決めた。
ベッドの下に置いていた段ボールを引っ張っり出して、中身を確認する。何一つ減ってないのがまた腹が立つな。
この段ボール、食料ってデカデカと書いてあるだろうよ!
いかんいかん。怒りは空腹を悪化させる。俺はクールに箱の中からカップ麺を取り出した。
やかんでお湯を沸かしている間に、他の食料を取り出す。
やっぱり携帯食料だよな。あとは塩飴。水分はとりあえずこの500ミリペットボトルを3本持っていこう。
ピーッという音が鳴る前に火を止めて、カップ麺にお湯を注ぐ。ついでに冷蔵庫に入っていた昨日の冷やご飯も手に持つ。
テーブルの上にカップ麺と冷たいおにぎりを置き、3分間待つ。
その間もジッとしていられなくて、食料や水をリュックサックに詰めて防護服を準備した。あとこの辺りの地図。段ボールに仕舞いこんでいた腕時計もまだ動いていたので、持っていくことにする。一応、メモ帳とボールペンも入れておくか。
時計を見ると3分32秒経っていた。
蓋を開けてホカホカの麺をする。カレー味だ。お前と居る時は自炊ばっかりだったけど、こういうのも偶にはいいもんだぜ、沢谷。
〆はスープの中に冷やご飯を入れて食べる。これも美味い。でも沢谷が居たら、行儀が悪いと窘められそうだ。
それとも目を白黒させながら、付き合ってくれたかな。
「……なぁ、沢谷。ちゃんと朝飯は食べろよ」
正面の席には誰も居ない。その事実が堪らなくさみしかった。
——なんて感傷には浸ってやらないからな。
「ごちそう様でした」
手を合わせて思案する。時刻は朝の7時半。
昨日は21時くらいに寝たから、22時に沢谷が家を出て行ったとして9時間半も時間があった。
沢谷は感染者だから、ゾンビに襲われる心配をして慎重になる必要はない。だけど夜だ。昼間より歩きつらかっただろう。
それを加味すると沢谷がいける範囲はどこまでだ?
さすがにまだ都内に居ると思う。
自暴自棄になってゾンビの群れに突っ込むヤツでもない。
——見知った場所の片隅で、一人静かにその時を待つ。
沢谷はそういうヤツだ。
「となるとまずは——」
沢谷の家だ。
ペラペラの防護服に袖を通して、リュックサックを背負う。逡巡してから、俺はベッド脇の壁に立てかけられて居た木刀を手にとった。
両手で木刀を持ち、頭上に振り上げる。身体の中心を意識しながら素早く下ろす。
ややぎこちないが、防護服を着たままでも振れる。
俺は木刀を左手に持った。ふと思いついて郵便受けを探る。探していたものはすぐに見つかった。——沢谷に渡した合鍵だ。俺の部屋の鍵は昨晩と同じくきっちりとかかっている。沢谷のヤツ、部屋を出てから合鍵で玄関を閉めたな。そして合鍵は郵便受けの中へ、だ。
徹底している。手の中の合鍵の固さが、沢谷の意思の強さのように思えて俺はリュックサックに合鍵を入れた。
部屋の外に出て、自分の鍵で扉を閉める。
「空き巣にもゾンビにも入られんなよ」
こればっかりは祈るしかない。運良く空き巣やゾンビの気を引かないことを——沢谷の家で、沢谷を見つけられることを。
アパートを出て、道路の様子を確認してから小走りに移動する。俺が歩いているのは、地図の上では細い道ばかりだ。車道なんかの大きな道は近道にもなるが、ゾンビが徘徊していることが多い。外に出る時の注意事項その一は、まずゾンビに見つからないことだ。
アパートから出て30分。何とかビルを背にペットボトルの水を飲む。飲食する時はまず背後の安全に気を配ること。ビルは背を預けやすいが、上からの落下ゾンビに十分注意。
水をリュックに仕舞って歩き出す。
安全を確保しての休憩であっても、長居は禁物。
「ふう……」
軽く息をつく。幸いまだゾンビを見かけてすらいない。
これはかなりツイてるぞ——と油断も禁物。
沢谷の家までの距離は、俺のアパートからだと歩きで約1時間半だ。だが、ゾンビを警戒しながら進む今のペースだと倍の3時間はかかるとみていいだろう。
——電車が動いていた時は、こんなに遠く感じなかったのにな。
沢谷の家は、住宅街の外れにぽつんとある一軒家だ。
いわゆる築ウン百年ものの古民家で、初めて訪ねてきた時は袋に入った回転焼きと一緒に強烈な場違い感を覚え他くらいだ。
だけど沢谷の母さんも、妹も気さくで優しかった。回転焼きをちみちみと食べながら、美味しいねと笑ってくれた。
——仏壇にも回転焼き(栗入り餡子)を供えるのは、やめてほしかったけどな!?
沢谷も「栗が好きだったから、おじいちゃんも喜ぶよ」じゃないんだよ。その回転焼きはさ、隣の湯飲みに入ってるお茶の茶葉の十分の一の値段なんだよ。いや二十分の一だったかも。とにかく庶民に人気のまん丸屋には荷が重すぎたぜ。
沢谷の母親と妹。この二人の現在の状況からは、意図的に目を逸らした。
ゾンビを見たのは、その1時間後だった。
どうしても二車線ある車道の近くの道を通らなくちゃいけなかった。俺はマンションやビルの影に隠れて、極力息を殺しながらゆっくりと歩いた。本音を言うと走って通り過ぎたかった。だがアスファルトの上の足音は、想像以上に周囲に聞こえる。
運転手のおじさんを見た。小さな女の子を見た。Tシャツに短パン姿の若い男を見た。両手をあちこちに動かす同い年くらいの女子も見た。知っている学校の制服だった。
「はぁ……はぁ……っ」
20分かけて数百メートルの距離を歩き、角を曲がる。
小走りでその場を離れてから、一瞬だけ車道を振り返った。
歩いている。みんな、みんな、歩いていた。
生気のない顔。人によっては手足に怪我をしたまま。
瞳だけ真っ赤に輝かせて、ただ歩いていた。
『ゾンビは人間を食べるのか?
——答えはイエスです』
横路の声が脳内で聞こえる。おい、こんな時に冗談だろ。試しに左耳を塞いだが、声は止まない。俺はしかたなくそのまま歩き出した。
『どれだけ食べるかは個人差があります。
胃の容量の問題なのか、ゾンビを増やすことを優先しているのかはわかりません』
『ゾンビになっても大食いにはならねぇのか』
この間抜けな返しは俺だ。能天気すぎる。目の前に居たらぶん殴ってるぞ。
『ゾンビはどこを好んで食べる、とかある?』
これは沢谷。いやお前もなんでそんなこと知りたいの?
横路が眼鏡の弦を押し上げる。
『古代エジプトでは鼻水をつくるだけの腐りやすい器官と思われていた場所があります。日本でも思考する場所はお腹だと思われていたそうですね』
急になぞなぞを始めた横路は、俺たちに答えを求めることなく続きを口にした。
『ゾンビは——人間の脳を特に好んでいるという研究結果があります。もっとも頭蓋骨に阻まれて、食べる前に感染者から逃げられるというケースも多いようですけど』
横路の声が聞こえなくなった。
知っている制服を着ていた女子。あの子の頭は——
「うぐっ」
吐き気を堪える。防護服の中で吐いたら最悪だ。
俺は歩いた。もう後ろは振り返らなかった。
アパートを出てから3時間半。
俺はようやく沢谷の家に着いた。空の太陽は夏バテ知らずに元気に輝いている。防護服の下は汗びっしょりだし、水を最後に飲んだのは45分前。汗を拭きたい。水も飲みたい。
その前に沢谷の家のインターホンを鳴らそう。沢谷が飛び出して来ざるを得ないくらい連打してやる。
そう思っていたのに——
ガラスの入った引き戸の上に、板が張り付けてあった。板は釘で打ち付けられており、力を入れて引っ張ってもびくともしない。インターホンは鳴らないように、電線が切断端されたまま放置されている。
たしか広い縁側があったはずだと思い、庭を横切って確かめる。
雨戸の上からまた板が釘で張り付けてあった。
台所。トイレ。風呂場。思い出せる場所はぜんぶ調べた。
中に入れそうな場所は、どこも板が張られている……。
ここは確かに沢谷の家だ。だけど俺には中にいる者を逃さない牢獄に見えた。
「沢谷。なぁ、沢谷」
この中に居るのか? ここまでするべきだと思ったのか?
だけど何か違和感があって、もう一度家の周りを回ってみた。——出入りができそうな場所には、すべて板が張り付けてある。それなら板を張り付け終えた沢谷は、どこから家に入ったんだ?
——ここ、じゃないな。
だがそれなら沢谷は、どこに行ったんだ……?
