俺は緩む頬を押さえながら、冷蔵庫の扉を閉めた。けれどすぐに開けてしまった。この位置で大丈夫だよな? たくあんの入ったタッパーの後ろがやっぱりいいか?
1ミリでも薄く切ることに苦心したたくあんは、たった1本でタッパー一つを占領している。こいつの後ろにあるものなら、なにか分からないだろう。
だけどあんまり揺らすのもよくないしな……。
「水野?」
「麦茶か!?」
俺はさっと魔法瓶を取り出して冷蔵庫を閉じた。沢谷が訝しげに俺と冷蔵庫を見比べている。
こういう時は堂々たる姿を見せつけるが吉だ。俺は笑顔で流し台に置いてあったコップに麦茶を注いでいく。
「いや麦茶じゃなくて」
「嘘だろ……もうなみなみと注いじまったぜ……」
「いただきます」
沢谷がコップを受けとる。どうやら冷蔵庫から気を逸らせたようだな。俺も自分の分の麦茶を注いでいると、麦茶を飲み干した沢谷が首を傾げた。
「水野って夏休みの宿題、どれくらい終わってる?」
俺はコップに口をつけていなかったことを神に感謝した。夏休みの宿題。真夏の自由に浮かれる学生を強制的に机に縛りつける怖ろしいモノが、このゾンビ社会でもそういえばあったな!?
「少々……」
「どの教科を何ページ?」
「だいたいどれも5ページ?」
「自由研究と読書感想文は?」
「……手つかずです」
おかしい。宿題について淡々と聞かれているだけなのに、ヘビに睨まれたカエルの気分だ。マングースよ、早く来い!
マングースに祈る俺の前で、沢谷は端正な美貌が最も輝く表情——にっこり笑ってみせた。
「今から宿題やろうか」
「……うっす」
そして俺は背後の視線を感じながら、まずは宿題一覧の載ったプリントを本棚から探し出した。次は教科書だ。これはさほど手間はかからなかった。夏休みに入った直後にノートと共に本棚の一番下に押し込んだからだ。
自由研究は思いつかないので後回し。読書感想文の本は沢谷が選んでくれることになった。
一瞬、栞の挟まれた泉鏡花の短編集が思い浮かぶ。頭を振って追い出した。
「とりあえず現代文からやるかぁ。
え~と、6月に支給された問題文……」
休日や長期休暇以外の勉強も、勉強のやり方は基本的には夏休みの宿題と変わらない。前月の終わりの配給日に翌月の授業計画書とプリントが数枚ほど入っている。
計画書を見ながら教科書を開き、プリントに解答したり、質問を認めたりする。そして全力を叩きつけたプリントをその月の最後の配給日に、空の方のミニコンテナボックスに入れる。
すると採点されたプリントが翌月に——返ってこないんだよな!
でも毎月、授業計画書はやってくる。夏休みの宿題だってやってくる。
「誰かさ、見てくれてんのかな」
虚しいなんて思ってない。勉強がこれから先に役に立っても立たなくても、知らないことを知り考え続けることに価値はあると思う。
けどさ、淋しさっていうのか?
自分の書いたプリントがゴミ箱に無造作に捨てられている。……そんな想像はちょっとばかりする。
なんだか湿っぽい気分になっちまった。
気分転換に休憩って言ってみるか。一応時計を見てから、俺はそっと口をつぐんだ。まだ9時半だ。始めてから30分しか経っていない。
もくもくとノートをとる俺に——夏休みの宿題は、ノート一冊にまとめて提出する——沢谷が口を開いた。
「……俺の場合、だけど。ヤマ先生が見てくれてると思っ手やってる」
ヤマ先生。中学の時の数学の教師だ。本名は山本一哲でかけてる丸眼鏡が三角に見えるくらい眼光鋭く、めっちゃ厳しい先生だった。ただ厳しいのは授業中だけで、昼休みに中庭のベンチでお茶をしてたら、猫にたかられていた——なんてこともあったな。
沢谷はそんなヤマ先生を慕っていた。俺も嫌いじゃなかった。
でもヤマ先生は、中学の教師だ。高校生の俺たちの宿題を見てくれることはない。
ないんだけどさ。
「いいな、それ。俺は桜木先生にしとこう」
「あ。マッチョ先生だ」
「そうそう。今もアルコールランプでマシュマロ焼いてんのかな」
「さすがにアルコールランプじゃないと思う」
ガスコンロか? いや桜木先生ならただのガスコンロじゃない。キャンプ用のガスコンロだろう。
忍び笑いを漏らしながら、問題を解いていく。さっきよりペンが軽い。
現代文の次は化学にしよう。その次は数学だ。
じんわり暑い室内には、俺がペンを動かす音と、沢谷が本のページをめくる音だけが、ずいぶん長い間、響いていた。
太陽も中天に上り、腹の虫も主張を始める12時過ぎ。
俺は冷蔵庫の前でカチコチに固まっていた。
蓋を開けて中身を見てみる。——固まっていない。
嘘だろ!? もう3時間は経ってるぞ!?
動揺でプルプル震える腕をなだめて、俺は蓋を閉めようとして気づいた。すこしもったり感がある。
つまりまだ足りないんだ。たぶんそれだけ……だよな?
「信じるぜ……」
蓋を閉めて冷蔵庫を閉じる。さて昼飯の野菜チャーハンを作らねば!
そう思ってキッチンを振り返ると、冷蔵庫に近づく気配がある。誰だ!? 当たり前だが沢谷だ!
「まあ待て。麦茶だな?」
「そうだけど……」
冷蔵庫から魔法瓶を取り出して麦茶をそそぎ、そっと沢谷に手渡す。すると沢谷は小麦色の水面ながら一言。
「怪しい」
「何が?」
「水野が」
麦茶を手渡しただけで何故そうなる。
俺なら、サンキューですませて部屋に向かうぜ?
まあ沢谷は勘がいいからな……。
「水野は分かりやすすぎるんだよね」
「え? いま俺の脳内と会話が成立した?」
「……隠し事、してない?」
黒い瞳に見つめられ、ブルブルと首を横に振る。
沢谷はこんな時だけ、俺の顔をジッと覗きこんでくる。
——だから顔が近いんだよ、このイケメン!
俺は両手をあげて何も持っていないことを証明しながら、それでも声をあげた。
「隠し事はない。けどな、沢谷にも言えないことは……ある!」
スッと沢谷の瞳孔が細くなる。俺は沢谷の言葉を待ったが、「ふーん」と呟いて麦茶を持って部屋に行ってしまった。
沈黙がアレだ。怖い。沢谷が読んでいる本もアレだ。いや怖くない。気になるだけだ。
先ほどとは違い、息苦しさの漂う空気の中。俺は必死にペンを動かしていた。
——これ絶対になにか誤解されてるよな? なんだ? やっぱり冷蔵庫に張り付きすぎた所為か?
だが弁明の機会はなかなかやって来ない。
宿題……宿題が多すぎる! 何でこんなに多いんだ? ため込んでた俺の所為だよ!
俺はちらりと時計を見た。時計の短針はそろそろ3を指そうとしている。
話し合う機会は待つもんじゃない。作るものだ。
「沢谷。そろそろ休憩しないか?」
「……そうだね。それじゃ何か持ってくるよ」
「俺に任せろ」
素早く立ち上がって歩き出す。小ずるい手だがこういう手をとれば、接触を厭う沢谷は大人しくしててくれるはず。軽い足取りでキッチンに向かおうとする背後で、足音がした。
俺が二歩歩くと、後ろの足音は一歩歩く。俺より重い、行儀のいい足音の主はもちろん沢谷だ。
なんでそんなに気になるんだ?
いや待てよ。もしかしたら、もうわかってるのか?
だからついてくる。そう考えれば辻褄が合う。
俺は振り返った。沢谷がぴたりと足を止める。
「わかってるならしかたない」
「……水野?」
「プルプルじゃなくてもガッカリするなよ!」
「いや何が?」
俺はキッチンに向かって冷蔵庫を開けた。もう6時間だ。頼むぜ、ゼラチン!
息を止めてタッパーの蓋をあける。
朝に流しこんだ黒い液体ははたして——プルプルのコーヒーゼリーになっていた。
「沢谷、やったぞ。コーヒーゼリーができた!」
「……コーヒーゼリー?」
「本当は最後まで秘密にして驚かせたかったんだけどな」
「なるほど……」
「どれくらい食う?」
スプーンと盛り付け用の皿を取り出しながら聞くと、沢谷は真顔で言った。
「ぜんぶ」
「おいおい。ゼリー戦争はじまめる気か?」
「一口はあげるよ」
しかたねぇな。
俺は沢谷の皿に、コーヒーゼリーの山を作ってやった。
もちろん俺の分は慎ましくスプーン一杯分だ。でかいスプーンで取ったけどな。これくらいは許されるだろう。
それから俺たちは部屋に戻って、コーヒーゼリーを食べた。砂糖でほんのり甘みを足して水分多めで作ったゼリーは、スプーンで掴みにくらいプルプルしている。
だけどな、沢谷は綺麗にすくって食べちゃうワケ。コーヒーフレッシュもぶちまけないで流れるようにかけちゃうワケ。
……俺のコーヒーゼリー? ティースプーンでちびちび食べてますが?
「味は同じ味は同じ」
「うん、美味しいよ」
「味は同じ味は同じ」
「今まで一番、美味しいコーヒーゼリーだ」
「……おう」
返事が一拍遅れた。沢谷ってこういう時は恥ずかしいくらいストレートだ。困る。顔とか耳とか真っ赤になるから、非常に困る!
赤面して困り果てている俺とは違い、コーヒーゼリーですっかり機嫌をよくした沢谷は明るく尋ねてきた。
「水野は、いま食べたいものってなに?」
俺の食べたいものかぁ。そういうものは自分で作って食べるんだが、沢谷の聞きたいこととはすこし違う気がする。インスタントコーヒーみたいに滅多に手に入らないもの。自分では作れないもの……
「……お前の家の卵焼き?」
沢谷がポカンと口を開けた。よっぽど意外だったらしいが、イケメンは間抜けな顔でも絵になりやがる。
「まあ卵とか配給物質で見かけたことないしな。
レシピを知ってたら教えてくれ」
「……うん。知ってるよ」
頷いた沢谷の顔は嬉しそうだった。唇の端がわずかにあがっていて、笑っているように見えた。
本当だ。嘘じゃない。5年の付き合いだぞ、見間違えるか。
だけど、翌日。沢谷は置き手紙を残して姿を消した。
